書簡体小説集、綴

穏人(シズヒト)

文字の大きさ
5 / 18
やどかり

5

しおりを挟む
「お帰り、孝志」
 人間の中に入った僕は、そんな優しげな言葉であなたに出迎えられました。僕とあなたがはじめて出逢ったのもこの時でしたね。今までの僕であれば、そんな言葉を掛けられたらきっとまごついていたでしょうが、家の場所を教えてくれたように、人間の脳はするべき対応を自然と教えてくれました。
「ただいま」
「お風呂、先に入る?」
「ん」
 そんな短い返事をして、鞄を置き、何を躊躇うこともなく風呂場に行って制服を脱ぐ。それらのことが、ごく自然に行えることに感動を覚えました。その時代の僕といったら、両親への一挙手一投足にさえまごつくような有様でしたから、躊躇いなく動けることが新鮮で仕方なかったのです。
 風呂を済ませ、髪を拭きながら居間へ行くと、あなたは既に温かい食事を用意しておりました。僕にとっては美味しそうな、立派な食事に見えましたけれど、口から飛び出してきたのはまったく違う言葉でした。
「また野菜炒めかよ」
「ごめんね、お金厳しくて」
「たまには焼肉とか食いてえなぁ」
「ボーナスが入ったら、ね?」
 僕は、そのやり取りに、またもや感動を覚えました。そんな、せっかく作ってもらった食事に文句を言うなんて横暴を当たり前のように行って、それを優しく受け止められて、あまつさえ謝罪まで述べてもらえる、そんな厚遇を与えられたことはまさに青天の霹靂でした。しかもそのことに対して、思い悩むことさえない。以前の僕であれば、言い方を間違えていなかったか、他に何か言いようがあったんじゃないか、そもそも口を開くべきではなかったんじゃないかと考えざるを得なかったのに、何も浮かばない。なんの惑いも浮かんでこない。恐怖も不安もなく、それが当たり前という感覚しか存在していないのです。
 感動はまだ続きました。翌日、家を出た僕は、いつものように学校に行き、教室へと向かいました。その道中の輝いて見えたことと言ったら! 僕の見ている世界は常にフィルターが掛かったように薄暗く、見る度に陰鬱になるような風景でした。視界に映る人間達はことごとく僕を疎外していて、僕は人間達の除け者なのだと認識せざるを得ませんでした。
 しかしこの身体になった翌日は。世界がとても明るかった。疎外感は感じなかった。人間達の動きはまったく変わらないはずなのに、彼等に対する僕の心持ちは一変していました。その瞳が僕を見ず、僕には聞こえない音量でべちゃべちゃと喋っていたとしても、何も気にならなかった。僕はこの世界の一員なのだという安心と確信が無根拠にあった。
 教室に入ると僕の知らない人間がいました。以前の僕とは違う教室に入ったのですから、当然と言えば当然でしたが。まあ、以前の僕にとって、人間は僕を疎外するだけの残酷な存在でしたから、まったく知らない人間だとして大差はなかったのですけれど、それでも、一切の面識のない人間であることに変わりはありません。心臓が張り裂けそうなほどドキドキしていましたけれど、脳は然るべき対応を当たり前に教えてくれました。
「はよ」
「はよ」
「おはよ」
「○○見た?」
「あー、あれヤッバ」
「○○ダサすぎっしょ」
「それなー」
 そんな、僕にとっては聞き取りも難しい言葉の羅列が、さも当たり前のようにするすると僕の口から出てきたのです。しかも唇の開き方、舌の動かし方、喉の震わせ方、表情、姿勢、顔の傾け方、立ち位置、足の置き方、身振り手振り、それら、その他の一切が、何を惑うこともなく自然に、当たり前に、できるのです。どうすればいいのかなんて脳を探る必要はない。挙動を間違っていないかと惑う必要も一切ない。それが当然と言わんばかりに堂々と行える。そして、当たり前のように、人間に受け入れられている。
 僕は僕の企みが成功したことに有頂天になりました。思った通りだ。僕はようやく普通の人間になれたんだ! 僕はもう、人間を前にして、どのような言動をすればいいか無様にまごつくことはないし、自分の行動が間違っていないか一喜一憂することもない。
 また人間達に対する感覚も一変していました。端的に言えば、人間達に対する恐怖を感じなくなっていたのです。自分が拒絶されていると感じることもないし、人間の間に入っていない時間を不安に思うこともない。人間の間に入りたいと思えば何の抵抗もなく入っていけるし、出て行きたいと思えば好きな時に出て行ける。そっぽを向かれてもなんとも思わないし、そっぽを向いても何を思うこともない。
 こんなに簡単なことだったんだと思いました。人間というものを、理解できた気がしました。人間になれたような気でいました。懸念することなどもう何もないような気がしました。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

意味が分かると怖い話【短編集】

本田 壱好
ホラー
意味が分かると怖い話。 つまり、意味がわからなければ怖くない。 解釈は読者に委ねられる。 あなたはこの短編集をどのように読みますか?

近づいてはならぬ、敬して去るべし

句ノ休(くのやすめ)
ホラー
山中、もしあなたがそれに出会ったら…… 近づいてはいけない。 敬して去るべし。   山を降りろ。   六年勤めた会社を辞めた。お荷物だとはわかっていたし、むしろ清々しくもあった。 28歳のコウイチには、仕事より大切なものがあった。 田舎歩きだ。そこ大事なのが学生のときにかじった民俗学だ。廃集落、古い祠、忘れられた神々——それを訪ねることは、彼のたった一つの愉しみだった。   大学時代、民俗学の講義で准教授はこう言った。「神々は神ではない」。人が畏れ、従い、忖度したものがかみになる。その言葉がコウイチを変えた。 会社の営業で関東のあちこちを歩きまわった。コウイチは仕事よりも土地の古老の話に耳を傾けることに熱中したほどだった。   失業後、ふと見つけた資料にコウイチは目を奪われた。 「名付け得ぬ神」。 東京の西、檜原村の奥深く、コボレザワという場所にその祭祀を担った一族がいたという。山奥には祠があるらしい。だがもう六十年も前に無人になってしまっているようだ。   コウイチは訪ねてみることにする。 道中、奇妙な老人に出会う。一人目は気のいい古書店主。二人目は何かを知りながら口を閉ざす資料館の老人。そして三人目は——   深い山中でコウイチはついに祠を見つけた。巨大な岩を背にした祠は古び、壊れていたが、まだ人が来ている痕跡があった。 不穏な気配にコウイチは振り向くが、なにもない。 日本の中心地・東京。そこからわずかにはずれた山の中に潜む秘密をめぐる奇譚。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

意味がわかると怖い話

邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き 基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。 ※完結としますが、追加次第随時更新※ YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*) お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕 https://youtube.com/@yuachanRio

処理中です...