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第5話:『ひとつになろう』── 夏の影が誘う、冷たい微笑み ──
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森の奥から、誰かが呼んでいる気がした。
「……シエン?」
振り返っても誰もいない。
家の中にはシエンがいたはずだ。なのに、声だけが、確かに耳の奥に届いた。
蝉の声が止んでいる。
さっきまであれだけ喧しかったはずの夏の音が、すとん、と途切れていた。
代わりに、湿気を孕んだ風が、木々の間を這うように流れてくる。
足が勝手に動いた。
冷たい指に手を引かれているような、そんな錯覚。
白昼夢に迷い込んだように、景色の輪郭がぼやけていく。
森の奥には、まだ知らない道があった。
光が届かず、土の匂いも生臭く変わっていく。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、草が倒れ、闇が深くなる。
そして──霧の向こうに、見覚えのある影が立っていた。
「……シエンなの?」
だけど。
そのシエンは、どこか、違っていた。
「ミア……やっぱり来てくれたんだね」
「シエン、どうして……ここに……?」
月明かりも届かない森の奥。
彼の声は、まるで霧の中から響いてくるみたいだった。
「君を、待ってた。……ずっと……ずっと」
その声を聞いた瞬間、胸がふわりと温かくなる。
“待ってた”――その一言だけで、心が揺れる。
だけど。
おかしい。声は同じなのに、温度が違う。
シエンなら、こんなとき、もう少し不器用に笑うはず。
こんなに滑らかで、甘い声じゃない。
「……シエン?」
名前を呼んでも、返ってくるのは――少しだけ、違う甘い微笑み。
「うん、僕だよ。ミアだけの、シエン」
“僕”って言った。
それだけで、背中に冷たいものが走る。
でも、身体は動かない。――逃げなきゃ、って思ってるのに。
(どうして……嬉しいのに、怖いの……?)
「もう、ひとりにしないよ。……ずっと、一緒にいたいんだ」
そう言って、そっと手を伸ばしてくる。
「…ひとつになりたいんだ。」
触れた指先が、ぞくりとするほど冷たかった。
氷みたいに冷たいのに、不思議と――熱い。
鼓動が早まる。怖いのに、逃げられない。
「シエン、手……冷た――」
言いかけた唇を、指でそっと塞がれる。
「冷たくて、ごめん。でも……ミアの中に入れば、きっと温かくなれるよね?」
吐息が耳元にかかる。
そっと囁かれたその声に、背筋が凍りつく。
距離が近い。
瞳を覗き込まれて、目が離せなくなる。
吸い込まれそうな金色の瞳――でも、それは、あの優しいシエンの目じゃない。
微笑んだ瞬間、金色の瞳が光に反射してギラッと光る
(あれ……シエンの瞳って……こんな色だったっけ……)
一瞬だけ違和感を覚えたものの、それ以上考えられないくらい接近されて、心も身体も支配される。
「や、だ……それは、シエンじゃ……」
「……いいじゃない。僕の中には、あの子の“全部”があるんだから。ミアが大好きな“シエン”、ここにいるよ」
ふわり、と細い腕がミアの腰に回る。
引き寄せられた身体を、拒めない。
ぎゅうっと抱きしめられて、まるで溶けてしまいそうになる。
自分の中の“好き”が、どんどん侵食されていく。
「……ミアの匂い、大好きなんだ」
囁くように言いながら、彼は首筋へ顔を寄せる。
ちゅ、と小さな音を立てて、喉元を啄ばまれる。
くすぐったいはずの感触なのに、背筋が総毛立った。
次の瞬間――
ミアの細い首筋に、熱くて長い舌が絡まる。
ぬるりと這い上がり、耳の裏をなぞるように舐められると、思わず震えが走った。
「やっ……な、に……これ……っ」
「ミアの味、見てるだけだよ。
ねえ、どんな味がすると思う……?」
ぞくり。
息を飲んだミアの肩に、鋭く尖った爪が触れる。
白く柔らかな皮膚に食い込むように、ゆっくりと引っ掻かれる。
血は滲まない。でも――爪の跡が、生々しく残る。
彼の瞳に、それが映り込んで妖しく輝いた。
「もっと奥まで、入れてもいい?」
低く、艶やかに囁かれて、ミアの足がすくむ。
背中から抱き締められ、太腿に舌の先が触れた気がした――
「や、だ……っ……これ、シエンじゃない……!」
「僕は……シエンだよ。
ミアが愛してくれるなら、それだけで“本物”になれるんだから――」
「……ほら、震えてる。どうしたの? こんなに俺のこと、待ち望んでたくせに……」
耳元で囁くように言われた言葉が、体の芯をじわりと揺らす。
「君の全部が欲しいんだ。奥の奥まで、僕に溶かされて?」
スッと伸びた指先がミアの首筋に触れた瞬間、ゾクリと冷たい感触が走る。だがそれは、水の冷たさではなかった。
それはまるで、氷でなぞられるような──いや、それ以上に、感覚を奪うような“死の冷たさ”。
「君の香り、味……全部、知りたい。ひとつになるって、そういうことでしょ?」
いつの間にか、至近距離に迫っていたその影が、そっと髪に触れる。優しいのに、どこかズレている。
「ねえ、ミア。……僕を拒まないで?」
――やっぱり、何かが違う。
その言葉に、ミアの背中がピクンと震えた。
(これは……シエンじゃない……)
けれど、体はもう言うことをきかない。喉が乾いて、声も出ない。ただ、冷たい指が頬を撫でていく感触だけが、やけに鮮明で──。
シエンじゃない"ナニカ"の指が、ミアの鎖骨をなぞる。
その冷たさに、ゾクリと体が震えたのに──なぜか、それすらも心地よく思えてしまう。
「ミア……すごく綺麗だよ。そんなに震えて……可愛い」
長い舌が、首筋に絡まる。
ゾワリと這い、喉元に触れ、味わうようにくんくんと鼻を鳴らす。
「君の香り……やっぱり、特別だ」
甘く囁く声のすぐそばで、冷たい息がミアの肌を撫でていく。
ふっと触れた鋭い爪が、腕をかすめる。
ぴりりとした痛みが走った。
「もっと……奥まで、触れてもいい?」
(違う──これは、違う)
心の中で警鐘が鳴っているのに、身体が動かない。
まるで夢の中のように、指一本動かせない。
「大丈夫。僕なら、痛くしない。……気持ちよくしてあげる」
腰に回された腕。
喉元にかかる舌。
その全てが、冷たくて、どこか空虚で──でも、逃れられないほど甘い。
(シエン……助けて……)
ミアの視界が滲んだ瞬間。
──「そこまでだ」
凛と響く、確かな声。
風が動いた。
空気が震えた。
目の前のナニカがぴたりと動きを止める。
その背後に、琥珀色の瞳が揺れていた。
本物の、シエンが──そこに、いた。
「ミア──っ!」
聞き慣れた、ほんとうの声が、森の奥に響いた。
刹那、空気が変わった。冷たく淀んでいた空気が、風に払われるようにざわつく。
ミアの身体を覆っていたナニカの腕が、ふっと力を失った。
「な、に……」
目の前にいたはずの存在が、淡い霧のように輪郭を溶かし始める。金色の瞳が揺らぎ、形のないもやに戻っていく。
「なんで……僕の邪魔をするの……」
ナニカの声はもう、どこから響いているのか分からなかった。低く、甘く、哀しげに余韻だけが残って消えていく。
ミアはその場に崩れ落ちそうになった身体を、背後からしっかりと受け止められた。
「よく頑張ったな、ミア」
包み込まれるような声とともに、琥珀色の瞳がすぐ近くにあった。
心臓の奥が、じん、と熱くなる。
「シエン……」
震える声で名前を呼ぶと、シエンの腕が、ぐっと強くなった。
今までの冷たさが嘘のように、彼の身体はあたたかくて、ミアの芯まで熱を灯していく。
「遅くなって、悪かった」
「でも、絶対に──迎えに行くって、決めてた」
ミアの額に、そっと唇が触れる。
柔らかくて、優しい、本物のキスだった。
ミアの額にキスを落としたシエンは、そっと彼女の頬を撫でる。
その瞳に残る不安の色を、見逃さなかった。
「……お前の様子が変だったって、聞いて」
「急いで、匂いを辿って来たんだ。……こんなところまで連れて来られて、いったい何があった?」
優しい声だった。けれどその奥に、怒りや焦りが混じっているのがわかる。
ミアは小さく首を振って、震える声で答えた。
「シエンに……呼ばれた気がしたの。会いたくて……だから、来たの」
「……でも、そこにいたのは……シエンじゃ、なかった」
シエンの腕の中で、ミアは小さく震える。
彼はもう一度強く抱きしめ、耳元で囁いた。
「大丈夫だ。俺が、ここにいる」
「もう、離さない」
* * *
家に戻るまで、シエンはずっとミアの手を握っていた。
その大きくて温かい手は、歩くたびにミアの冷えた指先を少しずつ溶かしていく。
玄関に入った途端、ふっと力が抜けたようにミアがシエンにもたれかかる。
シエンは黙って彼女を抱きとめ、そのままリビングへ連れていった。
ソファに座らせ、ブランケットを掛け、そっと肩を撫でながら言う。
「……あいつに、何された?」
ミアは小さく首を横に振って、かすれた声で答える。
「こわかった。でも……シエンに、会えてよかった……」
その言葉に、シエンの表情が少しだけ緩んだ。
でもその奥にある、怒りと不安は消えていない。
「……俺じゃないやつに、触れられたお前を見るなんて、もう二度とごめんだ」
「ミア。ちゃんと、俺を見てろ」
ミアが見上げると、そこには金色ではなく、琥珀色の優しい瞳。
本物の、彼の瞳。
「……シエン……」
名前を呼ぶと、彼の手がそっとミアの頬に触れた。
「お前の全部、冷えてる。……温めていいか?」
その声に、ミアは小さく頷いた
ミアの体をそっと抱き上げたシエンは、
そのまま何も言わずに歩き出す。
ミアが小さく「わ、シエン……」と驚くと、
彼はふっと優しく笑った。
「怖い夢でも見た後は、こうするのが一番だろ?」
彼の腕の中はあたたかくて、心地よくて、
さっきまでの冷たい指や、氷のような舌の感触なんて──もう思い出せない。
部屋に戻ると、シエンはそっとベッドにミアを寝かせ、
その隣に身を滑り込ませる。
「やっぱりお前は、俺の腕の中が似合ってる」
照れるミアを、ぎゅっと強く抱きしめながら、
彼の手はゆっくりと背中を撫でてくれる。
「今度はちゃんと、温かいので包んでやる」
シエンの体温が、ミアの冷え切った心の奥まで届く──
ようやく、ちゃんと目を閉じられそうだった。
ベッドに沈んだミアの頬に、シエンの指先がそっと触れる。
優しくなぞられるように流れた指が、耳の後ろを撫で、首筋へと滑っていく。
「ミア……もう大丈夫だ。お前を呼んだのは、俺じゃない」
「でも……俺が来た。だから、もう怖くないだろ?」
彼の低い声が、耳元でそっと囁く。
それだけで、怖かった記憶が遠のいていく。
ミアが震える手で、シエンの手を握った。
細くて、冷えきっていたその手を、
シエンはまるで宝物のように、自分の大きな手で包み込む。
「……温かい」
そう呟いたミアに、シエンがふっと微笑む。
「俺の全部で、温めてやるよ」
重なる体温。
絡まる指先。
柔らかく触れる唇と、吐息。
キスは深くはないけど、
気持ちを伝えるように、ゆっくり、丁寧に重ねられていく。
「お前と……ひとつになりたいのは、俺もだ」
「でもそれは、ちゃんと……あったかい気持ちで、だろ?」
頬を染めながらも、ミアはうなずく。
彼に抱かれているだけで、もう十分だった──けれど、心も身体も、もっと欲しくなる。
シエンの手が背中をそっと撫でて、優しく引き寄せる。
心臓の鼓動が近くなって、呼吸が混ざっていく。
「好きだよ、ミア」
「誰にも渡さない。……絶対に」
最後に交わしたキスは、優しくて、でも確かで、
ふたりの輪郭が、静かに重なって──夜が、やさしく包み込んでいった。
「ひとつになろう」──その言葉は、もう怖くない。
今夜は、本物のぬくもりだけを信じて、眠れる気がした。
「……シエン?」
振り返っても誰もいない。
家の中にはシエンがいたはずだ。なのに、声だけが、確かに耳の奥に届いた。
蝉の声が止んでいる。
さっきまであれだけ喧しかったはずの夏の音が、すとん、と途切れていた。
代わりに、湿気を孕んだ風が、木々の間を這うように流れてくる。
足が勝手に動いた。
冷たい指に手を引かれているような、そんな錯覚。
白昼夢に迷い込んだように、景色の輪郭がぼやけていく。
森の奥には、まだ知らない道があった。
光が届かず、土の匂いも生臭く変わっていく。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、草が倒れ、闇が深くなる。
そして──霧の向こうに、見覚えのある影が立っていた。
「……シエンなの?」
だけど。
そのシエンは、どこか、違っていた。
「ミア……やっぱり来てくれたんだね」
「シエン、どうして……ここに……?」
月明かりも届かない森の奥。
彼の声は、まるで霧の中から響いてくるみたいだった。
「君を、待ってた。……ずっと……ずっと」
その声を聞いた瞬間、胸がふわりと温かくなる。
“待ってた”――その一言だけで、心が揺れる。
だけど。
おかしい。声は同じなのに、温度が違う。
シエンなら、こんなとき、もう少し不器用に笑うはず。
こんなに滑らかで、甘い声じゃない。
「……シエン?」
名前を呼んでも、返ってくるのは――少しだけ、違う甘い微笑み。
「うん、僕だよ。ミアだけの、シエン」
“僕”って言った。
それだけで、背中に冷たいものが走る。
でも、身体は動かない。――逃げなきゃ、って思ってるのに。
(どうして……嬉しいのに、怖いの……?)
「もう、ひとりにしないよ。……ずっと、一緒にいたいんだ」
そう言って、そっと手を伸ばしてくる。
「…ひとつになりたいんだ。」
触れた指先が、ぞくりとするほど冷たかった。
氷みたいに冷たいのに、不思議と――熱い。
鼓動が早まる。怖いのに、逃げられない。
「シエン、手……冷た――」
言いかけた唇を、指でそっと塞がれる。
「冷たくて、ごめん。でも……ミアの中に入れば、きっと温かくなれるよね?」
吐息が耳元にかかる。
そっと囁かれたその声に、背筋が凍りつく。
距離が近い。
瞳を覗き込まれて、目が離せなくなる。
吸い込まれそうな金色の瞳――でも、それは、あの優しいシエンの目じゃない。
微笑んだ瞬間、金色の瞳が光に反射してギラッと光る
(あれ……シエンの瞳って……こんな色だったっけ……)
一瞬だけ違和感を覚えたものの、それ以上考えられないくらい接近されて、心も身体も支配される。
「や、だ……それは、シエンじゃ……」
「……いいじゃない。僕の中には、あの子の“全部”があるんだから。ミアが大好きな“シエン”、ここにいるよ」
ふわり、と細い腕がミアの腰に回る。
引き寄せられた身体を、拒めない。
ぎゅうっと抱きしめられて、まるで溶けてしまいそうになる。
自分の中の“好き”が、どんどん侵食されていく。
「……ミアの匂い、大好きなんだ」
囁くように言いながら、彼は首筋へ顔を寄せる。
ちゅ、と小さな音を立てて、喉元を啄ばまれる。
くすぐったいはずの感触なのに、背筋が総毛立った。
次の瞬間――
ミアの細い首筋に、熱くて長い舌が絡まる。
ぬるりと這い上がり、耳の裏をなぞるように舐められると、思わず震えが走った。
「やっ……な、に……これ……っ」
「ミアの味、見てるだけだよ。
ねえ、どんな味がすると思う……?」
ぞくり。
息を飲んだミアの肩に、鋭く尖った爪が触れる。
白く柔らかな皮膚に食い込むように、ゆっくりと引っ掻かれる。
血は滲まない。でも――爪の跡が、生々しく残る。
彼の瞳に、それが映り込んで妖しく輝いた。
「もっと奥まで、入れてもいい?」
低く、艶やかに囁かれて、ミアの足がすくむ。
背中から抱き締められ、太腿に舌の先が触れた気がした――
「や、だ……っ……これ、シエンじゃない……!」
「僕は……シエンだよ。
ミアが愛してくれるなら、それだけで“本物”になれるんだから――」
「……ほら、震えてる。どうしたの? こんなに俺のこと、待ち望んでたくせに……」
耳元で囁くように言われた言葉が、体の芯をじわりと揺らす。
「君の全部が欲しいんだ。奥の奥まで、僕に溶かされて?」
スッと伸びた指先がミアの首筋に触れた瞬間、ゾクリと冷たい感触が走る。だがそれは、水の冷たさではなかった。
それはまるで、氷でなぞられるような──いや、それ以上に、感覚を奪うような“死の冷たさ”。
「君の香り、味……全部、知りたい。ひとつになるって、そういうことでしょ?」
いつの間にか、至近距離に迫っていたその影が、そっと髪に触れる。優しいのに、どこかズレている。
「ねえ、ミア。……僕を拒まないで?」
――やっぱり、何かが違う。
その言葉に、ミアの背中がピクンと震えた。
(これは……シエンじゃない……)
けれど、体はもう言うことをきかない。喉が乾いて、声も出ない。ただ、冷たい指が頬を撫でていく感触だけが、やけに鮮明で──。
シエンじゃない"ナニカ"の指が、ミアの鎖骨をなぞる。
その冷たさに、ゾクリと体が震えたのに──なぜか、それすらも心地よく思えてしまう。
「ミア……すごく綺麗だよ。そんなに震えて……可愛い」
長い舌が、首筋に絡まる。
ゾワリと這い、喉元に触れ、味わうようにくんくんと鼻を鳴らす。
「君の香り……やっぱり、特別だ」
甘く囁く声のすぐそばで、冷たい息がミアの肌を撫でていく。
ふっと触れた鋭い爪が、腕をかすめる。
ぴりりとした痛みが走った。
「もっと……奥まで、触れてもいい?」
(違う──これは、違う)
心の中で警鐘が鳴っているのに、身体が動かない。
まるで夢の中のように、指一本動かせない。
「大丈夫。僕なら、痛くしない。……気持ちよくしてあげる」
腰に回された腕。
喉元にかかる舌。
その全てが、冷たくて、どこか空虚で──でも、逃れられないほど甘い。
(シエン……助けて……)
ミアの視界が滲んだ瞬間。
──「そこまでだ」
凛と響く、確かな声。
風が動いた。
空気が震えた。
目の前のナニカがぴたりと動きを止める。
その背後に、琥珀色の瞳が揺れていた。
本物の、シエンが──そこに、いた。
「ミア──っ!」
聞き慣れた、ほんとうの声が、森の奥に響いた。
刹那、空気が変わった。冷たく淀んでいた空気が、風に払われるようにざわつく。
ミアの身体を覆っていたナニカの腕が、ふっと力を失った。
「な、に……」
目の前にいたはずの存在が、淡い霧のように輪郭を溶かし始める。金色の瞳が揺らぎ、形のないもやに戻っていく。
「なんで……僕の邪魔をするの……」
ナニカの声はもう、どこから響いているのか分からなかった。低く、甘く、哀しげに余韻だけが残って消えていく。
ミアはその場に崩れ落ちそうになった身体を、背後からしっかりと受け止められた。
「よく頑張ったな、ミア」
包み込まれるような声とともに、琥珀色の瞳がすぐ近くにあった。
心臓の奥が、じん、と熱くなる。
「シエン……」
震える声で名前を呼ぶと、シエンの腕が、ぐっと強くなった。
今までの冷たさが嘘のように、彼の身体はあたたかくて、ミアの芯まで熱を灯していく。
「遅くなって、悪かった」
「でも、絶対に──迎えに行くって、決めてた」
ミアの額に、そっと唇が触れる。
柔らかくて、優しい、本物のキスだった。
ミアの額にキスを落としたシエンは、そっと彼女の頬を撫でる。
その瞳に残る不安の色を、見逃さなかった。
「……お前の様子が変だったって、聞いて」
「急いで、匂いを辿って来たんだ。……こんなところまで連れて来られて、いったい何があった?」
優しい声だった。けれどその奥に、怒りや焦りが混じっているのがわかる。
ミアは小さく首を振って、震える声で答えた。
「シエンに……呼ばれた気がしたの。会いたくて……だから、来たの」
「……でも、そこにいたのは……シエンじゃ、なかった」
シエンの腕の中で、ミアは小さく震える。
彼はもう一度強く抱きしめ、耳元で囁いた。
「大丈夫だ。俺が、ここにいる」
「もう、離さない」
* * *
家に戻るまで、シエンはずっとミアの手を握っていた。
その大きくて温かい手は、歩くたびにミアの冷えた指先を少しずつ溶かしていく。
玄関に入った途端、ふっと力が抜けたようにミアがシエンにもたれかかる。
シエンは黙って彼女を抱きとめ、そのままリビングへ連れていった。
ソファに座らせ、ブランケットを掛け、そっと肩を撫でながら言う。
「……あいつに、何された?」
ミアは小さく首を横に振って、かすれた声で答える。
「こわかった。でも……シエンに、会えてよかった……」
その言葉に、シエンの表情が少しだけ緩んだ。
でもその奥にある、怒りと不安は消えていない。
「……俺じゃないやつに、触れられたお前を見るなんて、もう二度とごめんだ」
「ミア。ちゃんと、俺を見てろ」
ミアが見上げると、そこには金色ではなく、琥珀色の優しい瞳。
本物の、彼の瞳。
「……シエン……」
名前を呼ぶと、彼の手がそっとミアの頬に触れた。
「お前の全部、冷えてる。……温めていいか?」
その声に、ミアは小さく頷いた
ミアの体をそっと抱き上げたシエンは、
そのまま何も言わずに歩き出す。
ミアが小さく「わ、シエン……」と驚くと、
彼はふっと優しく笑った。
「怖い夢でも見た後は、こうするのが一番だろ?」
彼の腕の中はあたたかくて、心地よくて、
さっきまでの冷たい指や、氷のような舌の感触なんて──もう思い出せない。
部屋に戻ると、シエンはそっとベッドにミアを寝かせ、
その隣に身を滑り込ませる。
「やっぱりお前は、俺の腕の中が似合ってる」
照れるミアを、ぎゅっと強く抱きしめながら、
彼の手はゆっくりと背中を撫でてくれる。
「今度はちゃんと、温かいので包んでやる」
シエンの体温が、ミアの冷え切った心の奥まで届く──
ようやく、ちゃんと目を閉じられそうだった。
ベッドに沈んだミアの頬に、シエンの指先がそっと触れる。
優しくなぞられるように流れた指が、耳の後ろを撫で、首筋へと滑っていく。
「ミア……もう大丈夫だ。お前を呼んだのは、俺じゃない」
「でも……俺が来た。だから、もう怖くないだろ?」
彼の低い声が、耳元でそっと囁く。
それだけで、怖かった記憶が遠のいていく。
ミアが震える手で、シエンの手を握った。
細くて、冷えきっていたその手を、
シエンはまるで宝物のように、自分の大きな手で包み込む。
「……温かい」
そう呟いたミアに、シエンがふっと微笑む。
「俺の全部で、温めてやるよ」
重なる体温。
絡まる指先。
柔らかく触れる唇と、吐息。
キスは深くはないけど、
気持ちを伝えるように、ゆっくり、丁寧に重ねられていく。
「お前と……ひとつになりたいのは、俺もだ」
「でもそれは、ちゃんと……あったかい気持ちで、だろ?」
頬を染めながらも、ミアはうなずく。
彼に抱かれているだけで、もう十分だった──けれど、心も身体も、もっと欲しくなる。
シエンの手が背中をそっと撫でて、優しく引き寄せる。
心臓の鼓動が近くなって、呼吸が混ざっていく。
「好きだよ、ミア」
「誰にも渡さない。……絶対に」
最後に交わしたキスは、優しくて、でも確かで、
ふたりの輪郭が、静かに重なって──夜が、やさしく包み込んでいった。
「ひとつになろう」──その言葉は、もう怖くない。
今夜は、本物のぬくもりだけを信じて、眠れる気がした。
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