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やどかり
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「お帰り、孝志」
人間の中に入った僕は、そんな優しげな言葉であなたに出迎えられました。僕とあなたがはじめて出逢ったのもこの時でしたね。今までの僕であれば、そんな言葉を掛けられたらきっとまごついていたでしょうが、家の場所を教えてくれたように、人間の脳はするべき対応を自然と教えてくれました。
「ただいま」
「お風呂、先に入る?」
「ん」
そんな短い返事をして、鞄を置き、何を躊躇うこともなく風呂場に行って制服を脱ぐ。それらのことが、ごく自然に行えることに感動を覚えました。その時代の僕といったら、両親への一挙手一投足にさえまごつくような有様でしたから、躊躇いなく動けることが新鮮で仕方なかったのです。
風呂を済ませ、髪を拭きながら居間へ行くと、あなたは既に温かい食事を用意しておりました。僕にとっては美味しそうな、立派な食事に見えましたけれど、口から飛び出してきたのはまったく違う言葉でした。
「また野菜炒めかよ」
「ごめんね、お金厳しくて」
「たまには焼肉とか食いてえなぁ」
「ボーナスが入ったら、ね?」
僕は、そのやり取りに、またもや感動を覚えました。そんな、せっかく作ってもらった食事に文句を言うなんて横暴を当たり前のように行って、それを優しく受け止められて、あまつさえ謝罪まで述べてもらえる、そんな厚遇を与えられたことはまさに青天の霹靂でした。しかもそのことに対して、思い悩むことさえない。以前の僕であれば、言い方を間違えていなかったか、他に何か言いようがあったんじゃないか、そもそも口を開くべきではなかったんじゃないかと考えざるを得なかったのに、何も浮かばない。なんの惑いも浮かんでこない。恐怖も不安もなく、それが当たり前という感覚しか存在していないのです。
感動はまだ続きました。翌日、家を出た僕は、いつものように学校に行き、教室へと向かいました。その道中の輝いて見えたことと言ったら! 僕の見ている世界は常にフィルターが掛かったように薄暗く、見る度に陰鬱になるような風景でした。視界に映る人間達はことごとく僕を疎外していて、僕は人間達の除け者なのだと認識せざるを得ませんでした。
しかしこの身体になった翌日は。世界がとても明るかった。疎外感は感じなかった。人間達の動きはまったく変わらないはずなのに、彼等に対する僕の心持ちは一変していました。その瞳が僕を見ず、僕には聞こえない音量でべちゃべちゃと喋っていたとしても、何も気にならなかった。僕はこの世界の一員なのだという安心と確信が無根拠にあった。
教室に入ると僕の知らない人間がいました。以前の僕とは違う教室に入ったのですから、当然と言えば当然でしたが。まあ、以前の僕にとって、人間は僕を疎外するだけの残酷な存在でしたから、まったく知らない人間だとして大差はなかったのですけれど、それでも、一切の面識のない人間であることに変わりはありません。心臓が張り裂けそうなほどドキドキしていましたけれど、脳は然るべき対応を当たり前に教えてくれました。
「はよ」
「はよ」
「おはよ」
「○○見た?」
「あー、あれヤッバ」
「○○ダサすぎっしょ」
「それなー」
そんな、僕にとっては聞き取りも難しい言葉の羅列が、さも当たり前のようにするすると僕の口から出てきたのです。しかも唇の開き方、舌の動かし方、喉の震わせ方、表情、姿勢、顔の傾け方、立ち位置、足の置き方、身振り手振り、それら、その他の一切が、何を惑うこともなく自然に、当たり前に、できるのです。どうすればいいのかなんて脳を探る必要はない。挙動を間違っていないかと惑う必要も一切ない。それが当然と言わんばかりに堂々と行える。そして、当たり前のように、人間に受け入れられている。
僕は僕の企みが成功したことに有頂天になりました。思った通りだ。僕はようやく普通の人間になれたんだ! 僕はもう、人間を前にして、どのような言動をすればいいか無様にまごつくことはないし、自分の行動が間違っていないか一喜一憂することもない。
また人間達に対する感覚も一変していました。端的に言えば、人間達に対する恐怖を感じなくなっていたのです。自分が拒絶されていると感じることもないし、人間の間に入っていない時間を不安に思うこともない。人間の間に入りたいと思えば何の抵抗もなく入っていけるし、出て行きたいと思えば好きな時に出て行ける。そっぽを向かれてもなんとも思わないし、そっぽを向いても何を思うこともない。
こんなに簡単なことだったんだと思いました。人間というものを、理解できた気がしました。人間になれたような気でいました。懸念することなどもう何もないような気がしました。
人間の中に入った僕は、そんな優しげな言葉であなたに出迎えられました。僕とあなたがはじめて出逢ったのもこの時でしたね。今までの僕であれば、そんな言葉を掛けられたらきっとまごついていたでしょうが、家の場所を教えてくれたように、人間の脳はするべき対応を自然と教えてくれました。
「ただいま」
「お風呂、先に入る?」
「ん」
そんな短い返事をして、鞄を置き、何を躊躇うこともなく風呂場に行って制服を脱ぐ。それらのことが、ごく自然に行えることに感動を覚えました。その時代の僕といったら、両親への一挙手一投足にさえまごつくような有様でしたから、躊躇いなく動けることが新鮮で仕方なかったのです。
風呂を済ませ、髪を拭きながら居間へ行くと、あなたは既に温かい食事を用意しておりました。僕にとっては美味しそうな、立派な食事に見えましたけれど、口から飛び出してきたのはまったく違う言葉でした。
「また野菜炒めかよ」
「ごめんね、お金厳しくて」
「たまには焼肉とか食いてえなぁ」
「ボーナスが入ったら、ね?」
僕は、そのやり取りに、またもや感動を覚えました。そんな、せっかく作ってもらった食事に文句を言うなんて横暴を当たり前のように行って、それを優しく受け止められて、あまつさえ謝罪まで述べてもらえる、そんな厚遇を与えられたことはまさに青天の霹靂でした。しかもそのことに対して、思い悩むことさえない。以前の僕であれば、言い方を間違えていなかったか、他に何か言いようがあったんじゃないか、そもそも口を開くべきではなかったんじゃないかと考えざるを得なかったのに、何も浮かばない。なんの惑いも浮かんでこない。恐怖も不安もなく、それが当たり前という感覚しか存在していないのです。
感動はまだ続きました。翌日、家を出た僕は、いつものように学校に行き、教室へと向かいました。その道中の輝いて見えたことと言ったら! 僕の見ている世界は常にフィルターが掛かったように薄暗く、見る度に陰鬱になるような風景でした。視界に映る人間達はことごとく僕を疎外していて、僕は人間達の除け者なのだと認識せざるを得ませんでした。
しかしこの身体になった翌日は。世界がとても明るかった。疎外感は感じなかった。人間達の動きはまったく変わらないはずなのに、彼等に対する僕の心持ちは一変していました。その瞳が僕を見ず、僕には聞こえない音量でべちゃべちゃと喋っていたとしても、何も気にならなかった。僕はこの世界の一員なのだという安心と確信が無根拠にあった。
教室に入ると僕の知らない人間がいました。以前の僕とは違う教室に入ったのですから、当然と言えば当然でしたが。まあ、以前の僕にとって、人間は僕を疎外するだけの残酷な存在でしたから、まったく知らない人間だとして大差はなかったのですけれど、それでも、一切の面識のない人間であることに変わりはありません。心臓が張り裂けそうなほどドキドキしていましたけれど、脳は然るべき対応を当たり前に教えてくれました。
「はよ」
「はよ」
「おはよ」
「○○見た?」
「あー、あれヤッバ」
「○○ダサすぎっしょ」
「それなー」
そんな、僕にとっては聞き取りも難しい言葉の羅列が、さも当たり前のようにするすると僕の口から出てきたのです。しかも唇の開き方、舌の動かし方、喉の震わせ方、表情、姿勢、顔の傾け方、立ち位置、足の置き方、身振り手振り、それら、その他の一切が、何を惑うこともなく自然に、当たり前に、できるのです。どうすればいいのかなんて脳を探る必要はない。挙動を間違っていないかと惑う必要も一切ない。それが当然と言わんばかりに堂々と行える。そして、当たり前のように、人間に受け入れられている。
僕は僕の企みが成功したことに有頂天になりました。思った通りだ。僕はようやく普通の人間になれたんだ! 僕はもう、人間を前にして、どのような言動をすればいいか無様にまごつくことはないし、自分の行動が間違っていないか一喜一憂することもない。
また人間達に対する感覚も一変していました。端的に言えば、人間達に対する恐怖を感じなくなっていたのです。自分が拒絶されていると感じることもないし、人間の間に入っていない時間を不安に思うこともない。人間の間に入りたいと思えば何の抵抗もなく入っていけるし、出て行きたいと思えば好きな時に出て行ける。そっぽを向かれてもなんとも思わないし、そっぽを向いても何を思うこともない。
こんなに簡単なことだったんだと思いました。人間というものを、理解できた気がしました。人間になれたような気でいました。懸念することなどもう何もないような気がしました。
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