【試し読み】刀行く道(つるぎゆくみち)

鞍馬 榊音(くらま しおん)

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二人の医者

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 人には、若くして志を見つける者もあれば、そうでない者もいる。信じていたモノを疑ったり、失ったり、そして途中には幾つもの分岐点が存在する。挫折や無念と呼ばれる行き止まりに阻まれる者もいる。
 雅巳は、まさに分岐点で立ち止まっていた。どの道も、その先は闇に覆われている。彼がどの道を歩むかは、誰が彼の背中を押すかで決まる。のかも、知れない。

 急患であった。患者は集落の若い女で、夫と共に診療所にやって来た。陣痛が始まったのだが、産まれる気配がしないので診て欲しいと申し出てきた。
 雫が触診し、そっと目を閉じた。胎動が、無かった。
「雫さん、どうした?」
 雅巳が、雫の耳元で囁いた。彼女の指先は、僅かに震えていた。雫の手の下で母となる筈の女は呻き、父となる筈の男は側で仏に祈りを捧げていた。
 雅巳は、雫の横から女の腹に手を当てた。
「妊娠ではない。直ぐに、開こう」
 雫の息が、一瞬止まった。
「雫さん、開腹経験は?」
 彼女の首が、左右に振れる。
「其れじゃ、そのお方と外で待っておってくれ。四刻半程で、終わるから。多分」
 雫が、そっと雅巳の袖を握った。
「約束したからの。ここにいる間は、医者をすると」
 彼女は、深呼吸をした。
「私も、お手伝いさせてください」
 雅巳が、珍しく険しい目付きで雫を見据えた。
「大丈夫かの」
「邪魔は、致しません」
 彼は、そっと目を閉じた。
「鞄を取ってくる。準備を」
「はい」
 男は外に出され、別の部屋で念仏を唱え続けていた。
 雅巳は、鞄の中から取り出した薬を女に与えた。
「これは、華岡青洲の秘薬じゃ。製法は、弟子を名乗る者から内密に聞き出した」
「内密に?」
「そう、酒と妓で酔わしてのお」
 雅巳は、小さく笑った。彼とは対照的に、雫の胸は不安で高鳴っていた。見透かしたかのように、彼が言う。
「雫さん、そう不安がるな。わしが、やるんじゃ」
「はい」
 彼女は、震える唇を無理に動かした。
 やがて麻酔が効き始め、雅巳が再度触診を行う。彼が躊躇なく、慣れた手付きで腹部への切開を加えると、勢いよく腹から腸が溢れ出した。
「う……」
 雫の顔面が一瞬にして蒼白に変わり、喉が鳴った。
「出ておれ」
 雅巳の言葉が、矢のように雫の精神に突き刺さる。
 気付けば、彼女は部屋から飛び出し、縁側から吐いていた。情けなさで、涙が溢れた。
 雅巳が言うとおり、開腹手術は四半刻程で終了した。
 縁側でうずくまる雫の背中を、雅巳はそっと撫でた。
「今、ご主人には伝えてきた。もう大丈夫じゃ」
 雫は、嗚咽を始めながら涙を拭った。
「私は、医者として……情けないです」
「そうかのお」
 雅巳は、首を傾げた。
「わしは、初めて開腹手術に立ち会った時。腰を抜かして、危うく失禁するかと思った」
 雫が、涙で濡らした顔を雅巳に向けた。
「麻酔が無くての。患者が悲鳴を上げる中、腹を切り開いていくんじゃ。患者より、わしの方が先に失神しとったわ」
 雅巳は立ち上がり、部屋に入ったかと思うと、直ぐに戻って来た。手には三冊の本が握られており、それを雫に差し出した。
「わしの、大事な本じゃ。今はこれだけしかないんじゃが、見てみるか?」
 雫が手に取れば、酷く薄汚れたその本は、全て横文字で書かれ、雅巳本人が記したであろう訳が添えられていた。
「これは」
「蘭学の本じゃ」
「鳴滝塾では、このような本を配っているのですか?」
 雅巳は笑った。
「そんなもん、嘘じゃ」
 彼は妙な歌を口にしながら、自前の道具を井戸で洗い始めた。また、自作の歌であろう。調子も外れて、とても可笑しい。泣き腫らした雫の頬が、少しだけ緩んだ。
「雅巳さん。貴方が何者であろうと、私は貴方を信じます。だから、共に奇病と闘って下さいまし」
 雅巳の、引き上げる井戸の音が止まった。
「わしは……」
 雅巳の心臓が、大きく動いた。息が少しだけ熱く感じる。
「医者には、なれんのじゃ」
 雫が、顔を背けた時だった。
「けれど、雫さんが望むなら、わしの知ってる事は全部教えてもいい。わしは、医者にはなれんが、雫さんは立派な医者じゃからの」
 雫は黙って、雅巳に深々と頭を下げた。
 女は五日程で帰宅した。まだ安静が必要なものの、回復は順調であった。
 女が帰ってから、雫は雅巳を往診に付き合わせる事にした。
 雅巳の手術を目の当たりにした日以来、彼を信じると決めた雫は、雅巳の過去を知ろうとはしなくなった。ただ、純粋に医者としての彼だけを信じ、熱心に勉学に励んでいた。
 雅巳は、雫に感心した。同時に、昔の自分を見ているようで胸が痛んだ。自分も、雫に負けないくらい熱を込めて学んでいた時期があったと、そう誰かに打ち明けたいと思う事もあった。志士であるか、医者であるか。そうなると益々、解らなくなっていった。
 奇病に対して、雅巳はどう対処するのか。雫の中で大きな期待があった。ずっと足踏みしていただけの状況から、一歩進めるような気がしたからだ。
 集落から外された奇病者の家族の集落。家族で奇病に掛かった者が出れば、この集落に家族ごと送り込まれる。故に、健康であった他の家族も、やがては奇病に侵されるのだ。
 雅巳は雫から手拭いを渡された。感染から少しでも逃れる為、口と鼻を覆うように。との事だった。
 奇病者の集落は、酷い有様であった。死んだ家族を荷車に乗せ運んでいる者、諦めて絶望的な表情で腐敗するままの主人を見つめている者、念仏を唱えながら看病する者、様々であった。
 足元を鼠が走り去り、油虫がカサカサと横切っていった。
 しかめっ面で集落の現状を見つめる雅巳を置いて、雫は一軒一軒入っては出てを繰り返す。彼女に興味を示す者は、誰一人いなかった。
「無駄じゃ」
 妹であろうか。死んだ幼女を乗せた荷車を引きながら、十二歳くらいの少年が口にした。ごとん、ごとんと雅巳の脇を荷車が通って行った。
「もう、ええ! どうせ、助からん?」
 男の怒声と共に、雫は家から飛び出した。家の中に向かって、彼女は深く一礼した。
 次に、雫が隣の家に入るところを雅巳は追い掛けた。
 子供が熱で魘されていた。雫が服を捲って裸体を見れば、胸部や腹部を中心に赤い斑点が浮かんでいた。
「やはり、そうでしょうか。熱が、もう七日も引かんのです」
 雫は痛ましい表情で頷き、熱冷ましの薬を渡した。
「藪医者が」
 集落を去ろうとする雫に向かって、先程の少年が吐き捨てた。
「おめえの薬を妹に飲ませたけど、ちっとも良くならんで苦しんどった。そんで、今朝死んじまったわ」
 雫は少年に向かって、無言で頭を下げた。
 ただ診て、気休めの薬を渡し、蔑まれて雫の往診は終わる。
 帰り道、雅巳は雫に掛ける言葉が見付からなかった。彼女の少し後ろを、彼女の小さな背中を見ながら歩いていた。自分には、何もしてやれない。何もしてやれないが、どうすればいいのか。ずっと、考えていた。
 良い案は思い付かず、とうとう診療所に帰って来たところで、雫が雅巳の方を振り返った。
「また、情けないところをお見せしましたね。お茶でも飲みましょうか」
 雅巳の返事も聞かず、彼女は凜を呼びながら屋敷の中へと入って行った。
(痛々しいのお)
 雅巳も重い足を前に出して、雫の後に続いた。
 雫と雅巳の間に、沈黙が流れる。時折、双方の茶を啜る音が室内に響くだけだった。重々しい空気に、凜は居間に残れず掃除をすると出て行ってしまった。
「今日は、お茶請けがなくて、ごめんなさい」
 飲み終わった湯呑みを置いて、雫が雅巳に苦笑いを見せた。
「十分じゃ」
 雅巳が、雫の髪に振れた。
「髪も結わんで、化粧もせんで、美人が勿体無いのお。何故、雫さんはそこまでするんじゃ? わしには、あの人等がお主を歓迎しとるようには見えんのじゃが」
 雫の顔が背けられ、雅巳の手をそっと避けた。
「父の残した、志ですから」
 雅巳は、言葉に詰まった。行き場の無くなった己の手を畳の上に戻し、強く握った。
「立派じゃ」
 彼の、精一杯だった。
 夕餉の後の出来事だった。診療所に、奇病者の集落から少年が走って来た。妹を荷車に乗せて運び、雫に悪態を吐いたあの少年が、診療所の前で大声を出した。
「やい! 藪医者。もう、二度とおいらの集落に来るんじゃねえ!」
 何事かと思い真っ先に雅巳が外へ飛び出すと、少年は泣きながら、藪医者、藪医者と暴言を繰り返した。
 見かねて雅巳が一喝する。
「黙らんか! 本来なら医者に掛かれる立場ではなかろうに。甘えるのも、いい加減にせえ!」
 少年は、肩を震わせた。
「おヨネまで、死んじまう」
 雫も外に飛び出してきた。
「誰じゃ?」
「おまいらが、昼間に薬を与えとった子だわ」
 雅巳は大声で凜に提灯と自分の刀を用意するよう告げると、少年の頭を鷲掴みにした。
「いいか、よう聞け。お前等の病気は、どんな名医でも治せんもんじゃ。あの薬は、熱冷まし。少しでも楽に死ねるようにする為のもんに過ぎん」
 雅巳の台詞を聞いた雫の顔が、暗闇の中で蒼白に変わる。そんなつもりではない、と言葉に出来ず、彼女はその場で崩れ落ちた。
 提灯と刀が用意されると、雅巳は少年の腕をひっ掴んで歩き始めた。
「どこに行くつもりだ?」
 少年が叫んだ。
「お前等の集落じゃ」
 雫が、はっとした。
「雅巳さん! どうするつもりなのですか?」
 雅巳は振り向かずに答えた。
「患者は、全員わしが斬ったる。それが、奇病を止める唯一の道じゃ。この童も雫さんも、もう苦しむ事は無い」
 少年の息が止まり、歯をがちがちと鳴らす音が聞こえた。腰を抜かして座り込む少年を引き擦りながらも、雅巳は進むのを止めようとしない。その状況を目の前にしながら、雫の頭の中は真っ白だった。
 ――少しでも、楽に死ねるようにする為のもんに過ぎん。
 ――患者は全員、わしが斬ったる。
 雫の頭の中で、雅巳の言葉がぐるぐると木霊していた。そこには、いつもの飄々とした雅巳の姿は無かった。
「人斬り!」
 苦し紛れに絞り出した少年の声に、彼女はようやく我に返る。
 雫は立ち上がり、走ると、勢い良く雅巳の背中にしがみ付いた。
「止めてくださいまし! それは、医者の仕事ではありません。ただの人斬りです」
「そうじゃ。わしは、人斬りじゃ。人の身体を斬る事に、なんの変わりがある? 雫さんは、わしの事を買い被り過ぎとるよ。わしは、必要とあれば人を斬る人間ぞ」
 雅巳が少年の腕を放すと、少年は転がるように立ち去っていった。
「あれは、傷寒じゃ。わしの人斬りは、何の役にも立たんからな。こうするしか、方法はない」
 雅巳の声は、冷たかった。
 彼の背中で、雫は泣いた。
 雅巳が振り返った瞬間、彼の腰の刀を雫が抜いた。彼女は、刀の先を雅巳に向けた。
「雫さん、返しなさい」
「私は医者ですから。これでも、医者ですから。ある命は、助けたいと思ってはいけないのでしょうか」
 雅巳は、頭を掻いた。
「止めじゃ。人は斬らん」
 がしゃん、と地面に雅巳の刀が落ちた。暗闇の中、雫の嗚咽が響いていた。
「今夜は月が無いのお。しかし、星が綺麗じゃ。天の川が見えるよ。ほおら、雫さんも上を見てみ」
 雫が顔を上げると、満天の星空だった。
「上を見るとな、涙が溢れんような気がしての。弟が死んだ後は、いつも上を向いておった。でも、上を向いて歩く時は、肥溜めに落ちんよう気を付けんといかんぞ」
 雫が笑った。
 雅巳は刀を鞘に戻すと、雫に戻ろうと言った。
 翌朝、雅巳が起床した頃には、既に雫の姿は無かった。凜に聞くと、雫は昨晩聞いたおヨネの様子を診に寄ってから、いつもの診療所に奉公へ行くと早めに出たらしい。
 雅巳が凜と二人、居間で朝餉を取っていると、お瀧婆が縁側をよじ登ってきた。
「いつまで、食うとるんじゃい。早う茶飲み相手をしとくれ」
 障子の隙間から、お瀧婆が妖怪地味た顔を覗かせながら言うので、雅巳は驚き激しく噎せた。凜が雅巳の背中を擦り、その姿をお瀧婆は皺の隙間から眺めていた。
「来る途中、雫に会うたぞ。顔が少し腫れとったが、お主が襲ったのか」
 雅巳が、吹いた。
「お婆、飯が食えん」
 お瀧婆の皺が動いた。
 雅巳は、飯に味噌汁を被せると一気に掻き込んだ。
「凜、片付けてくれ。わしは、潔白を証明せんとな」
「ほほう」
「わしは、雫さんを襲ったりはしとらんぞ! 別のモンを襲おうとしたのは事実じゃが」
 凜が、持ち上げたお膳を落とした。同時に、雅巳が声を張り上げる。
「凜を、襲おうとしたんでも無い?」
「ほほう」
 お瀧婆のほほう、には感情が無い。
 雅巳は正座を胡座に変え、頬杖を付くと目を閉じた。
「凜。わしは、お婆と二人で話がしたいんじゃ」
 凜は頷き、そそくさと部屋を出ていった。
「飯を食ったら、わしはお婆に会いに行こうと思っとった。何故、雫さんはあの集落の連中に拘るんじゃ? あの執着は、異常に思う。何ぞ、お婆なら知っとるんじゃないのか?」
 お瀧婆は、置いたままの雅巳の湯呑みを手に取ると、近くにあった急須で勝手に茶を入れ、構わず啜った。
「惚れたんかい?」
「そ、そうではないわ」
「そうか」
「そうじゃ。惚れては、おらん。ただ、可哀想で見てはおれんのじゃ」
 お瀧婆は茶を啜ると、ゆっくりと語り始めた。
「黒船が来る前の出来事じゃ。雫のお父は侍じゃったが、医学の心得もあったで、医者を兼業しとった。わしも、診て貰っとった。侍といっても戦がある訳でもない、お父はずっとお母と二人で医者をすると思うとったじゃろうな。それがじゃ、村を飢饉が襲った。追い打ちを掛けるよう、奇病が流行って雫のお母は死んでしまった。後を追うように、お父も死んでしまった。本当に、不憫な子供じゃった」
「それも、黒船が来る前か?」
「そうじゃ。全部、黒船が来る前の話じゃ」
 黒船が来る前。雅巳にとっては、幸せな時だった。父に憧れ、母に甘え、恵まれた子供であった。
「その頃の、雫さんはどうじゃった?」
「今も奉公に行っとる筈じゃが、隣り村の三浦先生のところに預けられとった。ちと年じゃが、ええ先生じゃ。雫に医学を教えたんも三浦先生じゃし、あの先生はきっと愛娘だと思っとるよ」
 雅巳から、安堵の溜め息が漏れる。
「だからじゃろうな。雫は診療所に戻って来た時、両親を失って泣いておった凛を引き取ったんじゃ。この話をすると、いつも言うんじゃ。自分は、子供の頃に幸せを貰ったから其れを返さなければならないんじゃ、と」
「何が、幸せじゃ」
 雅巳が、行き場の無い怒りを覚えた。
「雫は、精一杯に生きとるよ。己としてな。お主は、どうじゃ?」
 突如。お瀧婆に話を振られ、雅巳は目をぱちくりさせた。
「わしには、わからん」
「わからんとは?」
「わしは……」
 お瀧婆を目の前にして、喉まで出掛かった言葉を一旦飲み込んだ。が、意を決したかのように雅巳は少しだけ語り始めた。
「父上のような、医者になりたかったんじゃ。しかし、父上は安政の大獄で首を撥ねられた。冤罪じゃった。其れ故、弟は討幕の為にと家を出てしもうた。母上とわしは医者を続けておったが、虎列刺(コレラ)が流行っての。随分、苦しめられた。虎列刺は、異國のもんじゃから攘夷が全てじゃと思ったんじゃ。戦で弟は殺された。大事な人も労咳でもう助けられんところじゃった。わしに医者は向かんのじゃ」
「それで、流行りの志士か。そんなに、軽いものか? 志士とは」
 雅巳は、答えられなかった。
「雫の方が、よっぽど志士らしいのお」
 お瀧婆の言葉に、心臓が抉り取られるような痛みを感じた。
「お婆、誰にも言わんとってくれ」
 雅巳は言うと、その場を立ち去った。
 お瀧婆は、一人残ったまま。茶を啜っていた。
 雅巳は一人部屋でお瀧婆が帰る音を確認すると、のっそり部屋から顔を出した。
 藪から棒に、凜に問う。
「幸せぞ?」
 少女は、眉間に皺を寄せながら答えた。
「そりゃ、まあ」
「それは、ええことじゃ」
「は?」
 凜の疑問符を無視して、ぴしゃり、と雅巳の部屋の障子が閉められた。
 そこに、未だ傷の癒えぬままの権平太がやってきた。
「神代先生は、おりますか?」
「誰じゃ?」
 閉められたばかりの障子が開けられる。雅巳は入り口に立つ小汚い男を見付けて、声を上げた。
「おお! 梅の兄上か」
 権平太は頭を下げた。
「雅巳さん、権平太さんにお礼言った方が良いですよ」
 凜の言葉に、権平太は笑いながら首を左右に振った。
「何故?」
 と、雅巳。
「拾い喰いして行き倒れた雅巳さんをここまで連れて来てくれたの、権平太さんなんですよ」
 凜からそう聞いて、雅巳は慌てて外に飛び出した。
「そうじゃったか! そうじゃったか! 知らんで、悪かった」
「おらの方こそ、命を助けて貰って。今日はお礼に来たんです」
 権平太は、雅巳に笊一杯の蜆を渡した。
「すまんの。お互い様じゃったと言うに」
 権平太は、満面の笑みを浮かべた。
「いんや。梅も弟子になったと喜んでおったんで」
 雅巳の膝から力が抜けた。
「まあいい。上がりなさい」
 しかし、権平太は首を左右に振った。
「すまんです。もう、畑に戻らんといかんのです。この身体では、仕事に時間が掛かりますし、梅が今手伝ってくれとるので、ほっとく訳にもいかんのです」
 権平太は、帰って行った。
「凜よ。梅が来んから、諦めたと思っとったんじゃが、そうでも無かった」
 凜は、雅巳から蜆の笊を受け取った。
「お梅ちゃん、気の毒。止せばいいのに」
「は?」
「お梅ちゃんまで、変人になってしまうわ」
 雅巳が一喝してやろうと思った時には、既に凜の姿はそこには無かった。
 空が濃紺に変わり、星が数個瞬き始めた頃、雫が帰宅した。
 早々、雫のこめかみに浮かぶ小さな傷に、雅巳が気付いた。聞けば彼女は、柱にぶつかったと嘘を吐いた。
 就寝前、雅巳は雫の部屋を訪ねた。
「雫さん、その傷は? 柱にぶつかった跡ではあるまい」
 雫は苦笑いを見せた。
「雅巳さんには、嘘は吐けませんね。凜には、知られたくないのです」
 近くで見れば、傷跡は内出血の紫を帯びてはいたが、傷口は瘡蓋になって塞がっていた。
「おヨネちゃんは深夜、息を引き取ったそうです。私は、何も出来なかったので」
「石をぶつけられたんか」
「私は、生きていますからいいんです」
 噛み合わないように思える会話が終わり、為す術もないまま雅巳は雫の部屋を出た。
 翌朝、雅巳は雫より先に起床した。出掛ける準備をする雫に、雅巳は声を掛けた。
「雫さんは、忙しいのお。今日は、何処ぞへ行くんじゃ?」
 雫は雅巳を見て、驚いた相好を見せた。
「そう、驚かんでも良かろう。たまには、供でもしようかと思ってな」
 彼は、笑って見せた。
「ごめんなさい。気を遣わせてしまいましたね。ゆっくり、お休みになっていてくださって結構ですから」
 玄関を足早に出ようとする彼女の腕を、彼が引き留めた。
「雫さんは、わしに気を遣いすぎじゃ。わしは、もう客人ではない。お主との約束もあるというのに、これでは単なる居候ではないか」
 雫は、雅巳の手をそっと避けた。
「ですから、診療所の留守をお願いしているつもりです」
「雫さんは、わしが嫌いか?」
 雫の目が背けられた。
「ならば、出て行こう」
 踵を返して部屋に戻ろうとする雅巳の袖を、今度は雫が引き留めた。
「違うんです! そうじゃ、ないんです」
「何じゃ?」
 雫は、深呼吸をした。
「貴方が優秀過ぎるので、一緒に居ると私は間違っているような気がするんです。貴方に出会ってから、私は何度も医者を辞めようと考えました。けれど、医者を辞めてしまったら、私は何の為に生きたら良いのでしょう」
「馬鹿を言うな」
 今度は、雅巳の顔が背けられた。
「雫さんは、立派な医者じゃ。何も間違っておらんし、辞める必要もない。間違っているとしたら、わしの方じゃ」
 そして、少し間を置いた後で雅巳は詫びた。
「すまんかったな。雫さんの気持ちも知らんで、わしは軽率じゃった。わしは、死に対して誰それ構わず心が痛むような人間では無いんじゃ」
 雅巳の袖から、雫の手が離れた。
「私は子供の頃、隣り村の三浦診療所でお世話になっていたんです。梅雨が近いせいか、この所忙しいそうで。一緒に、お願い出来ますか?」
 雅巳が、頷いた。ああ、と。
 雫の診療所から半刻程歩いた所で、隣り村の三浦診療所に到着した。
 三浦診療所は雫の高島診療所より、少しだけ大きく感じた。その上、大層賑わってもいた。
 医者の三浦は、白髪混じりの翁であった。診療所には、三浦以外の働き手はいない。その為、度々雫を手伝いに呼んでいるのである。
 早々、雫は挨拶も適当に手伝いに入り、雅巳もそれに続いた。
 息をつく暇も無いまま日中は過ぎ去り、日が傾き始めたところでようやく診療が落ち着いた。
「すまんかったのお、あんたが神代雅巳さんか?」
 三浦が、井戸で顔を洗う雅巳に話し掛けた。
「ええ。久々に忙しい思いをしました」
 三浦が笑った。
「今日は、菓子を頂いたんで食べていっておくれ」
 雅巳は手拭いで顔を拭くと、襷を解いて居間に上がった。
 雫が茶と饅頭を配った。三浦は、残りの饅頭を凜の土産にするよう彼女に告げた。
「雫から、あんたの話は聞いとるよ。この饅頭は貰ったばかりだから、安心するといい」
 雅巳の顔が、紅潮した。
「先生は、雫さんの親代わりじゃと聞きましたが、今は一人で暮らしておられるのですか?」
「そうだよ。雫が戻って来てくれんからの」
 三浦は笑っていたが、雫の顔には申し訳なさが浮かんでいた。
「神代さんは、腕の良い医者だと聞いたのだが、志士になったとも聞いた。もう、医者は嫌か」
「はい」
 雅巳の返事には、陰りがあった。三浦は溜め息を吐いた。
「人を生かすも殺すも、出来るのは神さんだけだ。同じ『人』がそれをしようなんて、随分烏滸がましいと思わんか?」
「はい」
「それで、良いんだ。儂等は、神さんではないからの」
 雅巳が、重々しく口を開いた。
「人の死に目に寄り添うだけの医者は、もう耐えられんのです」
 三浦は、顎を掻いた。
「生きている以上、避ける事は難しいが、慣れてしまっては人斬りと同じだ」
 夕空で、烏が鳴いた。
「そろそろ、帰りなさい。着く前に日が暮れてしまわぬうちに」
 雅巳と雫は、三浦の診療所を後にした。
 四半刻程歩くと、竹藪に囲まれた道に入る。そこを抜けなければ、雫の診療所には戻れない。竹の影は、赤く燃える空を遮り、夕闇に近い空間を作り出していた。時折流れ込む湿った風が、竹特有の青い臭いで鼻孔を擽る。
「今夜は、雨が降るやもしれんな。少し遅くなったようじゃ。急ごう」
 少し歩みを早めた雅巳の前に、人影が飛び出して来た。袴も無く、汚れた着物を纏った男は、汚い手拭いで顔を隠して刀を持っていた。よく見れば、到底人など斬れそうもない程、刃こぼれが酷かった。
「身ぐるみ置いて行け!」
 男は怒鳴った。
 雅巳は、男が一人だと思っていた。
「わしは、意味も無く人を斬りとおない」
 雅巳が言い終わると同時に、雫が声を上げた。刹那、雅巳は反射的に身体を反転させるも、隠れていた別の仲間の持つ鎌が、彼の左腕に食い込んだ。
 雅巳が雫を突き飛ばすように離すと、右手で刀を抜き、鎌の男を斬り捨てた。それに被せるよう、もう一人の男の持つ刀が雅巳の刀とぶつかり、力負けした男の刀の先が雅巳の肩を斬り付けた。
 雅巳は男を蹴り飛ばすと、バランスを失った男を斬った。
「雅巳さん!」
 雫が駆け寄り、前のめりで倒れ込む彼を彼女が支えた。
「雫さん、怪我は無いか?」
 雅巳の顔から、みるみる血の気が引いていく。彼の異常に流れ出る額の汗を、雫が自らの袖で拭ってやると、彼女は手拭いを引き裂いて雅巳の傷口を縛り上げた。
「私が助けます。絶対に、助けて見せますから?」
 二人はなんとか診療所まで戻るも、その頃には雅巳の意識は殆ど無かった。
 痛みに暴れる雅巳を、凜と二人で必死に押さえ付けて手当すると、雫は寝ずに看病した。凜が心配し、休むように言っても、雫は頑として雅巳の側から離れようとしなかった。
 その間。雅巳は遠い意識の中で、霧に包まれた闇の中を一人で歩いていた。
 どのくらい歩いたのか定かではないが、些か飽きてきた頃合いで、霧の中の人影に気付いた。
 雅巳は、自分が斬られたのも忘れて、両手を振り回して叫んだ。
「おおーい! 何方か知らんが、ちと待ってくれんかの」
 待ってくれと頼んだものの、人影は相変わらず立ち止まったまま、じっと雅巳を見ているようだった。
 気味が悪い程、人影との距離は遠い。ようやく距離が縮まり、徐々に人影の顔が露わになった。
「止まれ!」
 そう一喝した男の顔を見て、雅巳は驚きのあまり後ろに飛び退いた。死んだ筈の、弟であった。
「兄上、そこからこっちに来ちゃいかん」
「雅矢ではないか? お前、生きておったんか!」
 雅巳の口から、歓喜にも恐怖にも似た悲鳴が上がった。
「兄上。落ち着いて、聞くんじゃ。わしは、正真正銘死んどる。ほれ、足を見てみ」
 袴を託し上げた弟雅矢の足下に視線を移すと、そこに足は無かった。
 雅巳は、驚きのあまり腰を抜かして尻餅を突いた。
「兄上は、相変わらず幽霊が苦手じゃな。もう、晩に一人で厠へ行けるようになったんかいの」
 雅矢は、雅巳をからかった。
「何しに化けて出た?」
 雅巳が、雅矢に向かって両手を合わせた。雅矢は構わずしゃがみ、視線を雅巳と同じ高さに合わせた。そして、地面を指差す。見れば、言われなければ気付かない程度の水が、ちろちろと川のように流れていた。
「兄上、これが三途の川なんじゃよ」
「この小さいのがか?」
「そうなんじゃ! 兄上が彷徨っとるっちゅう噂を聞いて、わしが止めに来たんじゃ。わしはな、気付かずにこいつを跨いでしまったもんで、死んでしまったんじゃ」
「無念じゃったの」
「本当じゃ!」
 雅矢は腕を組んで、うんうん頷きながら三途の川を眺めていた。
「わしも、そっちへ行こうかの」
 雅巳が、ぽつんと漏らした。
「それは、いかん! 兄上には、待っとる人がおる」
「そんな奴はおらん」
「おる! おるから、わしが来たんじゃ。目が覚めたら、誰か解る」
 雅巳が、ふてくされたように口を尖らせた。
「兄上。わしは、もう行かんといかん。達者でな」
 もう少し話がしたい。そう思って雅巳が手を伸ばした時には、もう雅矢はいなかった。
 代わりに、雅巳の手を握ったのは雫であった。
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