ウェントス

関谷俊博

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帰国した俺は、腑抜けのようになって、家に引きこもった。何をするのも面倒で、全てが馬鹿げたことのように思えた。酒ばかり飲んでは、つけっぱなしのテレビを、意味もなく眺めた。テレビはお笑い番組を流していた。どうして、こいつらは笑ってられるんだ。俺は思った。全ての輝きは消えてしまったというのに。
日々はするすると流れていった。昨日は今日と同じで、きっと明日も今日と同じなんだろう。夜になって雨が降り始めた。玄関のチャイムが鳴った。のろのろと立ち上がると、俺は玄関のドアを開けた。
「荻さん…」
杉浦がそこに立っていた。
「ほら、拭けよ」
俺は杉浦にタオルを放った。
「ずぶ濡れだ」
「すみません」、
杉浦は黙って頭と身体を拭いていたが、やがて口を開いた。
「一人で部屋にいたら堪らない気持ちになったんです。無性に荻さんに会いたくなって…」
「そうか」
「何だか全てが夢だったような気がするんです。ジョクラトルのことも、倉田さんのことも」
俺は何も言えなかった。今さら何を言えばいいのだろう。
そのとき、杉浦はテーブルの上に置かれたDVD に気づいた。
「あ、これ」
「ああ、解散後に出た俺達の唯一のビデオクリップ集さ。繰り返し観てるよ」
「自分もです。確かタイトルは…」
「ウェントス。ラテン語で風…」
「そうでした。タイトルをつけたのは、荻さんでしたね」
「そうだ。一緒に観るか。杉浦」
「ええ」
ウェントス…風。
在りし日の倉田がそこにいた。決して派手ではないが堅実なベース。しかしその音を聞いただけで、すぐに倉田だとわかる。倉田は本当に稀有なベーシストだったのだ。
「どうして風、だったんですか」
杉浦が呟いた。
「倉田は風になったんだ。生の軛から解き放たれて、自由になったのさ」 
「そう言えば倉田さん。若い頃、放浪の旅に出たって聞きました」
「俺も聞いたよ。自由気儘なあいつらしいな」
俺と杉浦は、暫くビデオクリップを眺めていた。やがて、杉浦がぽつりと呟いた。
「受賞しましたね。ダイヤモンドディスク」
「ああ。だけどあれは倉田のものだ…ダイヤモンドディスクが倉田の夢だったから」
「そうですね…。だけど荻さんはもう音楽活動はやらないんですか…」
杉浦が尋ねた。
「沢山オファーはあったよ。ソロでやらないかとも言われた。だけどその気になれなくてね」
「自分もです。ジョクラトルのことが頭から離れなくて」
「白井から電話があったけど奴もそうらしい。幾つものバンドの誘いを断って、結局はスタジオミュージシャンをやっているそうだ」
そう言うと、杉浦は俺の目をじっと見つめて言った。
「荻さん、自分はもうあなたの後ろでしかドラムを叩く気になれないんですよ。ステージであなたの後姿をずっと見つめてきましたから」
「悪いな…もう少し時間をくれ」
「自分はいつまでも待ちますから。ジョクラトルが再始動する、その時を」
「ああ…時が来たら…時が来たら…またきっと」
そう答えたが、倉田のいないバンドで俺は歌えるだろうか…いや…それでも…。
俺達はまた巡り会う。時の輪の接する処、時の輪の接する時代にまたきっと。
「また組もうぜ、荻」
倉田の声が何処かから聞こえた気がした。


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