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第8話

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 水族館は思っていた以上に楽しかった。思い返せば仕事ばかりで娯楽施設なんて高校以来かもしれない。
 気づけばはしゃいで、自分の感情にも言葉にも一切気を使っていなかった。
 色とりどりの魚たち。イルカにペンギン。
 はしゃぐカップルたちに混じり、私は広海くんを連れ回す。
 お昼ご飯も忘れて一通り回りきると、近くにいいカフェがあると広海くんに案内されるままお店に入った。
 まだやっていたランチセットをそれぞれ頼み、料理が運ばれてくると、二人とも無言でそれを平らげる。
 空っぽだったお腹を満たしてしまうと、水族館での自分のはしゃぎようを思い出し恥ずかしくなってきた。
「よかったです。華帆さんが水族館楽しんでくれて」
 にこにこと微笑む広海くんから視線をそらす。
「大人げなくはしゃいじゃって、引いてない?」
 私は二人の歳の差を思い出す。十年。高校生からすれば、私は充分おばさんだ。
「全然。華帆さんの新たな一面見れて、嬉しかったですよ。それにはしゃいで恥ずかしがる歳でもまだないんじゃないですか?」
「え?」
「え?」
 私のえ? に二人の時間が一瞬止まる。そういえば、いくつか話していなかったかもしれない。
「広海くんに歳いったっけ?」
 ゆっくりと首を横に振る彼に、私はさらに問いかける。
「いくつぐらいだと思ってる?」
「就活の話ししてたから、大学四回生なのかなって」
 随分と若く見られたものだ。
「ごめん、実は二十七」
 それを聞いた広海くんの顔がこわばったように見えた。
 もう終わりかもしれない。そう思いながら彼の顔色をうかがっていた。
「思っていたよりも、大人の人だったんですね。失礼をしてないといいんですが。これから気をつけますね」
 神妙にいった広海くん。
「えっ、あ、大丈夫。今まで通りで。それより、なんか騙してたみたいになってごめんね。やだよね、十も離れたおばさんと一緒って」
「そんなこと気にしませんよ。華帆さんといるの楽しいですし」
 にっこりと余裕のある微笑みを向けてくれる広海くんが、とてもできた人間に見えた。すごく落ち着いていて、高校生に見えない。
 感心しているとふと疑問がわいた。なんでこんなにできた子と、あの子は別れてしまったのだろう。
「広海くんて、優しいし落ち着いてて、すごくモテそうなのに、振った彼女見る目ないなぁ」
「いやいや、華帆さんといるからですよ。あんまりガキっぽく思われたくないし。学校では目立たない男なんで」
「なんで別れちゃったの?」
 動きを止めた広海くんは、ゆっくりとまだコーヒーが残るカップを口に運ぶ。踏み込み過ぎてしまっただろうか。私が思っていた程、乗り越えられてなかったのかもしれない。
「俺、つまんないらしいです」
 カップをソーサーに起きながら彼は口を開いた。
 ぽつぽつと語る彼の言葉を、私はゆっくりと飲み込んでいく。
「華帆さんには別れを切り出された時の情けない姿、見られたんですよね。付き合ってもうすぐ半年で、何かしようかって話してたら、別れようっていわれて。広海と付き合うのは三ヶ月で飽きてたけど、クラス一緒だし、気まずくなったらめんどくさいじゃん。だから、クラスが変わるのを待ってて、願ってた通りクラス別になったから、私たちもここで終わりにしよう、もう話しかけてこないでねっていわれたんですよ。今思うと尽くし過ぎたのかなって」
 そういって力なく笑った広海くんにかける言葉を探した。そんないい方をしなくてもいいのにと、心の中で名前も知らない子に怒る。
 広海くんは更に言葉を続けた。
「元カノにいわれてバイト増やしたり、友達よりも優先して。初カノだったんでのぼせて、なんでもわがまま聞いちゃったんですよね。今更ですけど、なんであそこまでしちゃったんだろうって思いますよ」
 遠くを見つめる彼の瞳には、元カノとの楽しい日々が掠めているのだろうか。
 彼の気持ちが少しわかる気がした。
 初めての恋人。好きだから望まれるままに生活を変え、今更後悔。
「私もね、恋人と別れて間もなかったんだよね」
 正確には恋人でなかったけれどと思いながらいった言葉を聞き、遠くを見ていた目が私に向けられる。気持ちを共有したくて、私はところどころぼかしながら広海くんに大石さんのことを話した。まだ汚れてない彼をなるべく汚してしまわないように。
「私は広告系の会社で働いてたんだけど、相手はその会社の他部署の上司だったのね。仕事が上手くいかない時に優しくしてくれて、好きになって、会社以外でもたくさん会うようになって」
 思い出すだけでも辛かった過去を、初めて人に話していた。
「恋人っていったけど、本当は遊ばれただけで、付き合ってると思ってたのは私だけだったんだ」
 俺には妻がいる。冷たい声が今も耳に張りついている気がした。振り払ったつもりでも、なかなか取れない。
「会社で顔合わせるのも気まずくなって、辞めちゃったんだよね」
 最後に笑って見せたが、まだまだ傷は深く私の心をえぐっているみたいだ。
 広海くんは少し眉間に皺を寄せて私を見つめている。
「初めて恋人ができたと思ってたけど、全部勘違いだったみたいで、随分と私は汚れちゃったなぁって、後悔してる」
 つい本音が漏れた。押さえていた感情がついでに溢れて、鼻がツーンと痛くなった。
「華帆さんは汚れてませんよ。綺麗です」
 どういうことをもっていったのか察しはつかない。それでも、その言葉に救われた気がした。気づけば両目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
 それを見て戸惑う広海くんに
「大丈夫、こんなこと誰にも話してこれなかったから、ちょっと気持ちがたかぶっちゃって」
 と、涙を拭いながら笑みを作る。
 溢れる涙をなんとか止めて、大きく息を吸って吐き出した。そして、広海くんと目を合わせる。
「今日はぱーっと遊んじゃおっか」
 そういって笑いかけると彼も笑みを返してくれた。
 カップに残ったコーヒーを二人して飲み干し席を立った。
 カフェから出た時、私たちの心の距離は入った時よりも確実に近くなっている気がした。
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