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Case.04 心情
東都 東地区α 四月十四日 午後十二時
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仕事のパートナーである双子の兄を助けるために意識を手放している男が目を覚ます様子はまだなく、足元に残っていた最後の薬液溜まりを分解させて芳香を和らげる。
時折繰り出される形振り構わない攻撃を何度となく弾き飛ばしてやってはいるが、長時間掛けて電流を発し続けている身体は既に熱が篭り始めて限界が近い。
片腕に嵌めた木製の時計へ目をやれば、予告した時間までは残り五分を切っている。過負荷状態へ陥る前には起こしてしまいたいが、万一救出直前で目を醒まさせてしまっては、疾風の記憶も命も危険に晒すことになってしまう。
先程から防戦一方だが、この先頭には波がある。頭を押さえている時は香りが薄れるが、摂取を行った直後にはその芳香が再度勢力を増す事を考えると、あちらは既に限界を超えているのだろう。
何本目か判らない注射を握り自らに打ち込む渡辺を見やり、重く痺れる手を動かしながら神経を集中する。
(あと五分は耐えろよ、俺…!)
通常の病室であれば花瓶の一つでも叩き割れば残り香の一掃くらいは出来るだろうが、旧病棟内である此処にそんなものはない。足元に転がしているペンダントトップへ帯電させて投げ当てることも考えてはみたが、それでは牽制にもならないだろう。
となれば後は直接本人に電流を打ち込む他にないが、直接触れる必要があるため彼等から離れなければならない事を考えるとリスクが高い。
「さっきよりもおしゃべりが減ったわねぇ、もう打ち止めかしら?」
「そういうオネーサンも何回目のドーピングですかねェ?そんなに精力つけたところで相手がおねんねしたまンまじゃあ、どうしようもないでしょうに」
「なっ…!」
オブラートに包んだ口撃に逆上と恥辱で紅潮した女医は、顔を歪ませてこちらを睨める。しかし感情を乱した事で集中力が途切れたのか、蔓延っていた花石鹸の残香は薄まり、浅くしていた呼吸を戻せば重かった体が僅かに軽くなった。
いつ反撃に出るか判らぬ渡辺へ一か八かの勝負を賭けるため手中に神経を澄ませる。
─ カチ…
金属同士が噛み合う音を耳が僅かに聞く。眠り続ける二人を一瞥し、音の発生源を見つけ自らの身を屈める。
地を蹴り離れ、その足元へ眩く白んだ強発光に渡辺が怯み、その直後、放電音と発砲音が響いた。
「っぁぁあああぁ?!」
「特別製だ、致命傷にならないだけありがたく思え」
振り向けば、利き手ではない左に握った小型銃を右肩から下ろし、ゆるりと立ち上がった副官の濃い憤りを帯びた低く通る声が甲高い悲鳴を貫く。
女の二の腕は撃ち抜かれ、溢れる液体は白衣と止血の手を紅色に染め垂れ滲む。貫通した痛みと発熱に唇を噛む渡辺へ足払いを入れ、疾斗の隣へ戻れば、目を見開いたままこちらを見据えて獣の様な呼吸を繰り返す。
その顔はさながら、旧国を伝える歴史書に載る鬼にも似て、彼女の内なる狂気を表すようだ。
「なんで?!なんであんなに嗅がせたのに無事なのよ!?」
「新堂疾風の夢を探索する俺までは対象にならなかっただけのこと。複数人を匂いで苦しませる事は出来ても、お前自身の能力である記憶改竄自体は単体対象。本領を発揮することが出来るのは一人だけだ」
「……その対象を疾風にしていたことで……疾斗は、記憶が書き換えられずに済んだ…ってワケ、か…」
背後の寝台が軋む音と投げられた掠れ声に振り向けば、緑と黒の混じる髪を乱した男がその上半身を両腕で支え起こし、荒く浅い呼吸を落とす。
定まらぬ視点に困惑した様子で、頭を振り目を擦る姿に生気はあまり感じられない。どうあれ覚醒したことに安堵して視線を女医へと戻せば、こちらとは打って変わってその表情を驚愕に崩して戦慄いていた。
「有り得ない……有り得ないあり得ないあり得ないありえないありエない!なんで起きられるのよ、どうして何とも無いの?!今までこんなコトなかっ──」
「煩ェな……黙らせろ」
─ パンッ
喚き続ける渡辺への抗議が疾風の唇から落ちれば、乾いた破裂音が耳を抜ける。
鼻腔にこびり付いていた花石鹸の香が硝煙に掻き消えると、目前の女の片耳は紅滝に化していた。
「ひィ、い!?」
「ピアス穴拡げるつもりだったんだが、吹き飛んだな」
先程までとは打って変わり、淡々とした声で言い放った男が僅かに嗤う。
被写体時の微笑みや普段の呆れ笑いとは違う、背筋が凍るようなその顔は、明らかに怒りからきている。
幾度か請負業の仕事も共にしているが、これほどまでに憤怒している姿を月原は知らない。
実兄を手にかけられた事に対してなのか、それとも別のことなのか。
「っ…そんな男、死んで当然なのよ……私から、伊純を奪ったんだから…」
空いた弾倉へ銃弾を装填する音の影、女が恨めしげに絞り出した妙な文言に眉を寄せる。
言葉の意をそのまま汲むのであれば、彼女は伊純という女性と心を寄せ合っていたが、それを疾風が割り込んだという事になるだろう。
性別云々での恋愛には特に何かを考えているわけではないが、そのまま信じるとなるとこの件については意識を奪われていた彼が悪いという事になる。
どういう事だと問いかけようとした傍ら、紫髪の請負人は躊躇らわず銃を構え、迷うことなく急所へ銃口を向ける。その目に同情の色など有らず、親指を撃鉄へ掛けた瞬間、緑髪の請負人がその肩を掴み止めた。
「…顔見て思い出した時には遅かった。病院の携帯じゃ名前しか見れねえし、名前が違っちゃァ、さすがに気付けねえわ…」
銃をおろせと黙して命ずる兄の目に負けたのか、疾斗が眉を寄せたまま銃を脇へと戻す。ゆるりと頭を上げた疾風は珍しく眉を下げて「こいつ頼む」と口を薄く動かし、寝台から床へと足を下ろすと、女医へと真っ直ぐ目を向ける。
「渡辺優…旧姓名は渡里 優。流動的性自認者…今は女性側に寄っている、ということだな…」
覚束ぬ足取りで疾風がゆっくりと歩みを進めれば、渡辺は流血したままその身体へと飛びかかる。力の足りていないその身体は背から床へと落ちるが、呻くこともなくただ静かに女を行動を見つめ、首へと伸びた両手を止めることなく受け入れた。
「管理長…っ」
「月原、手を出すな」
男の口から事務的にコードネームが落とされ、月原は澱みを抱いたまま足を引いて僅かに頷く。業務代行請負業の当都内最高責任者である彼にそれを呼ばれることは、絶対的な命令の意味を持つ。公認代理であるだけでそれ以上の何者でもない一般職の自分では逆らうことなど出来ない。
やるせなさを胸に抱きつつ疾斗の方へと視線を移せば、下知の意を汲みつつも納得はしていないのかその表情は苦く曇っていた。
「能力なんかっ、もう、どうでもいいっ……殺してやる…!」
「力も入らない震えた手で何が出来る」
「うるさいウルサイうるさいウルさイ!伊純をどこにやった、体も骨もない葬式なんてバカげたもので、私を騙せると思ってルのか!」
(体も骨も、ない?)
疾斗との交流は学生時代からあるが、彼の兄との付き合いを持ったのは自分が請負業に就いてからのこと。
疾風に妻がいた事とすでに鬼籍に入っているのは知っているが、死因までは聞いていない。
「私は小学生の頃からずっと一緒だった……医者になるって夢を聞いて、必死で同じ学校に入ってっ…ずっと、ずっと見てきたんだ!」
渡辺の耳から流れ出る赤い体液は疾風の頬を滑り続け首脇へ溜まり、羽織る白衣の襟へと滲んでゆく。大量の鎮痛剤を投与しているせいか痛覚と共に筋力も衰えているのか、その身体は細かく震えているようにも見える。
管理長の首に掛けられた手が動いたのを確認し手中へ意識を傾けるが、下された命が頭を過り拳を握り電流をとめ、奥歯を噛む事しか出来ない。
「なのにお前はなんだっ…医学校から知り合ったくせに、私から奪った、私のっ、大事なモノを!」
「……だから俺に昔の記憶を見せて、それから記憶を消そうとしたのか」
「そうさ、アンタから全部奪った私を伊純と思いこませて、信じ込んだ所を絶望させて殺して」
「好きだった女を道具として使ったんだぞ、お前は」
「うるさい!伊純をひとりじめしていたお前に言われたくない!」
重く冷たく突き付けた疾風の言葉は、見境がつかない子供のような言い訳に寄って掻き消される。事実を受け入れたくないのか、自身の正義に呑まれているが故に聞き分けが出来ないのか、ただただ喚く渡辺の言葉に頭が惑わされてゆく。
「大体、お前は葬式で涙の一滴も流さなかった!すきだったんじゃないのか?!独り占めするほど好きだったのに、泣かないことなんてあるのか!」
「…俺があの場で泣いてたら、本当に泣きたい奴の感情はどこに行けばいいんだよ」
悲鳴にも似た渡辺の声が病室に響く中、憐憫を含んだ低い音が射抜く。
「俺やお前以上に一緒に過ごした、アイツの身内が泣けなくなっちまうだろう。感情を受け止められる人間が居なくなっちまうだろう?」
予想していなかった答えに延々泣きじゃくっていた渡辺がたじろぎ、止血し始めていた耳の液体が男の目元へと撥ねる。
身体を起こした疾風の頬から紅色が襟へと伝う。その顔には僅かに悲哀が帯び、双眸に生を誓う強い光を宿らせて、体上の凶人を見つめた。
「…怨み言なら幾らでも言えばいい。それを負うのは俺が受けるべき業だ。ただな、何も知らねえ…なにも知ろうとしねェ人間が、これ以上伊純を呼ぶんじゃねェ」
「っ…何、だよそれ…!私は、た、ダ…、を……ぁ、っう…ぐ」
一喝へ小言を返そうとした医師が頭を押さえ、乗っていた体躯から転げ落ちた。
長い髪を振り乱し、目を見開いたままおおよそ人とは思えぬ呻きを喉から迸らせる。
あまりにも唐突な現象に反射的に動いた身体は、疾斗の手によって止められ、何故止めるのかと見れば「どうにも出来ない」と一言返った。
悶え苦しむ渡辺は泡を噴きながら何事かを呟き頭を掻き続け、吐瀉物に朱が差す。
呼吸を荒げ、断末魔のような叫びを上げると、その顔のまま横たわり動かなくなった。
「…今のが……」
「代償症状最末期だ。渡辺のは記憶容量超過による発狂死…ってトコだろうな」
犯人の血液に服を染め、罵倒され続けていた男が冷静に状況を話す。
薬に頼りすぎて最末期さえ気づかなかったのかも知れない、と淡々と話す疾風に先程の翳りは見えない。
「ったく、しくじったな…あんだけ警戒してたってのに…」
「予想外なんて起こりうることだろう。渡辺優と美南龍弥は直接の知り合いじゃなかった上に、私怨まであったら関連性を考えるのは難しい」
立ち上がろうとしているようだが栄養の足りない身体は云う事を効かないらしく、両腕で支えているのがやっとなのが見て取れ、何処かへ連絡をとっていた疾斗が端末をしまい、手を差し出す。
「…明日槍でも降ってくるんじゃねえか?」
「今日は兄さんに随分優しいンじゃないの、疾斗ちゃん」
「……唯一の、血縁だからな」
低く呟き苦笑した副官が管理長へ肩を貸し、病室を先に出ていくのを見届け、月原は足元の遺体へ目を向ける。
苦悶と絶望の表情のまま絶命した医師は、眼孔から赤い涙を垂れ流していた。
時折繰り出される形振り構わない攻撃を何度となく弾き飛ばしてやってはいるが、長時間掛けて電流を発し続けている身体は既に熱が篭り始めて限界が近い。
片腕に嵌めた木製の時計へ目をやれば、予告した時間までは残り五分を切っている。過負荷状態へ陥る前には起こしてしまいたいが、万一救出直前で目を醒まさせてしまっては、疾風の記憶も命も危険に晒すことになってしまう。
先程から防戦一方だが、この先頭には波がある。頭を押さえている時は香りが薄れるが、摂取を行った直後にはその芳香が再度勢力を増す事を考えると、あちらは既に限界を超えているのだろう。
何本目か判らない注射を握り自らに打ち込む渡辺を見やり、重く痺れる手を動かしながら神経を集中する。
(あと五分は耐えろよ、俺…!)
通常の病室であれば花瓶の一つでも叩き割れば残り香の一掃くらいは出来るだろうが、旧病棟内である此処にそんなものはない。足元に転がしているペンダントトップへ帯電させて投げ当てることも考えてはみたが、それでは牽制にもならないだろう。
となれば後は直接本人に電流を打ち込む他にないが、直接触れる必要があるため彼等から離れなければならない事を考えるとリスクが高い。
「さっきよりもおしゃべりが減ったわねぇ、もう打ち止めかしら?」
「そういうオネーサンも何回目のドーピングですかねェ?そんなに精力つけたところで相手がおねんねしたまンまじゃあ、どうしようもないでしょうに」
「なっ…!」
オブラートに包んだ口撃に逆上と恥辱で紅潮した女医は、顔を歪ませてこちらを睨める。しかし感情を乱した事で集中力が途切れたのか、蔓延っていた花石鹸の残香は薄まり、浅くしていた呼吸を戻せば重かった体が僅かに軽くなった。
いつ反撃に出るか判らぬ渡辺へ一か八かの勝負を賭けるため手中に神経を澄ませる。
─ カチ…
金属同士が噛み合う音を耳が僅かに聞く。眠り続ける二人を一瞥し、音の発生源を見つけ自らの身を屈める。
地を蹴り離れ、その足元へ眩く白んだ強発光に渡辺が怯み、その直後、放電音と発砲音が響いた。
「っぁぁあああぁ?!」
「特別製だ、致命傷にならないだけありがたく思え」
振り向けば、利き手ではない左に握った小型銃を右肩から下ろし、ゆるりと立ち上がった副官の濃い憤りを帯びた低く通る声が甲高い悲鳴を貫く。
女の二の腕は撃ち抜かれ、溢れる液体は白衣と止血の手を紅色に染め垂れ滲む。貫通した痛みと発熱に唇を噛む渡辺へ足払いを入れ、疾斗の隣へ戻れば、目を見開いたままこちらを見据えて獣の様な呼吸を繰り返す。
その顔はさながら、旧国を伝える歴史書に載る鬼にも似て、彼女の内なる狂気を表すようだ。
「なんで?!なんであんなに嗅がせたのに無事なのよ!?」
「新堂疾風の夢を探索する俺までは対象にならなかっただけのこと。複数人を匂いで苦しませる事は出来ても、お前自身の能力である記憶改竄自体は単体対象。本領を発揮することが出来るのは一人だけだ」
「……その対象を疾風にしていたことで……疾斗は、記憶が書き換えられずに済んだ…ってワケ、か…」
背後の寝台が軋む音と投げられた掠れ声に振り向けば、緑と黒の混じる髪を乱した男がその上半身を両腕で支え起こし、荒く浅い呼吸を落とす。
定まらぬ視点に困惑した様子で、頭を振り目を擦る姿に生気はあまり感じられない。どうあれ覚醒したことに安堵して視線を女医へと戻せば、こちらとは打って変わってその表情を驚愕に崩して戦慄いていた。
「有り得ない……有り得ないあり得ないあり得ないありえないありエない!なんで起きられるのよ、どうして何とも無いの?!今までこんなコトなかっ──」
「煩ェな……黙らせろ」
─ パンッ
喚き続ける渡辺への抗議が疾風の唇から落ちれば、乾いた破裂音が耳を抜ける。
鼻腔にこびり付いていた花石鹸の香が硝煙に掻き消えると、目前の女の片耳は紅滝に化していた。
「ひィ、い!?」
「ピアス穴拡げるつもりだったんだが、吹き飛んだな」
先程までとは打って変わり、淡々とした声で言い放った男が僅かに嗤う。
被写体時の微笑みや普段の呆れ笑いとは違う、背筋が凍るようなその顔は、明らかに怒りからきている。
幾度か請負業の仕事も共にしているが、これほどまでに憤怒している姿を月原は知らない。
実兄を手にかけられた事に対してなのか、それとも別のことなのか。
「っ…そんな男、死んで当然なのよ……私から、伊純を奪ったんだから…」
空いた弾倉へ銃弾を装填する音の影、女が恨めしげに絞り出した妙な文言に眉を寄せる。
言葉の意をそのまま汲むのであれば、彼女は伊純という女性と心を寄せ合っていたが、それを疾風が割り込んだという事になるだろう。
性別云々での恋愛には特に何かを考えているわけではないが、そのまま信じるとなるとこの件については意識を奪われていた彼が悪いという事になる。
どういう事だと問いかけようとした傍ら、紫髪の請負人は躊躇らわず銃を構え、迷うことなく急所へ銃口を向ける。その目に同情の色など有らず、親指を撃鉄へ掛けた瞬間、緑髪の請負人がその肩を掴み止めた。
「…顔見て思い出した時には遅かった。病院の携帯じゃ名前しか見れねえし、名前が違っちゃァ、さすがに気付けねえわ…」
銃をおろせと黙して命ずる兄の目に負けたのか、疾斗が眉を寄せたまま銃を脇へと戻す。ゆるりと頭を上げた疾風は珍しく眉を下げて「こいつ頼む」と口を薄く動かし、寝台から床へと足を下ろすと、女医へと真っ直ぐ目を向ける。
「渡辺優…旧姓名は渡里 優。流動的性自認者…今は女性側に寄っている、ということだな…」
覚束ぬ足取りで疾風がゆっくりと歩みを進めれば、渡辺は流血したままその身体へと飛びかかる。力の足りていないその身体は背から床へと落ちるが、呻くこともなくただ静かに女を行動を見つめ、首へと伸びた両手を止めることなく受け入れた。
「管理長…っ」
「月原、手を出すな」
男の口から事務的にコードネームが落とされ、月原は澱みを抱いたまま足を引いて僅かに頷く。業務代行請負業の当都内最高責任者である彼にそれを呼ばれることは、絶対的な命令の意味を持つ。公認代理であるだけでそれ以上の何者でもない一般職の自分では逆らうことなど出来ない。
やるせなさを胸に抱きつつ疾斗の方へと視線を移せば、下知の意を汲みつつも納得はしていないのかその表情は苦く曇っていた。
「能力なんかっ、もう、どうでもいいっ……殺してやる…!」
「力も入らない震えた手で何が出来る」
「うるさいウルサイうるさいウルさイ!伊純をどこにやった、体も骨もない葬式なんてバカげたもので、私を騙せると思ってルのか!」
(体も骨も、ない?)
疾斗との交流は学生時代からあるが、彼の兄との付き合いを持ったのは自分が請負業に就いてからのこと。
疾風に妻がいた事とすでに鬼籍に入っているのは知っているが、死因までは聞いていない。
「私は小学生の頃からずっと一緒だった……医者になるって夢を聞いて、必死で同じ学校に入ってっ…ずっと、ずっと見てきたんだ!」
渡辺の耳から流れ出る赤い体液は疾風の頬を滑り続け首脇へ溜まり、羽織る白衣の襟へと滲んでゆく。大量の鎮痛剤を投与しているせいか痛覚と共に筋力も衰えているのか、その身体は細かく震えているようにも見える。
管理長の首に掛けられた手が動いたのを確認し手中へ意識を傾けるが、下された命が頭を過り拳を握り電流をとめ、奥歯を噛む事しか出来ない。
「なのにお前はなんだっ…医学校から知り合ったくせに、私から奪った、私のっ、大事なモノを!」
「……だから俺に昔の記憶を見せて、それから記憶を消そうとしたのか」
「そうさ、アンタから全部奪った私を伊純と思いこませて、信じ込んだ所を絶望させて殺して」
「好きだった女を道具として使ったんだぞ、お前は」
「うるさい!伊純をひとりじめしていたお前に言われたくない!」
重く冷たく突き付けた疾風の言葉は、見境がつかない子供のような言い訳に寄って掻き消される。事実を受け入れたくないのか、自身の正義に呑まれているが故に聞き分けが出来ないのか、ただただ喚く渡辺の言葉に頭が惑わされてゆく。
「大体、お前は葬式で涙の一滴も流さなかった!すきだったんじゃないのか?!独り占めするほど好きだったのに、泣かないことなんてあるのか!」
「…俺があの場で泣いてたら、本当に泣きたい奴の感情はどこに行けばいいんだよ」
悲鳴にも似た渡辺の声が病室に響く中、憐憫を含んだ低い音が射抜く。
「俺やお前以上に一緒に過ごした、アイツの身内が泣けなくなっちまうだろう。感情を受け止められる人間が居なくなっちまうだろう?」
予想していなかった答えに延々泣きじゃくっていた渡辺がたじろぎ、止血し始めていた耳の液体が男の目元へと撥ねる。
身体を起こした疾風の頬から紅色が襟へと伝う。その顔には僅かに悲哀が帯び、双眸に生を誓う強い光を宿らせて、体上の凶人を見つめた。
「…怨み言なら幾らでも言えばいい。それを負うのは俺が受けるべき業だ。ただな、何も知らねえ…なにも知ろうとしねェ人間が、これ以上伊純を呼ぶんじゃねェ」
「っ…何、だよそれ…!私は、た、ダ…、を……ぁ、っう…ぐ」
一喝へ小言を返そうとした医師が頭を押さえ、乗っていた体躯から転げ落ちた。
長い髪を振り乱し、目を見開いたままおおよそ人とは思えぬ呻きを喉から迸らせる。
あまりにも唐突な現象に反射的に動いた身体は、疾斗の手によって止められ、何故止めるのかと見れば「どうにも出来ない」と一言返った。
悶え苦しむ渡辺は泡を噴きながら何事かを呟き頭を掻き続け、吐瀉物に朱が差す。
呼吸を荒げ、断末魔のような叫びを上げると、その顔のまま横たわり動かなくなった。
「…今のが……」
「代償症状最末期だ。渡辺のは記憶容量超過による発狂死…ってトコだろうな」
犯人の血液に服を染め、罵倒され続けていた男が冷静に状況を話す。
薬に頼りすぎて最末期さえ気づかなかったのかも知れない、と淡々と話す疾風に先程の翳りは見えない。
「ったく、しくじったな…あんだけ警戒してたってのに…」
「予想外なんて起こりうることだろう。渡辺優と美南龍弥は直接の知り合いじゃなかった上に、私怨まであったら関連性を考えるのは難しい」
立ち上がろうとしているようだが栄養の足りない身体は云う事を効かないらしく、両腕で支えているのがやっとなのが見て取れ、何処かへ連絡をとっていた疾斗が端末をしまい、手を差し出す。
「…明日槍でも降ってくるんじゃねえか?」
「今日は兄さんに随分優しいンじゃないの、疾斗ちゃん」
「……唯一の、血縁だからな」
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