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~第一幕~
はじまりの幻夢 Chapter.1
しおりを挟むエレン・アルターナが見る幻夢は、日々鮮烈になっていった。
自分ではない〈自分〉が静かに深い殺意によって人々を手に掛ける──そんな悪夢が彼女の健常を蝕みつつある。
さりながら、それを吐露する事は憚られた。
持ち前の内向的性格に依るところも大きいが、何よりも斯様な事を公言すれば精神異常の予備軍と警戒視されても不思議ではない。
対象とされる〈夢〉は通常の悪夢ではなく、おどろおどろしい〝殺人〟や〝破壊〟の衝動を帯びている。
それも〝される側〟ではなく〝する側〟だ。
そんな懸念材料が〈領主〉の耳へ届けば心底に社会的不満を抱いているとレッテルを貼られてもおかしくはないだろう。
そうなれば如何なる処分を下されようか……。
それが恐ろしい。
ともかく、だからこそ、父〝アンドリュー・アルターナ〟の手伝いに従事する。
現実逃避の碑文解析であった。
闇暦二十六年、エジプト首都カイロ──。
現世魔界特有の日中は晴れぬ黒雲によって陽光を阻み、曇天宛らの情景を生む。それでも不可思議な事にジリジリとした熱帯気候が維持されているのは、果たしてエジプト土着の太陽神〈アメン・ラー〉が神力による微かな抵抗を見せているからであろうか。
ともあれ、やはり夜間よりかは遥かに人間の活動時間帯と機能していた。
街辻には細々ながらも人々が行き交い、諸々の私用を今の内に済まそうと勤しむ。
エレン・アルターナもまた、そうした流動の一葉であった。
年齢は十九歳──もうすぐ二〇歳になるらしいが、まだまだあどけなさが童顔めいて残っている。
血筋としてはイギリス人になるが、そもそも人間社会の構造が瓦解した闇暦では意味を為す情報でもないだろう。
襟首でショートボブと切り揃えた金髪に、白花の色香を醸す柔肌。熱帯気候への抵抗と纏う半袖シャツとホットパンツがそれを際立たせ、対面するに目の毒ではある。もっとも純朴な当人の性格は己の無防備な禁忌を自覚していない。
彼女の傍らには常時行動を共にする長身男性の姿。
浅黒い中年男であった。
二メートル弱の背丈は人混みの中に在っても即座に認識できる。
面長の顔には彫りの深さも相俟ってか目鼻立ちがくっきりと刻まれていた。とりわけ大きく円らながらも眉下に窪んだ目は謀らずも上目気味となって目力を生む。
名を〝イムリス〟と言う。
アルターナ家に使える使用人の一人だ。
家事や家屋管理が滞り始めた事から、父・アンドリューが雇い入れた。
とはいうものの、実質的にはエレン御付きのボディーガードであった。アルターナ家使用人としては近年の新参者でありながら、その有能さから絶対的信頼を勝ち取った証明だ。
街角には簡易武装の〈竜牙戦士〉が警備に立ち、領民達に不穏な動向が無いよう見張っている。非共感の人外が発散する魔性のオーラは否応無く忌避感情の誘発を強い、それは同時に暗黙の威圧感を以て規律を守らせていた。
この地を治める勢力〈ギリシア勇軍〉の雑兵であり〈竜の牙〉から魔法生成されると云われている擬似人間だ。早い話が、これもまた〈怪物〉である。
そそくさと前を通過する中で、エレンは無機質衛兵の風貌を盗み見た。
「慣れないわね……怪物衛兵に監視されている環境は。それにエジプトをギリシア勢力が統治しているのって不思議な感じ」
「それでも〈デッド〉じゃないだけマシですよ」と、並び歩くイムリスが宥める。
「そうね……アレはグロテスク過ぎるもの」
国を囲う防壁の外には〈デッド〉と呼ばれる〝死人返り〟が徘徊していた。
その起因となっているのが、世界全土に地表の嵩と蔓延している漆黒の魔気〈ダークエーテル〉だ。
合理的説明が不可能な魔界の瘴気である。
「魔気〈ダークエーテル〉は〝死体の脳に干渉して乱雑に再活動化させる性質〟を宿しています。つまり〈ダークエーテル〉の干渉下に置かれた死体は問答無用に機械的な再起動を果たし、動く死体として徘徊を始める」
「だから、自我も知性も欠落している?」
「ええ。ただし原始的本能を司る脳組織部位〈前葉頭〉の再活性化は唯一絶対な性質を甦らせます……即ち捕食本能を。もっとも飢餓を帯びていないのですから、それは無意味な狩りでしかありませんが……」
「それでも〈デッド〉は生者を襲う。そして、無惨な贄と捌かれた者も同一条件下で〈デッド〉の仲間入りを果たしてしまう。負の鼠算サイクルよね……」
「だからこそ、各国領主は防壁建造による領域隔離を政策としているのですよ。これにより〈デッド〉の侵入を防ぎ、同時に〈ダークエーテル〉も遮蔽する。何せ〈ダークエーテル〉には〝壁や柵などで囲われた人工領域内には侵入できない〟という不可解な性質がありますからね」
「何なのかしら〈ダークエーテル〉って?」
「さて? ただ一説では、支配層である〈怪物〉達の共有魔力源とも云われています」
「無作為に共有蓄積されているって事?」
「真偽は定かにありませんよ」と、苦笑が濁した。「ともあれ、この瘴気は実に不可解な性質を宿しています。その象徴的な一面が、先程の〝壁や柵などで囲われた人工領域内には侵入できない〟という性質。だからこそ、多くの街や村には〈ダークエーテル〉は侵食して来ない。一歩でも野外へ踏み出せば、そこは黒霧漂う世界が広がりますが……」
「確か旧暦文明を滅ぼしたのも〈ダークエーテル〉なのよね?」
「ええ。事の起こりは終末予言に示された一九九九年七の月になります──俗に言う〈終末の日〉ですね。その際に〈ダークエーテル〉が現世へと雪崩れ込んだ。かつては人類を次々と死へ向かわせ、文明そのものを衰退させた破滅源と聞いています。もっとも現在の〈ダークエーテル〉は残滓のような物ですがね」
「そして、人類文明衰退に便乗するかの如く出現した者達がいた──それが、古今東西の〈怪物〉達……か」
「そうです。しかし、このエジプトの領地化に関しては少々経緯が特殊でした。他国とは違い〈終末の日〉顕現直後に、ギリシア軍勢が攻め入って来た戦況が大きい。何処もかしこも、まだ〈勢力〉と呼べるだけの群勢もいない状況でしたから、瞬く間に〈領地〉と制圧する事が出来たのです」
「そして現状に至る……か」
雑談浸りに歩は進む。
足取りは〈エジプト考古学博物館〉へと向かっていた。
日課である。
「おーい! そっちは何かあったかー?」
男の太い声が石室に反響する。
頭上には石造りの縦穴が延々と天を目掛けて伸び、微々と冷涼を孕む外気の流動を吐いていた。
調査隊にも見落とされた隠し吹き抜け──そこへと投げ掛けた確認だ。返事は無い。
無反応に置き去りとされた空しさを持て余し、男は周囲の流し見へと現実逃避を投げる。
ガタイのいい筋肉質の男であった。さりながら性格の粗雑さは、そこはかとなくオーラに滲み出ている。
見渡すは幅一〇平方メートル程度の石室。高さは五メートル程か。長方形の角石が乱れなく積まれた壁面には、所々に平面視点の壁画と古代エジプト特有の象形文字〈ヒエログリフ〉が刻まれていた。学術用語で〈ピラミッドテキスト〉と呼ばれているものだ。
「経年劣化にくすんじゃいるが、当時は相当に艶やかだっただろうぜ。たいした人種だったんだな……古代エジプト人ってのは」
壁画を彩る塗料を惜しむも、その感慨は浅い。
腰より低い位置がそこかしこ崩れているのは、彼自身が漁ったからだ。
ややあってトントンと軽快に刻む靴音が降って来た。
どうやら先の縦穴からだ。
「おっと御帰還か」
待ち人来るとばかりに着地位置の脇へと出待ちした。
仰ぎ覗けば、ロープ伝いに壁面を軽く蹴り、その勢いを降下の力と転化してスルスルと滑り降りて来る。その度に紫掛かった黒い長髪が派手な扇を呼吸していた。
最後はタンッと慣れた捌きでゴールへと着地。
ライディングスーツの女であった。
革木地の締め付けが肢体のしなやかさと同時に熟れた肉付きを強調して、なんとも扇情的ではある。前髪の後れ毛を手櫛で鋤き整えれば、溢れる切れ長の眼差しは知性的なエレガントを感受させた。薄く通った鼻筋に、サルビアの花弁のような唇。その美貌は鋭利なクールさに在りながらも反して氷柱花のような情熱をも印象と備えている。
「よぉ、ヴァレリア? そっちはどうだった? こっちは取り立てて何も無かっげふっ!」
問答無用で顔面へと叩き込まれるストレートパンチ。
撃沈した死に体を蔑視に据え、ヴァレリア・アルターナは胸元で拳をパキパキ鳴らす。静かに発散される殺気は激しくも本気だ。
「クリス……テメェ、大声出すんじゃねぇよ。表で警護してる竜牙戦士に見つかったら、どうすんだ……あぁん?」
蹲る無防備へローキックのケツバット!
「イダ! ま……ままま待て、ヴァレリア! 話せば分かる!」
「話す気が無ぇ……」
ユラリと迫る。
「いやいやいや、待て待て待て! チームワークだ! こんな〝墓暴き〟なんて生業をしているんだから信頼関係が大切だ! 何処に、どんな危険が潜んでいるか判らねぇんだから……そうだろ?」
「要らねぇ……」
「は?」
「そもそもアタシは一匹狼……数ヵ月前、テメェが唐突勝手に押し掛けただけだ」
パキパキと指は鳴る。
サァと血の気は引く。
「待て! いや、待って下さい! ヴァレリア様!」
「……逝け」
王家の墓に響き渡る断末魔。
幸い発見はされなかった。
私刑のダメージを摩りつつ相棒は渋々と自分の珈琲を煎れていた。
当のヴァレリアは荒れた気分も治まったようだ……とりあえず半殺しにしたおかげで。
「ったく、この跳ね馬が……」
「何か言ったか?」
「ああ、いや……何でもない」
場所は移動していない。
固形燃料で暖を取り、そのまま小休止だ。
「さて……何かねぇ? コレは?」
珈琲を啜りつつ、ヴァレリアは上層で見つけた戦利品を眺めた。
「ソイツだけか?」
「まぁな。登る途中、角石のひとつが隠し収納になっていたのさ」
「他には?」
「無い」
共に現物へと見入る。
金素材の装飾品だ。
形状は一枚羽根。
大きさとしてはカラスの羽根程度か。
「何なんだ? こりゃ?」
「さて……ねぇ? ま、不可解な点は幾つかあるが……」
「例えば?」
「何故、埋葬品として使われなかった?」
「ショボいから、やめたんじゃないのか?」
「だったら、何故隠してあった? しかも、あんな難儀な場所に?」
「そりゃあ……うん、何故だ?」
あまりに早過ぎる思考放棄にヴァレリアの眉間が曇る。
この短絡さで、よくも「俺と組もうぜ」と出れたものだ。
「このピラミッドは〈第十八王朝王妃アンケセナーメンの墓〉だぜ? つまりは〈王家の墓〉だ。そこに現存する以上は、そもそも埋葬品だったはずなのさ。況してや金細工なんだからな」
「ふむ?」
「けれど、隠してあった。埋葬品を取りやめたのなら破棄すればいいだけの事。隠す必要なんざ無い。つまりは〝価値〟か〝意味〟はあったはず。そして、公に埋葬品と示せない〝理由〟もな」
黒の苦味を含みつつヴァレリアは黙考を刻む。
実のところ、あと二点ほど気になる事があった。
ひとつは件の角石に〈冥界神オシリス〉が刻印されていた事である。
(目印……という考え方も出来るが、それなら〈オシリス神〉である必要は無い。寧ろ〈オシリス神〉は特別に神聖視されるほどの大神だ。それをわざわざ用いたという事は……おそらく〝厳粛な意味〟がある)
そして、もうひとつが──(羽根……か)──推理しながらも口には出さなかった。
と、部屋から空け晒しと続く通路に動く気配を察知する!
即座にアイコンタクトで示しあうと、固形燃料を消して光源を無に帰した!
素早く入口の脇へ取り付いて警戒体勢に息を殺す!
ツナギの胸開きから取り出す拳銃!
果たして〈怪物〉相手に通用するかは分からない。況してや、護身用レベルだ。
しかし、それでも無いよりはマシだ。気休めとはいえ。
異様な気配の位置は暗がりに蠢いている。
この王墓は入口から一本道の構造だ。此処は、その突き当たりになる。
(警護竜牙戦士の巡回? 或いは〈デッド〉でも紛れ込んだか? いや、もしかしたら……)
懸念に脳裏を巡る外敵候補は複数。
気丈を拠としながらもヴァレリアの鼓動は正直を打った。
可能な限り石壁と背中を密着させる。
見れば、相方も然り……だ。
(万ヶ一となれば挟撃に蜂の巣としてやる)
ズシャリ……ズシャリ……と、砂埃を踏み締める足音は次第に近付いて来ていた。硬音ではない。重く鈍い。
(足音は定期的ながらも遅い……若干、引き摺り気味なのか? だとしたら〈竜牙戦士〉の線は薄い。奴等は機械的な動作ながらもキビキビしている。だとすりゃあ、やはり〈デッド〉か? 確かに〈ダークエーテル〉は〝人工領域には入れない〟が〈デッド〉は別だ。ピラミッド内に迷い込んでも、おかしくはない)
俄然、候補として有力となる。
だがしかし、それでも釈然としない判断材料が結論の確定を妨害した。
(ピラミッドや遺跡の周囲には竜牙戦士が警護に当たっている。殊更、入口出口は厳重だ。アタシ達〈トレジャーハンター〉にしても『如何にやり過ごして潜入するか』は毎回頭を悩ませている最初の難関なんだからな。そんな監視下で、はたしてスルーされるか? 野良死体如きが?)
疑問が深まる。
いや、確信が強まる。
(それを踏まえりゃ、もうひとつの候補か)
それを確かめるかのように、細心の注意を払って様子を盗み見た。
そこに〈怪物〉はいた!
醜怪にして忌避を誘発する怪物が!
石廊の闇から同化を溶かす妖影は緩慢な動作に幽鬼と姿を現した!
歴史にくすんだ包帯で封縛されし巨躯!
それが崩れほどけた頭部には皺に喰われた顔面が覗き、死魚の如く濁眼球と、肉付きを欠いて鼻骨に準じた鼻腔がグロテスクな風貌を演出する!
「よぉ、ヴァレリア? オマエ、コイツと〈デッド〉……どっちが好みだ?」
「……どっちも願い下げだよ」
竜牙戦士ではない。
喰人屍でもない。
障害と立ちはだかる難関は怪奇極まる風貌の怪物──古の呪怪〈ミイラ男〉であった!
エジプト考古学博物館は旧暦に於いて『古代エジプト史研究』の世界最高峰であった。
そのノウハウと重要性に着目され、闇暦現在でも存続を許されている。
とはいえ、それは単に領軍勢力〈ギリシア勇軍〉のメリットとなればこそ……だ。
要するに専属研究機関と抱えられ、また管轄下に置かれている状況である。
彼等〈ギリシア勇軍〉は躍起になって何かを追求していた。
極端に言えば、そのためだけに存続価値を認められているようなものであろう。
それが何なのか──研究員も知らない。
ただし研究データは逐一報告が義務付けられており、まるで軍属と同じような窮屈さには在った。
こうした監視的環境に辟易して辞めていく者も多かったが、だからといって、彼〝アンドリュー・アルターナ〟の知識吸収欲を削ぐには至らない。
バックアップがどうであれ──仮に侵略勢力であったとしても──研究に没頭させてくれるなら些末な代償だ。
四方を発掘品で埋め尽くした研究室は、その薄暗さも相俟って遺跡内然と同じ霊気を誘発していた。
所狭しと並ぶ発掘品の数々が歴史のロマンを想起させ、更には煤けた傘電球が光に帯びさせるセピア色調がノスタルジックを演出したからであろう。
先頃、新たに発掘された古文書をデスクに敷き広げ、アンドリュー教授は丹念且つ繊細に解読し続けた。
大きさはB2程。葦草を原料とした紙ではあるが、かなり状態は良い。経年の重みにくすんだ紙面には多彩な図形と誤認させる象形文字〈ヒエログリフ〉の羅列やエジプト特有の側面視点図象が記されている。
「素材の経年劣化具合から推察するに紀元前一三三四年辺りだとは思うが……だとすれば、やはり第十八王朝……年代的には〝ツタンカーメン〟か〝アンケセナーメン〟縁の遺物と見て間違いないだろう。比較的保存状態は良いが、時折、黒く塗り潰された箇所が象形文字に目立つ……意図的だな」
白い顎髭を撫でつつ独り納得を淡々と紡いだ。
聞き手はテープレコーダー。
音声記録である。
「文脈の前後から汲み取るに、おそらく人名か固有名詞だろうな……間違いなく公に曝したくない〝何か〟が封印されている。かつて〝ツタンカーメン〟や〝アクエンアテン〟に関する発掘品が同様であったように……」
古代エジプト史に燦然と名を知らし示す彼等もまた〝名を封殺されし王〟であった。
歴史の闇である。
ともすれば、コレもまた茫漠たる歴史の禁忌とも思える臭いがした。
実に好奇心を刺激する。
だからこそ、アンドリュー・アルターナは高揚に溺れるまま童心へと返るのだ。
齢五十数年にも及ぶ考古学者人生の中に於いても、これほどの魅惑は体験した事が無い。
「遅くなってごめんなさい、父さん」
不意に背後の扉から入って来た声へ、アンドリューは作業継続という無愛想を返した。
どうせ見ずとも〝誰〟かは判る。
相変わらず盲目没頭に丸まっている父の背に気まずさを覚えつつも、エレンは洗面台で手を殺菌して白衣と白手袋を着用した。
空しくも味気無い親子関係ではあるが胸中深くへと圧し殺す。
もう慣れた。
慣れた?
いや、それは諦めやもしれぬ……。
ともあれエレンは平静を偽装し、脇から古文書を覗き込んだ。
「名前の方は?」
「未だに……。近々エックス線解析に回そうかと考えている。塗り潰されたとはいえ筆跡が深ければ何か残されているかもしれん」口周りに蓄えた白を撫で遊んで父が告げる。「しかし、なかなかに興味深い物も見つかった」
指差された図象へと見入れば、黒山犬の獣頭神が天秤を片手に女性と対峙していた。
「これは……アヌビス神?」
「そうだ。死後に於いて魂の質を裁判する〈死の裁神〉だな。手にした天秤によって〈女神マァト〉の羽毛と死者の心臓で計量し、その釣り合いが見合えば〈死者の国〉へと誘うが、見合わなければ〝悪業に穢れている魂〟と裁決して〈怪物アンムト〉の餌と罰する。エジプト神話では常識的な死生観だ」
さりながら、それだけなら珍しくはない。
この図象では明らかに異質な点が見受けられる。
「両者の背後に大きく描かれているミイラは〈冥界神オシリス〉で間違いないだろう。その御前での裁判のようだ」
「……こんな図象、初めて見る」
「ああ。確かに〈アヌビス神〉は〈冥界王オシリス〉の御使いではあるが、これらは通常独立して描かれる。両神が揃い踏みで描かれる〈死者の裁判〉は珍しい」
そして、この図象には他にも〈神〉が描かれていた。
土豚とも鰐とも取れる獣頭ながらも、そのどちらでもない──現存動物ではない架空獣頭の神はエジプト神話上それしか考えられない。
「これって〈セト神〉よね?」
「ああ。冥界の支配者〈オシリス神〉の兄に当たり、その姑息な性格から〈エジプト神話の憎まれ役〉と認知されているトリックスターだな。しかしながら有事の際には神軍の斬り込み隊長として先陣を駆る勇猛な戦士でもある。その〈セト神〉が武器を構えて〈アヌビス神〉の傍らに加勢している……これだけでも相当に珍しい」
「それに〈バステト〉〈セベク〉〈ホルス〉……匆々たる面子ね。まるで〈エジプト神〉のスター集合……」
しかし、エレンが惹かれたのは、それでもない。
最も注意を惹き付けられたのは、神々に弾劾されている〈女〉であった。
見るなり背筋がゾッとした。
覚られぬように呑み殺したが……。
異質な〈女〉であった。
全身に包帯を巻かれ、それは顔にも及んでいた。露出しているのは〝目〟と〝髪〟だけ。そして、右手には巨眼円盤を据えた錫杖を持ち、神々を前にしても畏縮しない威風に対立している。
何故にゾッとしたのか?
それは、この〈女〉こそが〝夢の中の自分〟に他ならなかったからだ!
この特異な風采を見間違うはずもない!
(な……何で彼女が?)
明らかに異様な〈女〉……はたして何者であろうか?
そして、セト神の矛先は対峙する〈女〉へと向けられていた。アヌビスの天秤は大きく傾き、その結果に準ずるように人差し指を向けている。まるで〈女〉を追い返すかのように。
(何? まるで神々が過剰警戒視しているかのような?)
異質だ。
興味深い。
「もしかして、彼女が〝真名を封印されし者〟なの?」
「さて……な。だが、いずれにせよ──」
アンドリューの開口を邪魔立てるかのようにガタンと大きな音が鳴り脅した。
思わずビクリと身を強張らせるエレン。霊気誘う話題には気持ちのいい現象ではない。
出所を確認すれば窓際に置いていた発掘品が転げた音──黄金の天秤であった。
「どうやら風がカーテンと戯れたらしい」
余裕ながらの苦笑に飾り直すアンドリュー。
未だ、二人は気付いていない。
先刻まで窓は閉められていた。
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