書簡体小説集、綴

穏人(シズヒト)

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やどかり

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 何の変哲もない日でした。季節的には秋になり、それでも残暑はいまだ厳しかったのですが、日が落ちるのだけは早くなった九月末の、少し先の見えづらい誰そ彼時の時分でした。
 僕はその日も、なんら変わることはなくひとりぼっちで歩いていました。人間達は他愛ない話で笑いながら帰路に着き、あるいは部活なんかをして楽しそうにはしゃいでいました。僕はそんなものには縁遠い出来損ないなので、相も変わらず傷付きながらひとりとぼとぼと歩いていました。
 本当に僕は、何故こんな出来損ないなんだろう。僕と、あの人間達の一体何が違うのだろう。僕はどうして、どうして、どうして……ということを、つらつらと考えながら道を歩いていきました。そんなことを考えるのはもちろん辛いことでしたけど、何度やめようと思っても考え始めてしまいますし、それに、その頃の僕は家に帰り、両親に冷たい目で見られることも辛いと感じていた時期でしたから、少しでも家へ到着することを遅らせるため、遠回りをしてのろのろと家へと近付いていたのです。
 そんな時のことでした。その時の僕より、数メートル程先で、一人の人間がふらふらしながら歩いているのを見つけたのは。後ろ姿で、先に述べたように大分暗くなっていたので、その時点でははっきりとは目視できませんでしたけれど、当時の僕と同じような制服姿に思われました。随分頼りない足取りで、随分奇妙な動き方をする人間だなと思っていると、突然、糸が切れた人形のようにアスファルトの上に倒れました。とりあえず進行方向にいたので、僕はそのまま速度を変えず歩いていくことにしたのですが、僕が辿り着いても人間は倒れたままでした。それに対し、僕は対処法らしい対処法を思い付けなかったので、倒れている人間をそのまま見下ろすことにしました。
「……、……」
 どうすればいいのだろう。見下ろしてみたはいいものの、やはりそれ以上のことは何も思い付きませんでした。だって、倒れた人間に出会したのは初めてのことだったのです。このまま立ち去った方がいいのか。それとも立ち去らない方がいいのか。立ち去ってもいい気がするけれど、でも人間が倒れているのを放置してもいいのだっけ……判断がつきかねたので、仕方無くそのままぼうっと見下ろしていたのですが、やはり倒れた人間にこれといった動きはありません。とりあえず見続けていても仕方がないので、思いあぐねた末に、声を掛けてみることにしました。
「あ、あのう……もしもし……」
 返事はない。とりあえず、口をついた言葉をそのまま言ってはみたけれど、掛ける言葉を間違えてしまっただろうかと思いました。そう思って自分の脳をまさぐってもみましたが、しかし他に適切な、倒れた人間に掛けるべき言葉は見つかりませんでした。その出来損ないっぷりに落ち込みそうにもなりましたが、しかし目の前に人間が倒れている状況に変わりはありませんので、とりあえずもう一度声を掛けてみることにしました。
「あ、あのう……もしもし……」
 やはり返事はない。倒れたままぴくりとも動かない。一体どうするべきなのだろう。わからないので仕方なく人間を見続けてみましたが、やはり「人間が倒れている」以上にわかることはありません。
 と、一通り逡巡してようやく、こういう時に掛けるべき言葉を思い出しました。「あの、大丈夫ですか」という言葉です。これも、普通の人間だったら即座に思い付いたかと思うと、今これを書いている最中にも恥ずかしくなってしまうのですが、その言葉を使う機会が自分に訪れたことに、なんだか照れくさいような思いを同時に感じていました。他に仕様も無いし、僕は一生懸命言葉を吟味し、心の内で何度もシュミレートした後、言いました。
「あの、大丈夫……ですか?」
 でも、やはり返事はない。なかなか上手く言えたと思うし、せっかく人間らしいことができたのに、とガッカリしてしまいましたが、でも本当に上手く言えたんじゃないだろうかと少し自信もありました。僕がもっと幼ければ、両親に自信満々に報告していたかもしれません。それぐらい、あの言葉は上手に言えたと思います。
 しかし反応がないのでは仕方が無い。僕はいよいよ途方に暮れてしまいましたが、かと言って人間を置いて帰る、という選択もできませんでした。根拠はよくわかりませんが、倒れた人間を置いて帰るのは良くないような気がしたのです。と言って、仕様もわからない。ではさて、どうしようかと再び人間を見下ろした時、僕はふと、何か妙な違和感があることに気が付きました。アスファルトの上に人間が倒れているのですから当然かもしれませんが、それとはまた違う、妙な違和感を感じました。いつのまにやら日は暮れていたらしく、外灯の薄ぼんやりとした余波だけが視界の頼りになっていました。あの、外灯の特有の妙に暗いオレンジ色の中、僕は人間を観察して、ようやく妙な違和感の正体に気が付きました。
 その人間の背中が、ぱっくりと割れていたのです。
 僕の貧相な語彙力で正確に例えられているかはわかりませんが、割れたあけびのよう、というのが適切だったと思います。あるいは、背中の開いた着ぐるみか。その後の使用方法を考えるなら、背中の開いた着ぐるみの方が適していたかもしれませんが、ともかく、その人間の背中がぱっくりと開いていたのです。僕はそれを、怪我でもしたのかと判断するのが適切だったかもしれませんが、当時の僕にそのような思索をすることは微塵もできず、ただ、その割れ目が気になったので、割れ目に触れてみることにしたのです。触れてみるとやはり割れ目でした。手を入れられそうな余地がありました。なので、僕は衝動に従い、そこに手を入れてみました。人体に手を入れたのははじめてのことでしたけど、僕がなんとなく想像する人間の中身とは違っていました。中は滑らかな袋状で、中身らしいものは入っておらず、着ぐるみに手を突っ込んだらこんな感じだろうと思いました。ただし素材は布ではなく、人間の皮膚の感触が一番近かったように思います。湿っているわけではない。かと言って乾いているわけでもない。これといった温度はない。強いて言うならほんのりと温かみがあったかもしれない。固くはないが柔らかいとも言い難い。人間の内部はそんな風に感じられました。
 まだ奥がありそうだったので、僕は入れた右手をさらに、前腕の中程まで突っ込みました。次に肘まで、次に肩まで。僕の片腕はなんの抵抗もなくするりと入ってしまいました。僕はさらに、頭も中に突っ込んでみました。何も見えませんでしたけれど、特に抵抗らしい抵抗はなくするりと入ってしまいました。僕は急に恐ろしくなり、一度頭を出しました。息は荒くなり、まだ暑かったはずなのに、掻いた冷や汗に風が当たって身体は嫌に冷えていました。
 しかし、確かに感じたはずの恐れと寒さは、込み上げたのと同等に急速に消えてなくなりました。代わりに湧き上がった衝動が、恐怖も寒さもあっという間に何処かに追いやってしまいました。
 このまま、この人間の中に這入り込んでしまったら、僕は人間になれるのではないか。
 これを読んでいるあなたは、馬鹿な考えだと思うでしょうか。何故、そんな荒唐無稽なことを考えたのかと思うでしょうか。もしかしたらあなたの思うように、荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい考えだったかもしれません。しかし僕の脳にその考えは実際に浮かんでしまいましたし、それに、考えれば考えるほどいいアイディアに思えました。
 先に述べたように、僕は出来損ないの欠陥品です。他の人間達のように、人間の間に上手く入り込むことができません。人間の間に入るために必要な何かが欠けている。
 でも、それは、つまり、例えば、まともな人間の何かをそっくりそのまま拝借できれば、僕も十全のまともな人間になれるのではないでしょうか。おかしい考えだと思いますか。おかしい考えかもしれませんね。でも、だとしても、僕はその考えを思い付いてしまいましたし、そのおかしさを吟味している余裕はありませんでした。吟味をするよりも先に、僕の身体が正直に反応していたからです。それを考え付いた瞬間に、僕は涙と唾液を同時にだらだらと零していました。それは欠陥品であることを悲しむ涙と、人間になることを欲してあふれ出た唾液でした。欠陥品であることを悲しむ心と、人間になることを欲してあふれ出た心でした。除け者は嫌だ。欠陥を直したい。人間の間に入りたい。まともで普通な人間というものに僕もなりたい。それがどんなにおかしい、支離滅裂な考えだとしても、その時の僕には試す以外に道はありませんでした。そして幸いなことに、試すための環境はすぐ目の前に転がっていました。
 僕は涙と唾液を零したまま、まずは倒れている人間の中に片足を入れてみることにしました。予想通り、右足はなんの妨げも無くするりと人間に這入りました。僕は反対の足も入れました。なんの妨げもなくするりと這入り、僕は上半身だけを外に出している格好になりました。
 両腕を入れました。胴もそのまま入れました。最後に頭を突っ込むと、僕は人間を着ぐるみのように着た格好になりました。人間の中に這入り込んでも、拒絶はされませんでした。受け入れられているという感覚もなかった。気色悪さはなかった。幸福感もなかった。ただ、気が付けば僕だけが在り、ただし身体は僕ではないものに変わっていました。
 僕は歩き始めました。いつの間にか成った夜の中、月だけが僕を見下ろしていました。僕の着ぐるみになってくれた人間の記憶がまるで自分のもののように感じました。僕の脳にぴったりとくっついた人間の脳が、僕が帰るべき慣れ親しんだ家を教えてくれました。
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