冬迷宮

関谷俊博

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 ある日の四時限めの授業が始まるときのことだ。教師が教室に入ってきたので、英語の教科書を開くと、メモ用紙がひらりと落ちた。仔猫の絵柄がついたメモ用紙だ。そのメモ用紙には、則子の字でこう書かれていた。
「放課後、図書室に来て」
 僕は困惑した。隣の席にいる則子の顔を盗み見た。いつもと特に変わった様子はない。
 それでも放課後、僕は図書室に出かけていった。図書室の鍵は開いていたが、室内には誰もいなかった。からかわれたのかもしれない。そう思って、引き返そうとしたとき、
「雪路くん…」
 書棚のかげから則子が姿を現した。
「則子さん…」
 胸の高鳴りを覚えながら、僕は言った。
「マズイよ」
「何がマズイの」
「だって誰かに見られたら」
「大丈夫よ。図書室の鍵は持っているもの」
 僕に見せつけるように制服のポケットから鍵を出すと、則子は扉の鍵を掛けた。
「知らなかったの?  私が一応、図書委員だったってこと」
「知らないよ。だってきみはなかなか学校に来ないんだもの」
 僕の言葉を無視して、則子は話を続けた。
「ねえ、雪路くん。私のお願いをきいてくれる?」
 真顔に戻ると、とても重大なことを打ち明けるように、則子は言った。
「うん。きみの願いだったら何でもきくよ。僕にできることならば」
「もちろん、あなたにできることよ。だけど本当にきいてくれるのね?」
 僕の目をじっと見つめて、則子は念を押した。有無を言わせない感じで。
「うん」
 則子の勢いに押されて、僕は頷いた。
「絶対?」
「絶対だよ」
「約束よ」
「ああ」
 僕は深く頷いた。
「じゃあ、抱きしめて」
「えっ」
「私を抱きしめて」
 僕は躊躇った。
「約束だって言ったじゃない」
 則子は命令口調で言った。僕は則子の肩をそっと抱いた。
「もっと強く、ぎゅっと抱きしめて」
 僕は言われた通りに、則子を強く抱きしめた。僕の腕の中で則子は囁いた。
「もっともっと強く。自分がばらばらになってしまいそうなのよ」
 女の子の身体は何て柔らかいんだろう、と僕は思った。青く甘い則子の匂いと、その温もり。制服の上からでも、僕は則子の輪郭を感じとることができた。その乳房の膨らみも。則子の髪の毛が、僕の頬をくすぐった。
 ほんの一、二分のことだったと思うが、僕にはそれが何時間にも感じられた。身体を離すと、則子は悪戯っぽく笑ってこう言った。
「秘密よ」と。
 繰り返すが、則子が何故そのような行動をとったのか、僕にはわからない。奥手の僕をからかってみたい気持ちがあったのか、あるいは単なる気紛れだったのか。
 僕と則子は進級して別々のクラスとなり、それきり言葉を交わすこともなかった。
 その後、則子が音大に推薦で入学したという噂を僕は聞いた。僕は大学で心理学を学び、大学院へと進んだ。卒業後、臨床心理士の資格を取得した僕は、心理カウンセラーになった。

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