23 / 31
23
しおりを挟む
朝翌、僕はピアノの旋律で目を覚ました。テントから這い出すと、赤いコートを着たノリコがピアノを弾いていた。彼女は一晩中、ピアノを弾いていたのだろうか。
ノリコを取り巻いていた蒼い眼をした獣たちは見当たらなかった。既に街へと向かったのだろう。
ノリコの演奏に、僕は違和感を覚えた。力強く自信に溢れたピアノのタッチ。昨日のノリコとは、どこかが違う。昨日のノリコは、美しく繊細だが、どこか哀しい旋律を奏でていた。僕は彼女に駆け寄った。
「ノリコ…昨日のピアノと違うね」
彼女は演奏を止めると、ピアノの鍵盤をバンと叩いた。軋むような不協和音が響き渡った。
「私はノリコじゃないわよ! あんな暗い子と、一緒にしないで頂戴!」
ノリコにそっくりな彼女は、口を尖らせた。僕は混乱した。
「じゃあ、きみは誰なの」
彼女は咳払いをすると言った。
「私は世界的な天才ピアニスト。NORIKOよ。私を呼ぶときは、アルファベットでお願いするわ」
僕はますます混乱した。
「それじゃ、NORIKOさん」
「本当なら、NORIKO様でお願いしたいところだけど…まあ、いいわ。私の大好きな雪路くんだから許してあげる」
「雪路?」
僕は聞き返した。
「僕の名前は雪路っていうのか…」
「やあね」
NORIKOは顔をしかめた。
「忘れちゃったの。お馬鹿さんね」
NORIKOは、小馬鹿にしたように笑った。
「ねえ、雪路くん。あなたは私のことが好きなんでしょ」
NORIKOは、くっつきそうになる位、僕に顔を近づけてきた。
僕は頷いた。僕は確かに彼女のことが好きだった気がする。
「私も雪路くんのことが好きよ。だけど、雪路くんはいつも冷静で、私が何を言っても、ヤキモチの一つも焼いてくれないんだもの。虐めたくもなるわよ」
僕はまた混乱し始めた。NORIKOの言葉を理解する為の記憶が、僕には全くないのだ。
「ねえ、見て」
NORIKOが僕に近づいてきた。
「あの人は、こんなこともしてきた」
NORIKOは、右手で、胸の膨らみを持ちあげた。
「それだけじゃない。あんなことも、こんなことも。とても口では言えないようなこともしてきた。どう、雪路くん。悔しいでしょ」
「あの人って誰」
「もう! 私の後見人だったピアニストよ!」
「後見人? ピアニスト?」
「ああ、もう! 本当に何も覚えてないのね! つまんないの」
NORIKOは憤慨して言った。
「ごめん。本当に記憶がないんだ。きみが知っているなら教えてほしい」
「どうしよっかなあ」
NORIKOは、僅かに視線を上に向けて、考えていた。
「このままじゃ確かにつまらないわね。私とのことも全部忘れてるんだもの。雪路くんが嫉妬する姿が見たかったのに、これじゃ虐めがいがないじゃないの」
NORIKOが言っていることが、僕にはまるで理解できなかった。
「教えてあげてもいいけれど…ただでは教えてあげない」
「えっ」
僕に見せつけるように、則子はコートのポケットから鍵を出した。
「これ、何だかわかる?」
「鍵だね」
NORIKOは溜息をついた。
「そんなこと見りゃわかるでしょ」
「ごめん」
僕は謝った。
「まあ、いいわ。雪路くんが鈍感でクソ真面目なのは、今に始まったことじゃないものね。学校の図書室でだって、私からあんなにアプローチしたのに、何の進展もなかったものね。あなたのカウンセリングルームを訪ねたのも偶然じゃない。私、あなたを懸命に捜しまわったのよ」
「ごめん」
僕はもう一度謝った。
「と言っても、いまの雪路くんには、何を言ってもわからないか」
僕はますます申し訳ない気分になった。
「これはね。時計塔の扉の鍵なの。そこへ行けば、雪路くんは記憶を取り戻すことができる。たぶんね」
僕はNORIKOから鍵を受け取ろうとした。
「駄目よ」
NORIKOは、鍵を持った手を後ろにまわした。
「ただでは渡せない」
「どうすればいい」
僕は言った。
「私を抱きしめて。あのときのように」
「えっ」
「私を強く抱きしめて。そして、絶対に私のものになるって約束して」
躊躇いながらも、僕はNORIKOを抱きしめた。その甘く懐かしい匂いに、僕はあと少しで、何かを思い出せそうになった。少なくとも、NORIKOとこうして抱き合うのは、初めてではない。
「約束する? 私のものになるって」
「ああ」
「本当に?」
「本当さ」
暫くして身体を離すと、NORIKOは僕の掌に鍵をのせた。
「これであなたは私のものよ」とNORIKOは意地悪く笑った。
時計塔に向かいながら、先ほど別れてきたNORIKOとの会話を、僕は思い返していた。
「あの時計塔では柔らかい時間が流れるの」
NORIKOはそう言っていた。
「柔らかい時間?」
「空間と区別がつかない時間のことよ」
「きみの言葉の意味が僕にはわからない」
「時間を飛び越えたり、逆戻りしたり、自分で時間を制御できるってこと」
柔らかい時間とは、いったいどんなものなのだろうか。
ノリコを取り巻いていた蒼い眼をした獣たちは見当たらなかった。既に街へと向かったのだろう。
ノリコの演奏に、僕は違和感を覚えた。力強く自信に溢れたピアノのタッチ。昨日のノリコとは、どこかが違う。昨日のノリコは、美しく繊細だが、どこか哀しい旋律を奏でていた。僕は彼女に駆け寄った。
「ノリコ…昨日のピアノと違うね」
彼女は演奏を止めると、ピアノの鍵盤をバンと叩いた。軋むような不協和音が響き渡った。
「私はノリコじゃないわよ! あんな暗い子と、一緒にしないで頂戴!」
ノリコにそっくりな彼女は、口を尖らせた。僕は混乱した。
「じゃあ、きみは誰なの」
彼女は咳払いをすると言った。
「私は世界的な天才ピアニスト。NORIKOよ。私を呼ぶときは、アルファベットでお願いするわ」
僕はますます混乱した。
「それじゃ、NORIKOさん」
「本当なら、NORIKO様でお願いしたいところだけど…まあ、いいわ。私の大好きな雪路くんだから許してあげる」
「雪路?」
僕は聞き返した。
「僕の名前は雪路っていうのか…」
「やあね」
NORIKOは顔をしかめた。
「忘れちゃったの。お馬鹿さんね」
NORIKOは、小馬鹿にしたように笑った。
「ねえ、雪路くん。あなたは私のことが好きなんでしょ」
NORIKOは、くっつきそうになる位、僕に顔を近づけてきた。
僕は頷いた。僕は確かに彼女のことが好きだった気がする。
「私も雪路くんのことが好きよ。だけど、雪路くんはいつも冷静で、私が何を言っても、ヤキモチの一つも焼いてくれないんだもの。虐めたくもなるわよ」
僕はまた混乱し始めた。NORIKOの言葉を理解する為の記憶が、僕には全くないのだ。
「ねえ、見て」
NORIKOが僕に近づいてきた。
「あの人は、こんなこともしてきた」
NORIKOは、右手で、胸の膨らみを持ちあげた。
「それだけじゃない。あんなことも、こんなことも。とても口では言えないようなこともしてきた。どう、雪路くん。悔しいでしょ」
「あの人って誰」
「もう! 私の後見人だったピアニストよ!」
「後見人? ピアニスト?」
「ああ、もう! 本当に何も覚えてないのね! つまんないの」
NORIKOは憤慨して言った。
「ごめん。本当に記憶がないんだ。きみが知っているなら教えてほしい」
「どうしよっかなあ」
NORIKOは、僅かに視線を上に向けて、考えていた。
「このままじゃ確かにつまらないわね。私とのことも全部忘れてるんだもの。雪路くんが嫉妬する姿が見たかったのに、これじゃ虐めがいがないじゃないの」
NORIKOが言っていることが、僕にはまるで理解できなかった。
「教えてあげてもいいけれど…ただでは教えてあげない」
「えっ」
僕に見せつけるように、則子はコートのポケットから鍵を出した。
「これ、何だかわかる?」
「鍵だね」
NORIKOは溜息をついた。
「そんなこと見りゃわかるでしょ」
「ごめん」
僕は謝った。
「まあ、いいわ。雪路くんが鈍感でクソ真面目なのは、今に始まったことじゃないものね。学校の図書室でだって、私からあんなにアプローチしたのに、何の進展もなかったものね。あなたのカウンセリングルームを訪ねたのも偶然じゃない。私、あなたを懸命に捜しまわったのよ」
「ごめん」
僕はもう一度謝った。
「と言っても、いまの雪路くんには、何を言ってもわからないか」
僕はますます申し訳ない気分になった。
「これはね。時計塔の扉の鍵なの。そこへ行けば、雪路くんは記憶を取り戻すことができる。たぶんね」
僕はNORIKOから鍵を受け取ろうとした。
「駄目よ」
NORIKOは、鍵を持った手を後ろにまわした。
「ただでは渡せない」
「どうすればいい」
僕は言った。
「私を抱きしめて。あのときのように」
「えっ」
「私を強く抱きしめて。そして、絶対に私のものになるって約束して」
躊躇いながらも、僕はNORIKOを抱きしめた。その甘く懐かしい匂いに、僕はあと少しで、何かを思い出せそうになった。少なくとも、NORIKOとこうして抱き合うのは、初めてではない。
「約束する? 私のものになるって」
「ああ」
「本当に?」
「本当さ」
暫くして身体を離すと、NORIKOは僕の掌に鍵をのせた。
「これであなたは私のものよ」とNORIKOは意地悪く笑った。
時計塔に向かいながら、先ほど別れてきたNORIKOとの会話を、僕は思い返していた。
「あの時計塔では柔らかい時間が流れるの」
NORIKOはそう言っていた。
「柔らかい時間?」
「空間と区別がつかない時間のことよ」
「きみの言葉の意味が僕にはわからない」
「時間を飛び越えたり、逆戻りしたり、自分で時間を制御できるってこと」
柔らかい時間とは、いったいどんなものなのだろうか。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる