平行世界遠眼鏡

穏人(シズヒト)

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 私は昔、何処にでもいる普通の平凡な人間でした。いえいえ、今も別に、特別な人間というわけではありませんが、しかし平凡な人間と言うのが、かつての私を言い表すのに相応しかったと思います。だって、今の私を見て、何処にでもいる普通の平凡な人間だと、当たり前のように言える人が果たしてどれだけいるのでしょうか。人間は時として、普通、平凡という言葉を、蔑みの言葉として使うことがありますが、私のような者からすれば、それは普通に平凡に生きられる者の無知から来る奢りです。世の中には、普通、平凡という言葉さえ、享受するに相応しくない哀れな人間もいるのですよ。私の姿をご覧になれば、十分おわかりいただけるでしょう。
 しかし、私も初めから、このような汚らしい身形だったわけではなかった。私も昔は何処にでもいる、普通で、ありきたりで、平凡で、ありふれた、取るに足らない、でも幸福な、ごくごく普通のヒトらしい人間として生きていました。いえいえ、今でも人間ですが。人間以外になれはしない、愚かな人間でございます。私には妻がありました。優しくて可愛くて、私などには勿体ない、ごくごく普通に何処にでもいる平凡な妻でありました。私は妻を手に入れて……この国の、もしくは人の常らしく、生活は決して裕福と言えるものではなかったけれど、それでも平凡な、普通の、ありきたりの、どうやら幸せというヤツを、世間様の人並みらしく甘受しておりました。
 ですが妻が死にました。
 死んだのです。
 誰かに殺されてしまったのです。
 犯人はわかりませんでした。警察はもちろん、必死で捜査してくれたようですが、容疑者はいれど、決定的な証拠はなく、ついに解決しないまま、事実上の捜査は打ち切られてしまったのです。非常に腹の立つ話で、私が犯人ではないのかと疑われたこともありましたが、全てを疑い、ありとあらゆる可能性を模索するのが警察のお仕事ですからね。彼らを恨んではおりません。決して恨んではおりませんとも。
 恨んではおりませんけれど、しかし、妻を殺した犯人を見つけらなかったことは話が別です。警察の捜査がどん詰まりになり、事実上打ち切られてしまっても、私は独自に、妻を殺した犯人を見つけてやろうと足掻きました。そしてできれば、この手で殺そうと思いました。妻を殺した犯人を、私は是が非でも自分の手で殺してやろうと思いました。
 私の殺意は知らずとも、私が犯人を探していることは別段隠しませんでしたから、私の知人、知り合いは、それはもう私を止めました。「そんなことをしたところで奥さんはもう戻ってこない」「復讐は何も生まない」と、いかにも親切そうな、気の毒そうな、何処かで聞いたようなセリフを並べる人がいましたが、私はそれを聞くと、そいつらの大切な人間を殺してやりたくてたまらなかった。だって彼らは、自分の大切な人をまだ殺されていないじゃないですか。自分が痛みを知らないのに、説教なんて馬鹿げている。私と同じことをされて、同じことがほざけるのか心底試してみたかった。確かに犯人を探し出しても、妻が生き返るわけではない。復讐なんてしたところで、何も生まれはしないだろう。でもね、私から妻を奪い取った犯人が、罪を逃れて今もなおのうのう生きているのかと思うと、私ははらわたが煮えくり返って、そのまま手当たり次第ぶち殺したくてたまらなくなってくるんです。私から妻を奪っておいて、のうのうと生きているなんて、他の誰が許そうとそんなの私の気が済まない。そいつの舌を切り落として、両手足の指を落として、鼻も切って、耳も削いで、目玉も抉って、脳も潰して、それら全部をそいつの口に喰わせたって気が済まない。妻が生き返らなくても、何を生まなかったとしても、ただ、ただ、私の気が済まないのです。生かしちゃおけないと思うのです。天罰が下るから、地獄に堕ちるはずだから、なんて言う輩もいましたけれど、天罰というものが存在するなら、犯人を今すぐ私の下に引き摺り出してきてほしい。地獄で下る罰なんて、そんなものに任せるぐらいなら私が裁いた方がいい。妻を奪われた私の苦しみ、幸福を奪われた私の苦しみ、そいつをそっくり犯人に、味合わせなくちゃ気が済まない。いやそもそも、罪を犯して初めて下る天罰とはなんですか。天罰なんて存在するなら、妻が殺されてしまう前になんとかしてくれりゃあいいのに。そんな、役立たず、後の祭り、頼りにならない天罰だの地獄だのを、今更信じて縋ったって仕方なくはないですか? どうしたって私は、犯人を殺してやらなくちゃとても気が済まなかった。私を間違いだと言うものは、私に大切な者を一遍殺されてもらえばいいのです。それでも私を恨まないと、殺そうなどとは思わないと、復讐は何も生まないと、そんなありふれた綺麗事を並べられたら褒めてあげる。しかし、私は優しいですから、そんな風に思うだけで、実際にそんな輩の大事な人を殺してまわりはしなかったですよ。私は温厚ですからね。私にもうひとつ人生があれば、私に二倍の時間があれば、妻を探す以外の自分か時間がもしも用意できれば、きっとあいつらの大事な人間を殺してやったのに。ははは。
 そんなわけで私は、妻を殺した犯人を探し、そして殺してやるために、この愚かな男ひとりぼっちの独自の捜査を開始しました。素人の浅知恵でしたけれども。街頭に立ち、声を上げ、ビラを配り続けました。私は妻を殺されました、最愛の妻でした、何か知っている方はいませんか、お願いです、助けてください。しかし足を止める者はいなかった。掛かってくる電話は全て悪戯目的だった。それでも、妻を殺した犯人を求め、来る日も来る日も彷徨い続け、そしてあの日私は、この遠眼鏡に出遭ったのです。この河原でした。丁度今のあなたのように、当てもなくふらふらと彷徨い歩いていた時に、ここで遠眼鏡を眺めている汚い老人に出遭ったのです。そう、正しく今のあなたのように。私はあなたのように老人に声を掛け、あなたのようにこの遠眼鏡のことと、そして遠眼鏡を所有していた老人の話を聞きました。私が聞いた話については、関係ないので省略しますが、とにかく私は老人から話を聞き、そして数日後、老人から、遠眼鏡を譲り受けたのです。どういう経緯で? それは話を最後まで聞けばおのずとわかると思います。
 私が遠眼鏡を譲り受けようと思った理由は、もちろん妻を殺した犯人を探すためでした。私は私なりに、犯人を探そうと懸命の努力をしていましたが、専門家である警察がついぞ見つけられなかったものを、素人の私が、執念だけで、どうして為すことができるでしょうか。何年掛かっても、人生全てを棒に振っても、と決心はしておりましたが、実際のところは、どうしようもなさ、凡人ゆえの無力さに、途方に暮れていた頃だったのです。
 しかしこの遠眼鏡の力があれば……ああ今は、この遠眼鏡で並行世界が見えるということが真実と思ってお聞きください。心配せずとも、焦らずとも、きっとあなたにはわかります。すぐに。……この遠眼鏡の力があれば、私は、別世界の妻を殺した犯人を、探し出せると思ったのです。どう弄ったところで、この遠眼鏡で私のいる、この世界の事柄を覗き見るのは不可能です。しかし並行世界、こことは別の世界であれば、私は私の望むことをなんでも覗き見られるのです。例えば、妻を殺した犯人の、姿も、居所も、現状も。
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