冬迷宮

関谷俊博

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 翌日から僕はこの街を歩き回り始めた。森番の男が「蒼い眼をした獣」と呼んだのは、言葉通り、蒼い眼をしたヘラジカのような獣だった。蒼い眼の獣たちは、日が昇ると共に街に姿を現し、日が暮れると共に森へと帰っていった。合図は時計塔の鐘だった。この街の中心にある時計塔は、朝八時と夕方六時になると、決まって鐘を鳴らした。蒼い眼をした獣は、それを合図に街と森を往来するのだった。その茶褐色の長い毛並は、秋の終りの日差しを受けて、艶やかに輝いていた。
 この街には田畑があり森があり、小川が流れていた。学校や図書館や食堂があった。その一方で、水車小屋があり、石畳の歩道があり、レンガ造りの駅舎があった。新しいものと古いものが、混在した街だった。しかし、どこにも人の気配はなかった。
僕は図書館へ行き、本を手に取り、その頁をめくってみたことがある。頁はどこも白紙だった。
 僕は小川を覗き込んでみた。若い男の顔が、そこに映っていた。いったい僕は誰で、どこからやってきたんだろう。わかっているのは、自分がピアノ弾きを捜しているということだけだった。

 森番の男は冬支度に忙しそうだった。
「これから長い冬がくる」
 男は薄曇の空を見上げた。
「秋の終りの間に、冬の食糧を確保するんだ。森で野草やキノコを採ったり、小川が凍る前に魚を釣って干物にしたり、それに暖炉の薪も用意しておかなくちゃならない。やることが多すぎるんだ」
僕も森で野草を採ったり、魚を釣ったりして、森番の男を手伝った。
「だけど、冬が終われば、春が来るんでしょう」
 僕は森番の男に言った。
「冬の間の辛抱ですよ。森番さん」
「春?」
 森番の男は首を傾げた。
「春って何かね?」
「暖かい季節のことです」
「この街にある季節は、秋の終りと冬。それだけだな。秋の終りの次は冬で、冬の次は秋の終りだ。だから秋の終りは、とても忙しいんだ。森の面倒もみなくちゃならないしな」
 森番の男は肩をすくめた。

 冬が近づくにつれ、獣たちの蒼い眼は、ますます澄んでいった。このような哀しい眼で、じっと顔を覗きこまれたことがあるような気もしたが、それが誰かは思い出せなかった。

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