書簡体小説集、綴

穏人(シズヒト)

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やどかり

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 その日から僕の人生は天国も同然でした。何も苦しむことはない。思い悩むこともない。悩まなくても、苦しまなくても、僕の新しい身体は当たり前のように僕に答えを教えてくれる。
 そのあまりの当たり前ぶりに、僕は考えすぎをしていたんじゃないかとさえ思いました。頑張れ頑張れと言われたからがむしゃらに頑張っていたけれど、やはりその言葉掛け自体が間違っていたんじゃないだろうか。僕に必要だったのはほんのちょっとのきっかけで、例えば肩の力を抜いて、自然に振る舞えばいいと言われたら、僕はもうそれだけで人間をやれていたんじゃないか。適切ではない声掛けのせいで、意味も無く追い詰められていただけで、本来の力が発揮できていなかっただけなんじゃないか。そんな風に思うぐらい、僕は本当に上手に、人間をやれていたのです。あまりにも簡単に、人間をやれていたのです。勘違いするぐらい、人間をやれていたのです。本来の僕という人間になれたような気がしたのです。
 しかしその安心こそが、圧倒的な間違いでした。
 人間の身体に入り込んで何十日か経った日のこと。朝、起きた瞬間から妙な違和感がありました。身体が錆び付いているような、視界が一段階薄暗くなっているような。その妙な違和感に首を傾げつつも下に降りると、あなたはいつものように朝食の用意をしていました。
「おはよう」
「……おはよ」
 それだけを言ってトイレに行き、用を足し、顔を洗い、席に着いて朝食をいただく。それは人間の身体に入ってから、幾度となく繰り返された日常になっていました。あなたは女手ひとつで息子を育てていましたから、聞こえてくるのは惰性でつけているテレビの音だけでした。僕はその静かな日常を、とても愛しく思っていました。
「それじゃあ母さん仕事に行くから、鍵をよろしくね」
「……はい」
 僕の声に頷くと、あなたはいつものように出て行きました。僕は朝食を食べ終えると、皿を洗い、制服を着て学校へと向かいました。学校に近付くにつれて人が増えていきました。
 日常となったはずの光景。しかしその日の僕は、日常となったはずのその光景にざわざわしたものを覚えました。なんだか落ち着かないような、その雑多な気配が恐ろしくてたまらないような。その前日までは、何を思うこともなかったのに。当たり前に受け入れられているような、そんな気分でいられたのに。なのに、その日は、なんだか首のあたりが妙で、砂のように細かい無数の虫が、ざわざわと這っているようでした。まるで、人間の身体に入り込む前の僕の人生のようでした。
 しかし僕は、そんなことは考えるだに恐ろしく、浮かび上がったその例えを慌てて脳から打ち消しました。そして、何食わぬ顔で学校に着き、靴を替え、教室に向かいました。教室に入ると、級友が僕を見て親しげに片手を上げました。
「よ、おはよ」
 僕もそれに、当たり前に、応じようと思いました。しかしその瞬間、僕は中途半端な姿勢のまま固まってしまいました。そこで手を挙げるのが正解かどうか、わからなくなってしまったのです。手を挙げるのが正解なような気はしました。しかし、本当に手を挙げるのが正しいのか、自信が持てなくなりました。もし間違えて気分を害されて、そっぽを向かれたらどうしよう。いや大丈夫。人間はそんな程度で気分を害したりなんてしない。本当に? 人間達が笑った時に、真似をして笑って空気が凍った、あのことをもう忘れたのか?
 湧き上がったその思考に、心の底からゾッとしました。確かにそんなこともありました。しかし、僕はもう、あの時とは違うのです。違う人間になれたのです。本当の人間になれたのです。本当に? 本当さ、だって。顔を上げた瞬間、視界がグラつくのを感じました。眼球、足下、世界、全てが歪んでいるように感じました。「おい、どうした?」僕が人間になれたのは、僕がこの人間の身体に入り込んだからで、でも、だから、僕は人間になれたはずです。僕は人間になれたはずなんです。自分の思うとおりに動いて、間違いはないはずなんです。その考えが正しいって保証は一体何処にある。いや違う。僕は人間だ。人間になれたんだ。正しい人間っていうヤツをやれるようになったんだ。だから、だから、でも、僕の脳は答えを返してくれません。「おい、どうした聞こえてんのか!?」
 僕は顔を上げました。目の前に見知らぬ人間がいました。いえ、知っているはずでしたが、もう知らない人間でした。そこにいるのは、人間を目の前にして、魚のように口をパクパクさせる無様な僕だけでした。
「なあ、どうしたんだ?」
「こいつの様子がおかしいんだよ」
「うわ、顔真っ青だぜ? 大丈夫?」
「保健室に連れて行った方がいいんじゃねえか?」 
 多分、彼等は親切な人間だったのでしょう。その言葉、その表情、まるで僕を慮っているかのように見えました。けれど僕はその親切に、どう応えていいのかさっぱりわからなくなっていました。言うべき言葉が見つからなかった。人間の仕方がわからなかった。急に現れた空白に、僕はパニックになっていた。
「あ、ああ、う、うう、う」
「おい、本当にどうしたんだよ」
「とりあえず座った方がいいんじゃないか?」
「誰か先生呼んでこい」
「う、うう、うわあああああっ!!!」
 僕は走り出しました。逃げるように。僕の運命から逃げるように。不吉な予兆を振り払うように。人間でいられるように。でも、その行動も間違いだったのかもしれません。僕が逃げるべきは人間ではなく、この出来損ないで欠陥品の僕自身からなのですから。
「あ、ああ、う、うっ、う、う、うう、ああ」
 それでも僕は走り出し、学校からも逃げ出して、人間のいない方へ向かって必死に走っていきました。多くの人間の目が僕を見て、そして逸らしていくのが見て取れました。幻覚だったかもしれません。でも僕は、そのように感じていました。
 気が付けば僕は、誰もいない橋の下でガタガタと震えていました。歯がガチガチと鳴っていました。目から涙がダラダラと流れ落ちているのがわかりました。
 僕は僕の人間を必死に思い出そうとしました。正しい人間というヤツを。人間のやり方というヤツを。けれど不思議なことに、あるいは残酷なことに、僕はそれ以降僕の中の人間を見つけることはできませんでした。
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