冬迷宮

関谷俊博

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 男はそれでも、僕を丸太小屋に招き入れてくれた。鉈や桶やタワシ等、小屋には細々とした物が沢山あったが、どれもきちんと棚に整理されていた。見かけに寄らず、男は几帳面な性格らしい。部屋の隅にはレンガで組み上げられた暖炉があった。男はヤカンにお湯を沸かすと、素焼きの湯飲みにコーヒーを注いだ。
「あなたはどなたですか」
 コーヒーを啜りながら、僕は言った。コーヒーは、酷く苦かった。
「どなた?」
 丸太小屋の男は不思議そうに聞き返した。
「あの…お名前とか…」
「私に名前はないよ。いつも一人だから名前は必要ないんだ」
 丸太小屋の男は言った。
「私はここで森の木々の世話をしている。病気になった木々の治療もする代わりに、必要があれば伐採も行う。だから森番とでも呼んでくれればいい」
「森番…ですか」
 頬が削げたこの男に、相応しい名前のように思えた。
「ああ、それで十分だ。ところで、コーヒーをもう一杯どうかね」
「いえ、もう結構です」
 僕は慌てて頭を振った。
「ところで、あんたが来て、この街にいる人間は二人になった。私もあんたの名前がわからないんじゃ不便だ。だけど、あんた、名前が思い出せないんだったな」
 森番の男は気の毒そうに言った。
「そうだ。あんた、案山子と名乗るといい」
「案山子?」
「ああ、畑に突っ立ってたあんたの姿。まるで案山子みたいだったよ」
 案山子。僕は案山子。悪くない名前に思えた。
「この街には、僕とあなたの他には、本当に誰もいないんですか」
 僕は森番の男に尋ねてみた。
「いないな」
 森番の男は言った。
「私とあんたの他には誰もいない。蒼い眼をした獣なら、沢山いるけどな」
「蒼い眼をした獣? それはどんな動物なんですか」
「蒼い眼をした獣は、蒼い眼をした獣さ。機会があったら街を歩いてみるといい。あちこちにいるから」
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