上 下
2 / 5

しおりを挟む
『開けて! 開けなさいよ! わたくしを誰だと思っていますの!?』

 ヴァネッサ・ルーフェンよ!と叫んだ彼女の言葉は、当然門衛には「にゃーん」としか聞こえず顔をしかめられた。

「あっちに行け!」

 手で追いやる仕草をする男に、ヴァネッサは尚も言いつのる。

『ちょっと! あなた仕えている主人の顔すら知りませんの!? クビ、クビよ!!』

 どれほど喚いてみても「にゃーん、にゃにゃっ! ふしゃー!!」としか聞こえない門衛は、煩わし気にヴァネッサを追い払ってしまった。

『最悪だわ、どうしてこんな事になっているのよ。というかなんて貧弱な体なのよ』

 門衛に喚きたて、少し走っただけで息を切らしてしまっている。これは野良猫としては致命的ではないだろうか。

『あー、疲れましたわ』

 疲れ果てたヴァネッサは、令嬢らしくなく地べたに座り込んだ。
 残された自分の体はどうなっているのだろうか。魂が抜け植物人間状態になっているのだろうか、それともこの体の魂の主がヴァネッサの体に入り込んでしまっているのだろうか。
 どちらにせよ元の体に戻れたとしても大変な事になっているのは間違いないだろう。これからどうしたものかと思案しているとヴァネッサの体がぐぅと音をたてる。

『……お腹が空いたわ。一体どうすれば良いのかしら』

 ヴァネッサは寝ても覚めても貴族令嬢だ。残飯を漁った事も、ネズミなどの動植物を食べたことも無い。くうくうと鳴りだす腹はどうにも止めようがなく、ただでさえ脆弱な体が更に弱くなったような気がする。
 仕方がない、せめて野苺のような抵抗なく食べられそうな何かを探そうと、体を起こして歩き出す。

『無い……何故無いのよ』

 ひたすら歩き続けたヴァネッサには、食べられる果物は見つけられなかった。
 それも仕方がないことだ。ヴァネッサは貴族で我が儘放題の娘だ。魚の切り身が海や川で泳いでいると思っている世間知らずな令嬢が、人間よりもはるかに小さい体を動かして、人間が食べるものだけを口にして生きることなど無理という話である。
 それならば、人間に媚でも売ればそれらしい物にありつけるのだろうが、彼女の山よりも高い自尊心が邪魔をしてそれも出来なかった。

『あれ?こんな所を歩いているなんて珍しいな』

 行く当てもなく歩いていたヴァネッサに、野良猫が声をかけてくる。茶色い毛並みをしているその猫はどうやら黒猫の知り合いらしかった。
 
『誰よ、あなた』

『誰よだなんて、メスみたいな喋り方して。頭でも打ったのか?』

 どうやらこの体は男らしい、確かに令嬢が話すような言葉は似合わないだろう。至極全うな事を言われているのだが、腹を立てたヴァネッサは反論した。

『私は、女で間違いないわよ!!』

 大声をあげるヴァネッサの声よりも遥かに大きな音をたてて、腹の虫が鳴った。
 羞恥心が顔に集中していく中、茶色の猫は大声で笑う。

『なんだ、腹が減ってるのか?』

『野苺が見つからなかったの!』

 苛立ちを露にするヴァネッサを見て、野良猫はくつくつと笑う。

『仕方がない、俺が食いもんの見つけ方を教えてあげよう』

 そう言って、野良猫はヴァネッサを連れて町の中を歩き始める。
 食べられる果物が生えている場所、残飯の漁り方や人間から上手に食べ物を強請る方法。野良猫として生きていく全てを、彼はヴァネッサに教えてくれた。

『ほら、そっちに鼠が走って行ったぞ』

『きゃぁ! 来ないでくださいまし!!』

 野良猫としての素質の無い、生粋の令嬢であるヴァネッサの教育は困難を極めた。

『さあ、この壁の上を進めば近道だから。おいで』

『よいっしょ……ぶっ。こんなに高い壁登れませんわ! 私、猫ではありませんのよ!?』

 この体も原因の一つだろうが、獲物を追いかければ息切れし、人間から逃げるために壁の上に上ろうとすれば当然のように壁にぶつかり、やっと獲物を捕まえられたと思えば人間としての理性がネズミを食らうことを拒否した。

『はー、本当にヴィーはダメダメな猫だった』

 この体は風魔法が使えるのだと気づいてからからは、狩りや索敵も格段に上達した。
 やっとのことで独り立ちしても良いと首を縦に振った茶色い猫は、やれやれと特大のため息をつく。
 それは、猫になってから一月近くたっていた。

『なによ、ネスの教え方が悪かったのだわ』

『いーや、ヴィーがダメ弟子だったのさ』

 そう言って顔を見合わせた二人は笑い声をあげる。一頻り笑いあった後『今度からは、困ってても助けてあげないからね』と口端を上げたネスは、ヴァネッサの鼻にちょんと鼻をくっつけ踵を返す。

『な、なによ。今度は貴方が私に助けてちょうだいとねだりますのよ!!』

 ネスの後ろ姿に叫ぶと、彼は尻尾を一振りして去って行った。
しおりを挟む

処理中です...