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社会人になって、僕は何人かの女の子とつきあったけれど、どれも長続きしなかった。
「親切で優しいけど、あなたの心は冷たい」と言われたこともある。
「雪路くんは時々とても冷たい眼をすることがあるわ。いったい何を考えているの」
そう言われても、返す言葉がなかったので、僕は曖昧に笑うしかなかった。
だけど本当は僕にはわかっていた。僕の心には、鍵のかかった部屋が手つかずのまま残されていた。そして、その部屋は則子の為に用意されたものだった。僕はまだ則子のことを忘れられずにいたのだ。
その頃、渋谷の道玄坂にあるカウンセリングルームで、僕は働いていた。
カウンセリングルームを訪れる相談者のことを、クライエントと呼ぶ。英語のクライアントと同義だが、カウンセリングの現場では、クライエントと呼ぶのが一般的なようだ。
毎日、僕の元には、様々なクライエントが訪れた。うつ病のクライエントもいれば、ギャンブル依存症のクライエントもいた。他にも、DVやいじめに悩んでいたり、不登校や引きこもりに悩んでいたり…。僕は、絡まった心の糸を、時間をかけてゆっくりと解きほぐし、問題を解決へと導いた。クライエントの話をじっくりと聴くこと。その話の中から最良の選択肢を見つけ出すこと。
評判が評判を呼んで、そのカウンセリングルームでは、僕は人気のカウンセラーだった。
彼女は、その日、三人目のクライエントだった。問診票に書かれた名前に、僕は目を奪われた。決して忘れることのできない名前が、そこに書かれていたからだ。その筆跡にも見覚えがあった。アドレセンス中葉にしか享受できない憧憬と心の震え。殆ど息が詰まりそうになりながら、僕はその名前を見つめていた。僕はその名前にまつわる大切な記憶を、心の片隅にしまい込んでいたのだ。
だけどそんな筈はない。僕はそう思いなおした。それは遠い昔に過ぎ去って、もう二度と戻ってはこない感傷的な心情である筈だった。そんなことが起こるなんて、もはやありえない。
そう考えて、僕は気持ちを落ち着けるよう努めた。そう。同姓同名の人物なんて、この世界に掃いて捨てるほどいる。そして僕は、落胆と同時に安堵もするのだろう。
そのとき、カウンセリングルームのドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」と僕は言った。
髪の長い女性のクライエントが、うつむき加減にカウンセリングルームに入ってきた。
クライエントが顔をあげた。僕は彼女の顔から目を背けることができなかった。こうなることは既にわかっていた気がした。結局はこうなることを、僕は意識の底で理解していたのだ。
「忘れてたしまったの」
則子は僕の眼を見つめて言った。
「忘れてないさ」と僕は答えた。
僕は懸命に心を落ち着かせようと努めた。どうしてこのような成り行きになったのかはわからないが、これは仕事なのだ。すべきことをせねばならない。
「ところで則子さん、どうなさいましたか」
動揺は隠せなかったが、僕は則子に尋ねた。
「幻聴が聞こえるの」
則子は答えた。確かに問診票の質問の回答欄には「幻聴」と書かれている。幻聴。統合失調症だろうか。
「そうなんですか。幻聴が聞こえるんですね。何て聞こえるんですか」
則子は口を噤んで、首を傾げた。そして、僕の眼をじっと覗きこんできた。
「どうして敬語なの」
「えっ」
「学生の頃からの知り合いなのに、おかしいわ」
「だって、きみはクライエントだから」
「ふうん」
則子は不服そうだった。
「おっかしいなあ、そんなの」
則子の口調が急にぞんざいになった。
「了解」
僕は則子の意見に同意した。
「きみの言う通りにしよう。カウンセラーはクライエントの要望に応えるべきだ。だけど、きみの症状にカウンセリングが有効かどうかはわからないよ」
「精神科に通院して服薬もしているわよ。それでも良くならないから、ここへ来たの。お金は払うんだから、いいじゃない」
こうして則子のカウンセリングは始まった。則子は話の核心をなかなか口にしなかった。肝心の部分になると、則子は話を逸らした。則子の心には他人の踏み込めない聖域があって、僕と則子はその周囲を迂回しながら、延々と歩きまわっているようだった。
僕は則子の話にじっと耳を傾けた。クライエントの話を傾聴するのも、カウンセラーの大切な仕事ではある。
三ヶ月、僕は則子の話を聞き続けた。話はいつも堂々めぐりだった。ある日、僕は辛抱ができなくなって、こちらから質問を投げかけてみた。
「ピアノ、どうしてる?」
則子の顔は一瞬こわばり、すぐにこう吐きすてた。
「ピアノはやってないわ」
迂闊な質問だった。幻聴が聞こえるという則子が、プロのピアニストを続けられるはずがない。
「だけど、それに代わるものも、私にはないの。私はピアノしかやってこなかったから」
則子は恨めしそうに、僕の顔を見た。
「ねえ、雪路くん。あなた、卵焼きつくれる?」
「たぶん、つくれると思う」
則子の言葉の意図がわからなかったので、僕は慎重に答えた。
「ずいぶんと長いこと、つくってないけどね」
僕は独り身だから、大抵は外食で済ませている。つくっても酒のつまみ程度だ。
「そう」
則子は深い溜息をついた。
「私は卵焼きすらつくれない。人生の大半をピアノに費やしてきたから、料理なんてしたことがないの。母も教えてくれなかった」
「卵焼きをつくれないのは、人生にとってさしたる問題ではないと思う」
僕は言った。
「これから覚えればいいんだよ」
「私が言いたいのは、そういうことじゃないの…」
則子は首を振った。
「私にはピアノしかなかった。プロのピアニストになるのが夢だったの。音大に入って、一日十五時間は練習したわ」
則子は囁くような声で語り始めた。僕は黙って則子の話を聴いていた。自分が抱えている心の問題を、漸く則子は口にし始めたのだ。
「だけど、あと少しでプロになれる。そのとき、私の右手の薬指が全く動かなくなってしまったの」
僕は黙って頷いた。
「もちろん病院へも行ったわ。演奏会は一週間後に迫っていたから」
「そうか」
「原因はわからなかった。医学的には、どこも悪くないと医者は言ったわ」
則子はまた深い溜息をついた。だけど僕は、則子が抱えている問題は、それだけではない気がした。心のもっと深いところに、問題の核心があるように感じた。「幻聴が聞こえるの」。そう則子は言った。ピアノが弾けなくなったことは、確かに則子にとって、大きな精神的ショックだったことだろう。深い傷を則子の心に残したことだろう。それでも幻聴の直接の原因は、それだけではない、と僕は思った。カウンセラーとしての一種の感だ。
「今でも忘れられないわ。私が演奏会で弾くはずだった曲…」
「なんて曲だったの」
「エリックサティのジムノペディ…」
則子が言った途端、カウンセリングルームのBGMが、静かにジムノペディを奏で始めた。
「親切で優しいけど、あなたの心は冷たい」と言われたこともある。
「雪路くんは時々とても冷たい眼をすることがあるわ。いったい何を考えているの」
そう言われても、返す言葉がなかったので、僕は曖昧に笑うしかなかった。
だけど本当は僕にはわかっていた。僕の心には、鍵のかかった部屋が手つかずのまま残されていた。そして、その部屋は則子の為に用意されたものだった。僕はまだ則子のことを忘れられずにいたのだ。
その頃、渋谷の道玄坂にあるカウンセリングルームで、僕は働いていた。
カウンセリングルームを訪れる相談者のことを、クライエントと呼ぶ。英語のクライアントと同義だが、カウンセリングの現場では、クライエントと呼ぶのが一般的なようだ。
毎日、僕の元には、様々なクライエントが訪れた。うつ病のクライエントもいれば、ギャンブル依存症のクライエントもいた。他にも、DVやいじめに悩んでいたり、不登校や引きこもりに悩んでいたり…。僕は、絡まった心の糸を、時間をかけてゆっくりと解きほぐし、問題を解決へと導いた。クライエントの話をじっくりと聴くこと。その話の中から最良の選択肢を見つけ出すこと。
評判が評判を呼んで、そのカウンセリングルームでは、僕は人気のカウンセラーだった。
彼女は、その日、三人目のクライエントだった。問診票に書かれた名前に、僕は目を奪われた。決して忘れることのできない名前が、そこに書かれていたからだ。その筆跡にも見覚えがあった。アドレセンス中葉にしか享受できない憧憬と心の震え。殆ど息が詰まりそうになりながら、僕はその名前を見つめていた。僕はその名前にまつわる大切な記憶を、心の片隅にしまい込んでいたのだ。
だけどそんな筈はない。僕はそう思いなおした。それは遠い昔に過ぎ去って、もう二度と戻ってはこない感傷的な心情である筈だった。そんなことが起こるなんて、もはやありえない。
そう考えて、僕は気持ちを落ち着けるよう努めた。そう。同姓同名の人物なんて、この世界に掃いて捨てるほどいる。そして僕は、落胆と同時に安堵もするのだろう。
そのとき、カウンセリングルームのドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」と僕は言った。
髪の長い女性のクライエントが、うつむき加減にカウンセリングルームに入ってきた。
クライエントが顔をあげた。僕は彼女の顔から目を背けることができなかった。こうなることは既にわかっていた気がした。結局はこうなることを、僕は意識の底で理解していたのだ。
「忘れてたしまったの」
則子は僕の眼を見つめて言った。
「忘れてないさ」と僕は答えた。
僕は懸命に心を落ち着かせようと努めた。どうしてこのような成り行きになったのかはわからないが、これは仕事なのだ。すべきことをせねばならない。
「ところで則子さん、どうなさいましたか」
動揺は隠せなかったが、僕は則子に尋ねた。
「幻聴が聞こえるの」
則子は答えた。確かに問診票の質問の回答欄には「幻聴」と書かれている。幻聴。統合失調症だろうか。
「そうなんですか。幻聴が聞こえるんですね。何て聞こえるんですか」
則子は口を噤んで、首を傾げた。そして、僕の眼をじっと覗きこんできた。
「どうして敬語なの」
「えっ」
「学生の頃からの知り合いなのに、おかしいわ」
「だって、きみはクライエントだから」
「ふうん」
則子は不服そうだった。
「おっかしいなあ、そんなの」
則子の口調が急にぞんざいになった。
「了解」
僕は則子の意見に同意した。
「きみの言う通りにしよう。カウンセラーはクライエントの要望に応えるべきだ。だけど、きみの症状にカウンセリングが有効かどうかはわからないよ」
「精神科に通院して服薬もしているわよ。それでも良くならないから、ここへ来たの。お金は払うんだから、いいじゃない」
こうして則子のカウンセリングは始まった。則子は話の核心をなかなか口にしなかった。肝心の部分になると、則子は話を逸らした。則子の心には他人の踏み込めない聖域があって、僕と則子はその周囲を迂回しながら、延々と歩きまわっているようだった。
僕は則子の話にじっと耳を傾けた。クライエントの話を傾聴するのも、カウンセラーの大切な仕事ではある。
三ヶ月、僕は則子の話を聞き続けた。話はいつも堂々めぐりだった。ある日、僕は辛抱ができなくなって、こちらから質問を投げかけてみた。
「ピアノ、どうしてる?」
則子の顔は一瞬こわばり、すぐにこう吐きすてた。
「ピアノはやってないわ」
迂闊な質問だった。幻聴が聞こえるという則子が、プロのピアニストを続けられるはずがない。
「だけど、それに代わるものも、私にはないの。私はピアノしかやってこなかったから」
則子は恨めしそうに、僕の顔を見た。
「ねえ、雪路くん。あなた、卵焼きつくれる?」
「たぶん、つくれると思う」
則子の言葉の意図がわからなかったので、僕は慎重に答えた。
「ずいぶんと長いこと、つくってないけどね」
僕は独り身だから、大抵は外食で済ませている。つくっても酒のつまみ程度だ。
「そう」
則子は深い溜息をついた。
「私は卵焼きすらつくれない。人生の大半をピアノに費やしてきたから、料理なんてしたことがないの。母も教えてくれなかった」
「卵焼きをつくれないのは、人生にとってさしたる問題ではないと思う」
僕は言った。
「これから覚えればいいんだよ」
「私が言いたいのは、そういうことじゃないの…」
則子は首を振った。
「私にはピアノしかなかった。プロのピアニストになるのが夢だったの。音大に入って、一日十五時間は練習したわ」
則子は囁くような声で語り始めた。僕は黙って則子の話を聴いていた。自分が抱えている心の問題を、漸く則子は口にし始めたのだ。
「だけど、あと少しでプロになれる。そのとき、私の右手の薬指が全く動かなくなってしまったの」
僕は黙って頷いた。
「もちろん病院へも行ったわ。演奏会は一週間後に迫っていたから」
「そうか」
「原因はわからなかった。医学的には、どこも悪くないと医者は言ったわ」
則子はまた深い溜息をついた。だけど僕は、則子が抱えている問題は、それだけではない気がした。心のもっと深いところに、問題の核心があるように感じた。「幻聴が聞こえるの」。そう則子は言った。ピアノが弾けなくなったことは、確かに則子にとって、大きな精神的ショックだったことだろう。深い傷を則子の心に残したことだろう。それでも幻聴の直接の原因は、それだけではない、と僕は思った。カウンセラーとしての一種の感だ。
「今でも忘れられないわ。私が演奏会で弾くはずだった曲…」
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