私のことは放っておいてください、旦那様~どうぞ愛人とお幸せに~

たると

文字の大きさ
22 / 25

一ミリも噛み合わない

こうして、エルザの本邸へのお引越しと、公爵夫人としての本格的な生活が幕を開けた。

本邸の主殿に用意された部屋は、離宮とは比べものにならないほど広大で豪華だったが、エルザが真っ先に向かったのは、やはり新しく改装された本邸の厨房だった。

「素晴らしいわ……! 火力が離宮の三倍はあるし、大理石の調理台もピカピカ! これなら一度に大量の生地を捏ねられるわね!」

エルザは引っ越し初日から、ドレスの袖を容赦なく捲り上げ、小麦粉の袋に突っ込んでいた。
公爵夫人としての正当な生活を送るという約束は、彼女の脳内において「公爵夫人の権限で、誰にも文句を言われずに極上の厨房を私物化する生活」へと完全昇華されていたのだ。

「奥様、アルベルト様がお戻りです!」

アナが慌てて呼びに来たのは、ちょうどエルザが特製のハーブブレッドをオーブンから焼き上げた瞬間だった。

「まあ、良いタイミングですわ!」

エルザは、焼き立てのパンをカゴに盛り付けると、そのままの格好で本邸の食堂へと向かった。

食堂に入ると、上着を脱いで椅子に腰掛けていたアルベルトが、エルザの姿を見て一瞬だけ目を見張った。
ドレスの裾にはうっすらと粉が飛び散り、頬には白い汚れがついている。

「エルザ……君は、また厨房にいたのか。公爵夫人としての生活を送ると言ったはずだが」

アルベルトは呆れたように息を吐いたが、その声に以前のような冷徹さはなく、彼女を見守る甘さが混ざっていた。

「ええ、もちろん公爵夫人としての公務に励んでおりましたわ!」

エルザは胸を張り、アルベルトの目の前に焼き立てのパンを置いた。

「本日の公務は、我が公爵家の食卓の品質向上です。旦那様、どうぞ温かいうちにお召し上がりくださいな!」

(さあ、旦那様! 予算をたっぷり使って作った、最高級ハニーバター仕込みのハーブブレッドよ! これを食べて、次のハーブ園拡張の追加予算にも一発でサインしてちょうだい!)

アルベルトは、目の前でキラキラと目を輝かせる新妻を見つめ、苦笑しながらパンを千切って口に運んだ。
外はカリッと香ばしく、中は驚くほどモチモチとしており、蜂蜜の甘みとハーブの爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
昨日までの焦燥や疲れが、その一口で綺麗に溶けていくようだった。

「……美味いな」
「でしょう!?」

エルザは我が意を得たりと満面の笑みを浮かべた。

アルベルトは、そんな彼女の無邪気な笑顔を見つめながら、静かにワイングラスを傾けた。
彼女を本邸に呼び戻し、自分の傍らに置くことで、今度こそ完全に支配したつもりだった。
しかし、こうして自分のために嬉々として(と彼には見える)料理を振る舞う彼女に、胃袋も、そして心も、ますます深く掴まれていくのを止められない。

「エルザ。明日からは社交の準備も始めてもらう。だが……君が望むなら、一日の半分は、その『公務』に費やすことを許そう」

「まあ! ありがとうございます、アルベルト様!」

(やったわ! 1日の半分も調理(趣味)に費やしていいなんて、やっぱり公爵夫人の役職って最高だわ!)

冷徹公爵の歪んだ独占欲と、新妻のどこまでも逞しい職人魂。
二人の思惑は相変わらず一ミリも噛み合わないまま、公爵邸の食卓には、今日も香ばしいパンの香りと、どこか奇妙で平和な空気が満ちていくのだった。

あなたにおすすめの小説

あなたがワインを浴びせた相手は、"子爵令嬢"じゃありませんわ

ばぅ
恋愛
公爵令息の恋人と噂されている「ルリア・ラズベルン子爵令嬢」と勘違いされ、夜会でワインを浴びせられた私。でも残念、完全な人違いです。

「侍女に薬湯でも持たせろ」——侍医頭が放逐した公爵令嬢の名を、十二日眠れぬ王太子は誰にも問えなかった件

歩人
ファンタジー
「侍女に薬湯でも持たせろ。公爵令嬢殿は、もう不要だ」――王宮侍医頭グレゴールの一言で、公爵令嬢クラリッサは静かに薬研を片付けた。王太子レオンハルトは、その場で頷いた。彼女の名前を呼ぶこともなく。十年間、毎晩王太子の枕元に置かれていた湯気の立つ陶器の碗。王太子は、それを「侍女が運んでくる温い水」だと思っていた。放逐から十二日。眠れぬ夜の三日目に、王太子は枕の下から束ねた処方箋を見つける。十年分。三千六百通。すべての処方箋に、差出人の名前が――書かれていなかった。「これを書いたのは、誰だ」王太子の問いに、侍医頭は「クラリッサ様で」と答えた。――その名を、王太子は一度も口にしたことがなかった。居並ぶ誰一人として、彼女を本名で呼んだ者はいなかった。

愛さないと言われた妻、侍女と出て行く

菜花
ファンタジー
お前を愛することはないと夫に言われたコレットは、その日のうちに侍女のイネスと屋敷を出て行った。カクヨム様でも投稿しています。 5/14 その後の話を追加しました。

〖完結〗旦那様が私を殺そうとしました。

藍川みいな
恋愛
私は今、この世でたった一人の愛する旦那様に殺されそうになっている。いや……もう私は殺されるだろう。 どうして、こんなことになってしまったんだろう……。 私はただ、旦那様を愛していただけなのに……。 そして私は旦那様の手で、首を絞められ意識を手放した…… はずだった。 目を覚ますと、何故か15歳の姿に戻っていた。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全11話で完結になります。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

別に要りませんけど?

ユウキ
恋愛
「お前を愛することは無い!」 そう言ったのは、今日結婚して私の夫となったネイサンだ。夫婦の寝室、これから初夜をという時に投げつけられた言葉に、私は素直に返事をした。 「……別に要りませんけど?」 ※Rに触れる様な部分は有りませんが、情事を指す言葉が出ますので念のため。 ※なろうでも掲載中

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

正当な権利ですので。

しゃーりん
恋愛
歳の差43歳。  18歳の伯爵令嬢セレーネは老公爵オズワルドと結婚した。 2年半後、オズワルドは亡くなり、セレーネとセレーネが産んだ子供が爵位も財産も全て手に入れた。 遠い親戚は反発するが、セレーネは妻であっただけではなく公爵家の籍にも入っていたため正当な権利があった。 再婚したセレーネは穏やかな幸せを手に入れていたが、10年後に子供の出生とオズワルドとの本当の関係が噂になるというお話です。