妹の手がまだ触れない

冴吹稔

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あの日盗んだリンゴ

知っているはずの時間

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「早く着換えて降りてきてね、ご飯先に食べてるよ」

 葉月はそういうと、見覚えのあるブラウス&スカートの制服姿で、階下へ降りて行った。あのブラウスの襟元には、確か藤色のリボンが飾られているはずだ。

 壁のカレンダーは200X年のもの。吸血鬼をモチーフにした特撮ヒーローのグッズで、月ごとにはぎ取っていくやつ。今は、四月――主人公がヴァイオリンを弾くポーズのスチルがでかでかと印刷されている。

 ――どうなっているんだ?


 僕は――柊木礼司ひいらぎれいじは死んだはずだ。201X年の六月早朝。中央自動車道、相模湖畔から少し西へ過ぎたあたり(※)。

 大学の後輩である大石邦彦おおいしくにひこと、妹の葉月が挙式する、まさにその日の朝だった。どうしてそんな大事な日に、式場とは反対の方角へ車を走らせていたかといえば――二人の結婚にどうしても納得できなかったからだ。
 といっても、面と向かって反対したことは一度もない。僕にはもとよりそんな権利はなかった。反対などして葉月の怒りを買えば、罪には問われないまでも信用も仕事も何もかも失い、後ろ指をさされる身になり果てるしかない。
 僕は――僕と葉月は、この十年の間、兄妹でありながら肉体関係を持ち続けていたのだ。

 死んでしまえばいっそ楽になれる。

 車を走らせ始めたときに、そんな気持ちが少しなかったわけでもない。僕が死んで口をつぐんでしまえば、二人のことは永遠に闇の中に葬れる。幸せな生活がいつ壊れるかと、葉月が怯えて暮らす必要もない――最良の解決じゃないか。

 だが、僕は今ここ、この時にいる。十年前の四月、まだ僕の誕生日までにはだいぶ間があり、高校二年に上がったばかり。

 僕と葉月はまだ、何の変哲もない絵にかいたような普通の兄と妹に過ぎない――


         * * * * * * *

 着換えて階下に降りる。洗面を済ませてテーブルに着くと、ちょうど葉月は食べ終わって席を立つところだった。

「お先」

「おぅ」

 テーブルの上にはバターを塗ったトーストが二枚とハムエッグ、それにさいの目に切ったトマトときゅうりにレタスを添えたフレンチドレッシングのサラダ。

 みそ汁の味をあまり好まない母がよく作る、何度も繰り返した朝の献立だ。

 食後のコーヒーをゆっくり楽しんでいる母の顔を、しばし、まじまじと見つめてしまう。

「か、母さん――」

「ん、どうかした? 急に」

「い、いや、なんでもな……いや、えっと……ああそうだ、悪いけど二千円都合してくれない? 買いたい参考書があるんだけど」

「へえ。珍しい、礼司がそんなこと言い出すなんて……なにかおかしなことに使うんじゃないなら、いいわよ」

 藪をつつきかけた感じだが、どうにか蛇は出さずに済んだ。今の会話の妙な間は、臨時の小遣い無心のためだと思ってもらえれば上出来だ。

 本当のことなんて言えるものか。
 僕はいま、危うく泣き出すところだったのだ。目の前にいるこの元気で若々しい母が、悪性のがんで死ぬのはあとわずか四年後のことだ。

 そう、あれは僕が、二十歳になった年だった。





※ 藤野パーキングエリアの入り口がある。おそらく分岐部の道路構造物に激突したと思われる。
 
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