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もうあなたの居場所はない
深夜の公爵邸。
回廊を照らす魔導ランプの光は、夜の帳を完全に退けるにはあまりに心許ない。
その仄暗い通路を、一人の男が憑かれたような足取りで進んでいた。
アルベルト・ド・ラザフォード公爵。
この国の政教を左右する冷徹な統治者であり、数多の令嬢が憧れる美貌の持ち主である彼は今、かつてないほど無様な焦燥に突き動かされていた。
たどり着いたのは、婚約者ルチアの寝室の前だ。
彼はその扉を前にして、一度だけ足を止めた。
(自分でも、何をしているのか分からない)
理性がそう囁く。
しかし、昼間に中庭で見た、自分を「障害物」として扱う彼女の冷徹な眼差し。
自分以外の男たちに向けられていた、眩いばかりの知的な笑顔。
それらが網膜に焼き付いて離れない。
彼女が自分の支配下から、自分の影響圏から、完全に脱してしまった。
その事実が、喉元に突きつけられた刃のように、彼のプライドと平穏を脅かしている。
彼は乱暴にドアを叩き、返事も待たずに中へ押し入った。
部屋の中は、仄かなアロマの香りと、読みかけの本が放つ紙の匂いに包まれていた。
そこには、すでに寝支度を終えたルチアがいた。
絹の寝間着の上に薄いガウンを羽織り、カウチに身を預けて読書に耽る彼女の姿は、月光に照らされて神々しいほどに美しい。
ルチアは視線を本から外し、不躾な侵入者を冷ややかに見上げた。
「……閣下? 夜分に何の御用でしょう。公爵家当主ともあろうお方が、淑女の部屋の扉を叩く礼儀をお忘れになったのですか?」
その声には驚きも、以前のような「彼が来てくれた」という歓喜もなかった。
ただ、深夜に事務連絡を持ってきた部下を嗜めるような、平坦な響きだけがある。
「ルチア、いい加減にしろ。この茶番はいつまで続く」
アルベルトは彼女の皮肉を無視し、大股で歩み寄ると、彼女が手にしていた本を無造作に奪い取った。
そして、逃げ場を塞ぐようにして、カウチの端に彼女を追い詰める。
「……何の真似ですの」
「こちらの台詞だ。気を引くために冷たくしているのなら、もう十分だ。……認めよう、今の君は以前よりも目を引く。私の関心を引くという目的は果たしただろう? だから、もう元のルチアに戻れ」
アルベルトの瞳には、命令に背く部下を叱責するような高慢さと、その奥に隠しきれない縋るような色が混在していた。
ルチアは、至近距離にある彼の端正な顔を、逃げることなくじっと見つめた。
かつて死ぬほど愛した顔。
冷たくされても、罵られても、いつか自分だけを映してくれると信じて疑わなかった、世界で一番美しいはずの顔。
「元の私、ですか?」
ルチアの唇が、自嘲気味に綻ぶ。
「閣下、あなたが仰っているのは、どの中身のない人形のことかしら。あなたの後を常に追いかけ、一瞥を求めて泣き、冷たくされては絶望し……それでも懲りずに愛を乞い続けた、あの哀れな女のことですか?」
「哀れなどと……。私はただ、君に婚約者としての分をわきまえろと言っていただけで……」
「私にとっては、地獄のような時間でしたわ」
ルチアは遮るように、静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「一度や二度ではありませんのよ。五度も繰り返せば、どんなに美味しいお菓子だって砂を噛むような味になりますわ。閣下を愛するという行いは、私にとって、もう毒以外の何物でもないのです」
「五度……? 何を言っている。寝ぼけているのか」
アルベルトは顔をしかめた。
彼女の言葉の意味が理解できない。
ルチアはふっと力を抜き、彼の広い胸にそっと手を置いた。
アルベルトの鼓動が跳ねる。
彼女がようやく、いつものように甘えてくるのだと思った。
だが、その手は甘えるためではなく、彼との間に決定的な距離を作るための、突き放すための予備動作だった。
「閣下、私はもう、あなたを愛していません。これは策でも、気を引くための芝居でもなく、ただの事実です。家のため、義務としての結婚なら果たしましょう。形式上の公爵夫人として、あなたの横に並ぶことはお約束します。ですが、それ以上の情熱を私に求めないでください。あなたに捧げる心は、もう一欠片も残っておりませんの」
彼女の手が、彼の胸を強く、まっすぐに押した。
物理的な力以上に、その言葉の重みにアルベルトは抗うことができず、たたらを踏んで一歩、後ろへ下がる。
「……信じない。そんなはずはない。君が私を嫌いになれるはずがない」
アルベルトは、自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、ルチアは冷ややかに微笑み、彼が床に落とした本を、まるで行儀の悪い子供が散らかした玩具でも拾うかのような手つきで拾い上げた。
「信じる信じないは、閣下の自由ですわ。ただ、思い返してみてください。私を二度と愛することはないと、この婚約はただの義務だと……そう私に引導を渡したのは、あなた自身だということをお忘れなく」
ルチアは再び視線をページに落とした。
その仕草は、もう彼の存在そのものが、彼女の読書という平穏な時間を邪魔する価値さえないと言外に告げていた。
部屋に取り残されたのは、かつて「愛することはない」と宣言したはずの男と、重苦しい沈黙だけだった。
アルベルトの手は、微かに、しかし止めることができないほど震えていた。
愛されることに、ルチアという全肯定の海に浸ることに慣れきっていた彼は、この瞬間初めて知ったのだ。
自分に向けられていた無償の愛。
それは彼がどれほど傲慢に振る舞っても、どれほど外敵に晒されても、彼を傷一つなく守り続けていた「巨大な盾」であったことに。
そして、その盾を自らの傲慢さと無関心によって、粉々に砕き、二度と修復不能にしてしまったことに。
「……私は、君を……」
掠れた声が、彼の唇から零れ落ちる。
「愛している」と言おうとしたのか、「行かないでくれ」と言おうとしたのか、彼自身にも分からなかった。
しかし、その小さな呟きは、ルチアがめくった紙の乾いた音に、無慈悲にかき消された。
彼女の視界の中に、もう彼の居場所は存在しなかった。
回廊を照らす魔導ランプの光は、夜の帳を完全に退けるにはあまりに心許ない。
その仄暗い通路を、一人の男が憑かれたような足取りで進んでいた。
アルベルト・ド・ラザフォード公爵。
この国の政教を左右する冷徹な統治者であり、数多の令嬢が憧れる美貌の持ち主である彼は今、かつてないほど無様な焦燥に突き動かされていた。
たどり着いたのは、婚約者ルチアの寝室の前だ。
彼はその扉を前にして、一度だけ足を止めた。
(自分でも、何をしているのか分からない)
理性がそう囁く。
しかし、昼間に中庭で見た、自分を「障害物」として扱う彼女の冷徹な眼差し。
自分以外の男たちに向けられていた、眩いばかりの知的な笑顔。
それらが網膜に焼き付いて離れない。
彼女が自分の支配下から、自分の影響圏から、完全に脱してしまった。
その事実が、喉元に突きつけられた刃のように、彼のプライドと平穏を脅かしている。
彼は乱暴にドアを叩き、返事も待たずに中へ押し入った。
部屋の中は、仄かなアロマの香りと、読みかけの本が放つ紙の匂いに包まれていた。
そこには、すでに寝支度を終えたルチアがいた。
絹の寝間着の上に薄いガウンを羽織り、カウチに身を預けて読書に耽る彼女の姿は、月光に照らされて神々しいほどに美しい。
ルチアは視線を本から外し、不躾な侵入者を冷ややかに見上げた。
「……閣下? 夜分に何の御用でしょう。公爵家当主ともあろうお方が、淑女の部屋の扉を叩く礼儀をお忘れになったのですか?」
その声には驚きも、以前のような「彼が来てくれた」という歓喜もなかった。
ただ、深夜に事務連絡を持ってきた部下を嗜めるような、平坦な響きだけがある。
「ルチア、いい加減にしろ。この茶番はいつまで続く」
アルベルトは彼女の皮肉を無視し、大股で歩み寄ると、彼女が手にしていた本を無造作に奪い取った。
そして、逃げ場を塞ぐようにして、カウチの端に彼女を追い詰める。
「……何の真似ですの」
「こちらの台詞だ。気を引くために冷たくしているのなら、もう十分だ。……認めよう、今の君は以前よりも目を引く。私の関心を引くという目的は果たしただろう? だから、もう元のルチアに戻れ」
アルベルトの瞳には、命令に背く部下を叱責するような高慢さと、その奥に隠しきれない縋るような色が混在していた。
ルチアは、至近距離にある彼の端正な顔を、逃げることなくじっと見つめた。
かつて死ぬほど愛した顔。
冷たくされても、罵られても、いつか自分だけを映してくれると信じて疑わなかった、世界で一番美しいはずの顔。
「元の私、ですか?」
ルチアの唇が、自嘲気味に綻ぶ。
「閣下、あなたが仰っているのは、どの中身のない人形のことかしら。あなたの後を常に追いかけ、一瞥を求めて泣き、冷たくされては絶望し……それでも懲りずに愛を乞い続けた、あの哀れな女のことですか?」
「哀れなどと……。私はただ、君に婚約者としての分をわきまえろと言っていただけで……」
「私にとっては、地獄のような時間でしたわ」
ルチアは遮るように、静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「一度や二度ではありませんのよ。五度も繰り返せば、どんなに美味しいお菓子だって砂を噛むような味になりますわ。閣下を愛するという行いは、私にとって、もう毒以外の何物でもないのです」
「五度……? 何を言っている。寝ぼけているのか」
アルベルトは顔をしかめた。
彼女の言葉の意味が理解できない。
ルチアはふっと力を抜き、彼の広い胸にそっと手を置いた。
アルベルトの鼓動が跳ねる。
彼女がようやく、いつものように甘えてくるのだと思った。
だが、その手は甘えるためではなく、彼との間に決定的な距離を作るための、突き放すための予備動作だった。
「閣下、私はもう、あなたを愛していません。これは策でも、気を引くための芝居でもなく、ただの事実です。家のため、義務としての結婚なら果たしましょう。形式上の公爵夫人として、あなたの横に並ぶことはお約束します。ですが、それ以上の情熱を私に求めないでください。あなたに捧げる心は、もう一欠片も残っておりませんの」
彼女の手が、彼の胸を強く、まっすぐに押した。
物理的な力以上に、その言葉の重みにアルベルトは抗うことができず、たたらを踏んで一歩、後ろへ下がる。
「……信じない。そんなはずはない。君が私を嫌いになれるはずがない」
アルベルトは、自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、ルチアは冷ややかに微笑み、彼が床に落とした本を、まるで行儀の悪い子供が散らかした玩具でも拾うかのような手つきで拾い上げた。
「信じる信じないは、閣下の自由ですわ。ただ、思い返してみてください。私を二度と愛することはないと、この婚約はただの義務だと……そう私に引導を渡したのは、あなた自身だということをお忘れなく」
ルチアは再び視線をページに落とした。
その仕草は、もう彼の存在そのものが、彼女の読書という平穏な時間を邪魔する価値さえないと言外に告げていた。
部屋に取り残されたのは、かつて「愛することはない」と宣言したはずの男と、重苦しい沈黙だけだった。
アルベルトの手は、微かに、しかし止めることができないほど震えていた。
愛されることに、ルチアという全肯定の海に浸ることに慣れきっていた彼は、この瞬間初めて知ったのだ。
自分に向けられていた無償の愛。
それは彼がどれほど傲慢に振る舞っても、どれほど外敵に晒されても、彼を傷一つなく守り続けていた「巨大な盾」であったことに。
そして、その盾を自らの傲慢さと無関心によって、粉々に砕き、二度と修復不能にしてしまったことに。
「……私は、君を……」
掠れた声が、彼の唇から零れ落ちる。
「愛している」と言おうとしたのか、「行かないでくれ」と言おうとしたのか、彼自身にも分からなかった。
しかし、その小さな呟きは、ルチアがめくった紙の乾いた音に、無慈悲にかき消された。
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