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閑話 広瀬課長が独身な理由
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『また今度な』
俺の部屋に来たいっていう部下のわがままを、いつものようにかわして、今夜も独りで帰宅する。
セキュリティのかけらもないようなアパート。
借り主の半分が学生、半分が社会人ぐらいの格安物件。その一角が俺の自宅。
大きな金属音を響かせながら鍵を開けて、建付けの悪い蝶番がギィっと嫌な音をたてて扉が開いた。
これ以上大きな音をたてれば近所迷惑。閉まるときにそっと手を当てて静かに閉めるようになったのは、いつからだっただろうか。
パタンと扉が閉まると同時に、その風圧で彼女の靴の片方が倒れた。
我が家の玄関に置かれた、彼女らしくない選択のピンヒール。珍しく一目惚れしたって話してくれたっけ。
倒れた片方をそっと手で直して、その隣を静かにすり抜ける。
廊下を真っ直ぐ進んだ突き当りに一部屋。玄関入ってすぐ、風呂とトイレが別なことだけは、彼女にも褒めてもらえたな。キッチンの小ささにはいつまで経っても文句しかでなかった。
それが俺の城。
この部屋にあるものが俺の全て。
オシャレなデザイナーズマンションに住んでる?
これのどこがだよ。
換気の為に一番奥の窓を開ける。ベランダに出れば、どこかから漂ってくるのはカレーの匂い。追いかけてきた匂いは、焼肉か。
毎晩欠かさずこの部屋に帰ってきてたのに、珍しくあの日だけ帰り損ねた。
企画が没になって、その苛立ちを流すように酒をあびた。
気がついた時には見知らぬ天井。
そして聞こえた、水の流れる音に混じった声。
今でも耳に残って仕方ない、欲望にまみれた音。
あの時の水音は本当にシャワーの音だけだっただろうか。今となっては確かめることもできないけど。
ふと室内から感じる視線。
挨拶するの忘れてたな。
「ただいま」
俺の言葉に返ってくる『おかえり』の声。
その音は耳の外からじゃない。
俺の頭の中で、もう何度も繰り返された響き。
視線の犯人、写真の中の彼女は俺よりもずっと若い笑顔で出迎えてくれる。
学生の時のまま時が止まった写真。二人で写ったのはたった一枚しかなかった。
あんなに写真を撮ったのに。あんなに一緒にいたのに。景色の写真と彼女ばかりでいっぱいだった俺のフォルダ。
彼女の携帯には、二人で写った写真もあったかな。
重いトラックに砕かれた携帯は多分修復できてない。
だからこそ俺との関係もバレずに済んだんだ。
「今日も、お疲れ」
写真に向かってグラスを傾ける。
氷と焼酎が入っただけのグラス。胃がかっとなるぐらいの熱さを感じて、それを抑えるようにもう一口口に入れる。
冷蔵庫の中にはつまみすらなくて、口寂しさに笠原の作った卵焼きを思い出した。
もう十年以上前に食べた、彼女の作ったものと似た味のそれ。
懐かしさのあまり、図々しく要求したりして、困らせた自覚はある。
結局早川と二人で部屋にまで上がり込んで、控えめに手料理を振る舞ってくれた彼には本当に悪いことをした。
そのどれもが彼の性格と同じように真っ直ぐで、俺の気持ちを満たすには十分過ぎた。
俺を慕ってくれる部下は少なくない。その誰もがかわいいとは思う。好意を寄せてくれるのであれば、こちらも好意を持って接したい。それが人間というものだ。
笠原に持っていた感情も、それと変わらなかった。
他部署のことに一生懸命で、真面目に仕事に取り組んでると思う。それなのに、どこか自信なさげで儚げで、守ってやりたいって庇護欲を掻き立てられた。
笠原を何度も食事に連れて行ったのは、純粋に慕ってくれる様子が嬉しかったからだ。違う部署だからこそ、俺の仕事のしかたも知らずに一直線に向けてくれる好意は、くすぐったいくせに嬉しい。
同じ社内にいても、職場が違えば仕事が違う。
俺が肩肘を張らなくて良い相手としては、最適だった。
笠原はきっと、ちょっとやそっとじゃ俺のことを軽蔑しないって、どこか確信めいたものがあって、飲みすぎた。
笠原の口から漏れた『課長』は、俺のこと?
それとも別人?
あんな顔をさせる相手は、誰だ?
薄っすらと胸にくすぶる感情は嫉妬。
もう何年も止まったままの感情が、少し傾いた。
俺のことを考えてくれないだろうか。
俺のことであんな顔をしてくれないだろうか。
社内の部下で、男で。
そんなことどうでもよくなるぐらい、のめり込んでいた。
「俺、海外行くわ」
いつでも笑顔の彼女は、そんな俺の言葉にも笑ってる。
思い出が詰まったままのこの部屋を引き払って、早くて三年。遅くなれば五年、もしくはそれ以上。
上にあがるには一番の近道。
この部屋を引き払うことに少し躊躇はするだろうけど、少し前の俺なら二つ返事で行くことを決めたはず。
即答できなかった原因は、もう写真の中にはない。
俺の名前を少し弾むように呼ぶ声。
俺のいないうちに、早川にとられてしまうな。
ポスト広瀬は、仕事だけじゃない。
待っててなんて言えるわけがない。
若者の時間を止めてはいけない。
止まった時間に縛られて、身動きがとれなかったのは俺だけで十分だ。
「この部屋は終わりにする。お前の靴も、片付けるよ」
動き始めた俺の時間。彼女との時間を忘れるわけじゃない。
だけど、ごめん。
いつまでも思っててやれなくて悪い。
「俺、笠原が好きだ」
誰にも伝えられない思い。
ここでだけ口にさせて欲しい。
俺の言葉に、彼女がいつもの笑顔を向けた。
俺の部屋に来たいっていう部下のわがままを、いつものようにかわして、今夜も独りで帰宅する。
セキュリティのかけらもないようなアパート。
借り主の半分が学生、半分が社会人ぐらいの格安物件。その一角が俺の自宅。
大きな金属音を響かせながら鍵を開けて、建付けの悪い蝶番がギィっと嫌な音をたてて扉が開いた。
これ以上大きな音をたてれば近所迷惑。閉まるときにそっと手を当てて静かに閉めるようになったのは、いつからだっただろうか。
パタンと扉が閉まると同時に、その風圧で彼女の靴の片方が倒れた。
我が家の玄関に置かれた、彼女らしくない選択のピンヒール。珍しく一目惚れしたって話してくれたっけ。
倒れた片方をそっと手で直して、その隣を静かにすり抜ける。
廊下を真っ直ぐ進んだ突き当りに一部屋。玄関入ってすぐ、風呂とトイレが別なことだけは、彼女にも褒めてもらえたな。キッチンの小ささにはいつまで経っても文句しかでなかった。
それが俺の城。
この部屋にあるものが俺の全て。
オシャレなデザイナーズマンションに住んでる?
これのどこがだよ。
換気の為に一番奥の窓を開ける。ベランダに出れば、どこかから漂ってくるのはカレーの匂い。追いかけてきた匂いは、焼肉か。
毎晩欠かさずこの部屋に帰ってきてたのに、珍しくあの日だけ帰り損ねた。
企画が没になって、その苛立ちを流すように酒をあびた。
気がついた時には見知らぬ天井。
そして聞こえた、水の流れる音に混じった声。
今でも耳に残って仕方ない、欲望にまみれた音。
あの時の水音は本当にシャワーの音だけだっただろうか。今となっては確かめることもできないけど。
ふと室内から感じる視線。
挨拶するの忘れてたな。
「ただいま」
俺の言葉に返ってくる『おかえり』の声。
その音は耳の外からじゃない。
俺の頭の中で、もう何度も繰り返された響き。
視線の犯人、写真の中の彼女は俺よりもずっと若い笑顔で出迎えてくれる。
学生の時のまま時が止まった写真。二人で写ったのはたった一枚しかなかった。
あんなに写真を撮ったのに。あんなに一緒にいたのに。景色の写真と彼女ばかりでいっぱいだった俺のフォルダ。
彼女の携帯には、二人で写った写真もあったかな。
重いトラックに砕かれた携帯は多分修復できてない。
だからこそ俺との関係もバレずに済んだんだ。
「今日も、お疲れ」
写真に向かってグラスを傾ける。
氷と焼酎が入っただけのグラス。胃がかっとなるぐらいの熱さを感じて、それを抑えるようにもう一口口に入れる。
冷蔵庫の中にはつまみすらなくて、口寂しさに笠原の作った卵焼きを思い出した。
もう十年以上前に食べた、彼女の作ったものと似た味のそれ。
懐かしさのあまり、図々しく要求したりして、困らせた自覚はある。
結局早川と二人で部屋にまで上がり込んで、控えめに手料理を振る舞ってくれた彼には本当に悪いことをした。
そのどれもが彼の性格と同じように真っ直ぐで、俺の気持ちを満たすには十分過ぎた。
俺を慕ってくれる部下は少なくない。その誰もがかわいいとは思う。好意を寄せてくれるのであれば、こちらも好意を持って接したい。それが人間というものだ。
笠原に持っていた感情も、それと変わらなかった。
他部署のことに一生懸命で、真面目に仕事に取り組んでると思う。それなのに、どこか自信なさげで儚げで、守ってやりたいって庇護欲を掻き立てられた。
笠原を何度も食事に連れて行ったのは、純粋に慕ってくれる様子が嬉しかったからだ。違う部署だからこそ、俺の仕事のしかたも知らずに一直線に向けてくれる好意は、くすぐったいくせに嬉しい。
同じ社内にいても、職場が違えば仕事が違う。
俺が肩肘を張らなくて良い相手としては、最適だった。
笠原はきっと、ちょっとやそっとじゃ俺のことを軽蔑しないって、どこか確信めいたものがあって、飲みすぎた。
笠原の口から漏れた『課長』は、俺のこと?
それとも別人?
あんな顔をさせる相手は、誰だ?
薄っすらと胸にくすぶる感情は嫉妬。
もう何年も止まったままの感情が、少し傾いた。
俺のことを考えてくれないだろうか。
俺のことであんな顔をしてくれないだろうか。
社内の部下で、男で。
そんなことどうでもよくなるぐらい、のめり込んでいた。
「俺、海外行くわ」
いつでも笑顔の彼女は、そんな俺の言葉にも笑ってる。
思い出が詰まったままのこの部屋を引き払って、早くて三年。遅くなれば五年、もしくはそれ以上。
上にあがるには一番の近道。
この部屋を引き払うことに少し躊躇はするだろうけど、少し前の俺なら二つ返事で行くことを決めたはず。
即答できなかった原因は、もう写真の中にはない。
俺の名前を少し弾むように呼ぶ声。
俺のいないうちに、早川にとられてしまうな。
ポスト広瀬は、仕事だけじゃない。
待っててなんて言えるわけがない。
若者の時間を止めてはいけない。
止まった時間に縛られて、身動きがとれなかったのは俺だけで十分だ。
「この部屋は終わりにする。お前の靴も、片付けるよ」
動き始めた俺の時間。彼女との時間を忘れるわけじゃない。
だけど、ごめん。
いつまでも思っててやれなくて悪い。
「俺、笠原が好きだ」
誰にも伝えられない思い。
ここでだけ口にさせて欲しい。
俺の言葉に、彼女がいつもの笑顔を向けた。
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