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40-2.竜
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「お話し中失礼いたします」
そこに飛び込んできたのは、スイだ。両者の間に漂う微妙な雰囲気に気付いていたものの、さすがに空気を読んでいる状況ではない。
スイの姿を認めて、スノウが慌てて場所を譲った。その表情にはいくらか安堵の気配が漂っている。
「たった今メーベルから連絡がありました。例の兵団が撤退を始めたようです」
スイの手のひらには白い『鳥』が浮かんでいる。鳥の形状をした伝令の魔法を使用するのはスイとその部下たちだけであり、どうやら彼の部下を経由しての伝達であるらしい。そもそも、結界内で戦闘を繰り広げているだろうメーベルでは、魔法の伝令は使用できないだろう。
「……意外と諦めが早かったな。増援は不要だったか……?」
エルが首を傾げる。ヴァスーラが「精鋭」を寄越したのだ。本気とみて、手を抜くわけにいかないと畳み掛けたのである。
結界が発動してからそう時間は経っていないのだが、先方の撤退の判断が鮮やか過ぎる。
いくら不測の事態とはいえ、もう少し粘りそうなものだというのがエルの考えだ。戦闘力は魔法に偏重していても、その技術は高く様々な武器の使い手がいると専らの噂だった。
それが魔法が使えないというだけで、こうも簡単に戦場を投げ出すとは思えない。
「深追いするなと伝えておけ。絶対に結界から出るなと」
エルとしては降りかかった火の粉を払っているだけである。下手に深追いをして結界の有効範囲から出てしまっては、相手の思う壺だ。
「撤退したならその間にあいつらの転移門を破壊させろ。どうせ今はただの模様だ。面倒な手順も手間も省ける」
それに、とエルが小さく言を継ぐ。それは傍に控えたスイでもかろうじて聞き取れるか否かの、独り言めいた言葉だ。
「ちょっかいをかけただけ、という可能性もあるな」
あの兄ならあり得るだろう、と笑う。
精鋭が来たことで、エルたちはどうしても過剰に身構えずにはおられなかったが、その兵力はヴァスーラにとってはごく一部でしかないのも事実だ。攻め落とすつもりだったのは間違いないだろう。だが、その反面、手古摺るようならあっさり手放せるほどの執着でもあったのだ。
未だ本人がその姿を見せていないのが証拠のようにも感じられた。
エルの命令にスイが再び手の中の鳥を飛翔させる。鳥はくるりとスイの周囲をひとまわりして、扉のほうへと飛んでいく。
その鳥が扉の向こうに消えたと同時に、アイシャが小走りに戻ってきた。
「いま部下が勇者を連れてきます」
スノウをちらりと見たアイシャが、エルに報告する。
スノウは再び壁際まで退いていた。最早自分には関係ないと判断したのか、布を深く被り窓の向こうを仰いでいる。
「その前に、エル様。俺にはちょっと状況がわかんないんですけど……あそこのアイツ、ヘネスですよね?」
「ああ、そうか」
エルは今気付いたというように緋色の髪を掻きあげる。
ヘネスがスノウに変化していた一連の動きを、地下に居たアイシャは知らない。アイシャにしてみれば、一仕事終えて戻ってきたらいつの間にか広間の床は悲惨な有様になり、ヘネスは囚われ、頭を隠すスノウの姿があった。何事かと疑問に思うのも無理はない。
エルは浮浪者の様相をしているスノウを身振りで示し、言う。
「ヘネスがこいつに変化して侵入してたみたいでな。変化を無理やり解いただけだ。後は見ての通り、魔法と枷で拘束してる」
侵入分の駄賃は少々貰ったが、とエルは床に広がる血溜りを一瞥する。
つられて視線を向けたアイシャは何かいいたそうな様子でエルを伺うが、エルのほうはアイシャを顧みることなくスイへ声をかけた。
「転移門の準備は」
「終了致しました。急ごしらえなので、移動距離にもよりますが5人程度が限界かと」
「十分だ」
満足げに頷いたところで、広間の扉が再び大きく開いた。
周囲の騒めきが潮がひくように収まっていく。多くの視線を集めて、現れたのは魔物の城にはそぐわない人物だ。
「来たか」
エルが口元に笑みを履く。
柔らかそうな亜麻色の髪をした、人間。青い目は油断なく周囲を睨めつけ、草臥れた旅装に包まれた体は緊張に強張っている。六代目勇者、クロス・エセル。
獣のようにぎらぎらと輝く目は、彼の精神状態が限界に近いことを示していた。四方をアイシャの部下に囲まれていれば、それも当然だろう。
「さて勇者、たいしたもてなしもできず早々に閉じ込めて申し訳ないな。その侘びとして呼んだんだが……一人か?」
仲間ひとりくらいは構わないと伝えたはず、と問いかけると、クロスはぎこちない動きで首を振る。
「おれ一人で十分だ」
何が、とは言わないクロスに、エルも笑みを浮かべたまま問いかけはしなかった。
「なるほど。全てを一人で背負うか……勇者の鑑だな。そうだろう、スノウ」
唐突に話題をふられたスノウは、壁際で面白いほど盛大に体を揺らした。
完全に傍観者のつもりでいたらしい。思わぬ流れ弾に、ぼろを被った頭をあわあわと揺らす。絶句してどもりながら、
「えと、うん、あの……ゆ、勇者っぽいね、すごく!」
と、非常に残念な回答をした。
これには魔物たちも唖然とした。このいでたちから「勇者」にふさわしい言葉が出てくるとは誰も思っていなかったが、それにしても予想の斜め上を行っている。一連の騒動を振り返り、魔物たちもスノウが勇者らしくないどころか人間としても若干おかしいと認識を改め始めていた。主に、ヘタレという意味で。
「……ぽい、じゃねぇだろ、勇者だ」
さすがのエルも、ため息と共にやや砕けた口調で突っ込んだ。
それは「長」として振舞ってる時には滅多に見せない、素に近い反応である。スイやアイシャだけならともかく、幹部を含め多くの目がある場での態度としては非常に珍しい。ここのところ「長」としての顔しか見せなかったエルだったからこそ、それは新鮮に映った。そして、緊張といくばくかの恐怖をもって対峙したクロスの目にも。
「わ、わかってるよ。いきなり振るから!」
焦ったじゃないか、と八つ当たり気味に先代勇者、もといスノウ・シュネーが喚く。
その姿をちらりと見遣り、エルは気を取り直すように髪を掻き上げた。
僅かに伏せられた目が再び上げられたとき、その真紅の目の中には切れそうなほどの冷気が漂っている。
纏う空気が一瞬で変化したことを感じ取り、クロスは無意識に息を詰めた。
「まあいい。わざわざ呼んだのは他でもない、取引をしようと思ってな」
「……取引、だと」
「ああ。どうだ勇者、交渉の席につく気はあるか? それとも、先般中止になった続きをするか?」
周囲を魔物で囲んだ状況で、そんな選択肢を提示する。
クロスの青い目に烈しい色が宿る。
手にした聖剣の柄を握りこむのを見咎めて、アイシャが身を乗り出した。
クロスの聖剣には抜刀できないよう幾重にも封印が掛けられているのだが、それでも万一ということはある。エルを守るために動いた周囲に、エルは視線を向けたものの特に制止もしない。
「ああ、安心しろ。続きがしたいというならそれの封印は解いてやる。さあ、どうする」
あまつさえそんなことを言い出した城主に、焦るのは周囲の魔物たちである。
「エル様、何を」
アイシャの声には困惑よりも咎める響きが強い。エルから指示された段階で薄々エルの意図に気付いていたようだ。
この「血気盛んな」勇者が、敵と交渉などするはずがないのだ。でなければ、あの場でスノウを裏切り者と罵ったりしないだろう。
「だれが、魔物と取引などと」
案の定、クロスは吐き捨てる。青い目には強い拒絶の意志が宿っている。
その答えにエルは笑う。
「決裂か。残念だな」
真紅の双眸に闘志を揺らめかせ、言葉だけは心外そうに呟く。
「では仕方ない、続きといこうか。全員下がれ」
エルの合図で、クロスの周りを固めていた兵士たちが離れる。同時に他の魔物たちも数歩ずつ退いた。
スイとアイシャも、互いに困ったような視線を見合わせたあと、渋々距離をとる。
急に開けた視界に、クロスは一層警戒を強め、身構える。
「そら、自由にしてやろう」
クロスが無意識に剣の柄に手をやったのを見たのだろう。エルがぱちんと指を鳴らした。途端にクロスが軽くふらついた。剣に掛けられていた封印が一度に外れた反動だ。
エルはどこからか己の大剣を取り出し、既に抜き身のそれを構える。
途端にその場の空気が張り詰めた。
自然と周囲の騒めきが収まり、重苦しい沈黙が落ちる。ぎりぎりと軋む音が聞こえそうなほどに、張り詰めた空間。
誰もが両者の動向に注目していた。
スイやアイシャは勿論、それを遠巻きに見守る幹部たち、そしてヘネスを囲んでいた兵士たちですら。
再び始まるであろう勇者と長の一騎打ちを、固唾を呑んで見守っている。
勿論、魔物たちは己の長が負ける可能性は砂粒ほども考えてはいない。
何せ彼らの敬愛する城主は、魔物の中でも最強を誇る「竜」なのだ。
たかが人間の、20年も生きていないようなひよっこに負けるはずはない。
それは誰の目にも明らかで、勇者本人もそれを本能で理解していた。正攻法で勝ち目は万分の一もなく、命を捨てる覚悟すら固めていた。
すべての注意が両者に向けられていた。
唯一の例外は、床に倒れこみ苦痛に耐えているヘネスだけ。
ヘネスは、ひたすらに声を殺していた。
理性のすべてを動員して歯を食いしばっていなければ、今にも叫びだしてしまいそうだったのだ。
傷口からの苦痛ゆえではない。
確かに引きちぎられた腕の痛みは相当なものだ。治癒は既に始まっているものの、気を失いそうな激痛が襲いかかってくる。加えて今もなお床に染みていく鮮血が、ヘネスの力を奪っていた。
けれどそれ以上に、ヘネスの中には燃えるような怒りが揺れていた。
それは自身に対するものかもしれないし、この状況そのものへの怒りかもしれない。根底にある対象すら曖昧になりながらも、怒りの感情だけは次々と湧いてくる。あたかも、零れ落ちる命に成り代わるかのように。
破天竜はそう強い竜ではなかった。
幾つも枝分かれし、伸びた系統樹のほんの一端。魔物としては上位に入るものの、竜としては中堅だ。その力量は下級貴族と渡り合えるか否かという程度が一般的である。
けれども、その本性はまごう事なき竜だった。
竜の最大の強み。それは桁違いの生命力と、身体能力だ。
尽きない生への執着とそれに見合う身体能力を誇る種族。それが、竜。
突然、激しい爆発音がした。
続いて響く絶叫と、強烈な風。
「これは……」
振り返ったエルが表情を険しくする。熱風に翻る髪を掻き上げ、小さく舌打ちする。
衝撃で飛ばされた魔物たちが床に倒れ伏す中、その中心部に巨大な姿があった。
高い天井を持つ広間すら、狭く感じるほどの巨大な体躯。
窮屈そうに折り曲げた右腕は長く、五指には鋭い爪が並ぶ。左側に腕はなく、肩の部分が深く抉れて今にも血が滴りそうな赤い肉がのぞいていた。褐色の鱗に覆われた長い首をもたげ、漆黒の双眸で見下ろす。
その背にうっすらと見えるのは、折りたたまれた翼だろう。その巨躯を支え、飛行するだけの力を持つ、強靭な翼だ。
「破天竜……!」
誰ともなくその名を呼んだ。
幾重にもかけられた枷を振り千切って、竜が咆哮した。
それは、人間にとっては初めて目にする「伝説」であり、多くの魔物たちにとってもまた初めての「敵」の姿だった。
そこに飛び込んできたのは、スイだ。両者の間に漂う微妙な雰囲気に気付いていたものの、さすがに空気を読んでいる状況ではない。
スイの姿を認めて、スノウが慌てて場所を譲った。その表情にはいくらか安堵の気配が漂っている。
「たった今メーベルから連絡がありました。例の兵団が撤退を始めたようです」
スイの手のひらには白い『鳥』が浮かんでいる。鳥の形状をした伝令の魔法を使用するのはスイとその部下たちだけであり、どうやら彼の部下を経由しての伝達であるらしい。そもそも、結界内で戦闘を繰り広げているだろうメーベルでは、魔法の伝令は使用できないだろう。
「……意外と諦めが早かったな。増援は不要だったか……?」
エルが首を傾げる。ヴァスーラが「精鋭」を寄越したのだ。本気とみて、手を抜くわけにいかないと畳み掛けたのである。
結界が発動してからそう時間は経っていないのだが、先方の撤退の判断が鮮やか過ぎる。
いくら不測の事態とはいえ、もう少し粘りそうなものだというのがエルの考えだ。戦闘力は魔法に偏重していても、その技術は高く様々な武器の使い手がいると専らの噂だった。
それが魔法が使えないというだけで、こうも簡単に戦場を投げ出すとは思えない。
「深追いするなと伝えておけ。絶対に結界から出るなと」
エルとしては降りかかった火の粉を払っているだけである。下手に深追いをして結界の有効範囲から出てしまっては、相手の思う壺だ。
「撤退したならその間にあいつらの転移門を破壊させろ。どうせ今はただの模様だ。面倒な手順も手間も省ける」
それに、とエルが小さく言を継ぐ。それは傍に控えたスイでもかろうじて聞き取れるか否かの、独り言めいた言葉だ。
「ちょっかいをかけただけ、という可能性もあるな」
あの兄ならあり得るだろう、と笑う。
精鋭が来たことで、エルたちはどうしても過剰に身構えずにはおられなかったが、その兵力はヴァスーラにとってはごく一部でしかないのも事実だ。攻め落とすつもりだったのは間違いないだろう。だが、その反面、手古摺るようならあっさり手放せるほどの執着でもあったのだ。
未だ本人がその姿を見せていないのが証拠のようにも感じられた。
エルの命令にスイが再び手の中の鳥を飛翔させる。鳥はくるりとスイの周囲をひとまわりして、扉のほうへと飛んでいく。
その鳥が扉の向こうに消えたと同時に、アイシャが小走りに戻ってきた。
「いま部下が勇者を連れてきます」
スノウをちらりと見たアイシャが、エルに報告する。
スノウは再び壁際まで退いていた。最早自分には関係ないと判断したのか、布を深く被り窓の向こうを仰いでいる。
「その前に、エル様。俺にはちょっと状況がわかんないんですけど……あそこのアイツ、ヘネスですよね?」
「ああ、そうか」
エルは今気付いたというように緋色の髪を掻きあげる。
ヘネスがスノウに変化していた一連の動きを、地下に居たアイシャは知らない。アイシャにしてみれば、一仕事終えて戻ってきたらいつの間にか広間の床は悲惨な有様になり、ヘネスは囚われ、頭を隠すスノウの姿があった。何事かと疑問に思うのも無理はない。
エルは浮浪者の様相をしているスノウを身振りで示し、言う。
「ヘネスがこいつに変化して侵入してたみたいでな。変化を無理やり解いただけだ。後は見ての通り、魔法と枷で拘束してる」
侵入分の駄賃は少々貰ったが、とエルは床に広がる血溜りを一瞥する。
つられて視線を向けたアイシャは何かいいたそうな様子でエルを伺うが、エルのほうはアイシャを顧みることなくスイへ声をかけた。
「転移門の準備は」
「終了致しました。急ごしらえなので、移動距離にもよりますが5人程度が限界かと」
「十分だ」
満足げに頷いたところで、広間の扉が再び大きく開いた。
周囲の騒めきが潮がひくように収まっていく。多くの視線を集めて、現れたのは魔物の城にはそぐわない人物だ。
「来たか」
エルが口元に笑みを履く。
柔らかそうな亜麻色の髪をした、人間。青い目は油断なく周囲を睨めつけ、草臥れた旅装に包まれた体は緊張に強張っている。六代目勇者、クロス・エセル。
獣のようにぎらぎらと輝く目は、彼の精神状態が限界に近いことを示していた。四方をアイシャの部下に囲まれていれば、それも当然だろう。
「さて勇者、たいしたもてなしもできず早々に閉じ込めて申し訳ないな。その侘びとして呼んだんだが……一人か?」
仲間ひとりくらいは構わないと伝えたはず、と問いかけると、クロスはぎこちない動きで首を振る。
「おれ一人で十分だ」
何が、とは言わないクロスに、エルも笑みを浮かべたまま問いかけはしなかった。
「なるほど。全てを一人で背負うか……勇者の鑑だな。そうだろう、スノウ」
唐突に話題をふられたスノウは、壁際で面白いほど盛大に体を揺らした。
完全に傍観者のつもりでいたらしい。思わぬ流れ弾に、ぼろを被った頭をあわあわと揺らす。絶句してどもりながら、
「えと、うん、あの……ゆ、勇者っぽいね、すごく!」
と、非常に残念な回答をした。
これには魔物たちも唖然とした。このいでたちから「勇者」にふさわしい言葉が出てくるとは誰も思っていなかったが、それにしても予想の斜め上を行っている。一連の騒動を振り返り、魔物たちもスノウが勇者らしくないどころか人間としても若干おかしいと認識を改め始めていた。主に、ヘタレという意味で。
「……ぽい、じゃねぇだろ、勇者だ」
さすがのエルも、ため息と共にやや砕けた口調で突っ込んだ。
それは「長」として振舞ってる時には滅多に見せない、素に近い反応である。スイやアイシャだけならともかく、幹部を含め多くの目がある場での態度としては非常に珍しい。ここのところ「長」としての顔しか見せなかったエルだったからこそ、それは新鮮に映った。そして、緊張といくばくかの恐怖をもって対峙したクロスの目にも。
「わ、わかってるよ。いきなり振るから!」
焦ったじゃないか、と八つ当たり気味に先代勇者、もといスノウ・シュネーが喚く。
その姿をちらりと見遣り、エルは気を取り直すように髪を掻き上げた。
僅かに伏せられた目が再び上げられたとき、その真紅の目の中には切れそうなほどの冷気が漂っている。
纏う空気が一瞬で変化したことを感じ取り、クロスは無意識に息を詰めた。
「まあいい。わざわざ呼んだのは他でもない、取引をしようと思ってな」
「……取引、だと」
「ああ。どうだ勇者、交渉の席につく気はあるか? それとも、先般中止になった続きをするか?」
周囲を魔物で囲んだ状況で、そんな選択肢を提示する。
クロスの青い目に烈しい色が宿る。
手にした聖剣の柄を握りこむのを見咎めて、アイシャが身を乗り出した。
クロスの聖剣には抜刀できないよう幾重にも封印が掛けられているのだが、それでも万一ということはある。エルを守るために動いた周囲に、エルは視線を向けたものの特に制止もしない。
「ああ、安心しろ。続きがしたいというならそれの封印は解いてやる。さあ、どうする」
あまつさえそんなことを言い出した城主に、焦るのは周囲の魔物たちである。
「エル様、何を」
アイシャの声には困惑よりも咎める響きが強い。エルから指示された段階で薄々エルの意図に気付いていたようだ。
この「血気盛んな」勇者が、敵と交渉などするはずがないのだ。でなければ、あの場でスノウを裏切り者と罵ったりしないだろう。
「だれが、魔物と取引などと」
案の定、クロスは吐き捨てる。青い目には強い拒絶の意志が宿っている。
その答えにエルは笑う。
「決裂か。残念だな」
真紅の双眸に闘志を揺らめかせ、言葉だけは心外そうに呟く。
「では仕方ない、続きといこうか。全員下がれ」
エルの合図で、クロスの周りを固めていた兵士たちが離れる。同時に他の魔物たちも数歩ずつ退いた。
スイとアイシャも、互いに困ったような視線を見合わせたあと、渋々距離をとる。
急に開けた視界に、クロスは一層警戒を強め、身構える。
「そら、自由にしてやろう」
クロスが無意識に剣の柄に手をやったのを見たのだろう。エルがぱちんと指を鳴らした。途端にクロスが軽くふらついた。剣に掛けられていた封印が一度に外れた反動だ。
エルはどこからか己の大剣を取り出し、既に抜き身のそれを構える。
途端にその場の空気が張り詰めた。
自然と周囲の騒めきが収まり、重苦しい沈黙が落ちる。ぎりぎりと軋む音が聞こえそうなほどに、張り詰めた空間。
誰もが両者の動向に注目していた。
スイやアイシャは勿論、それを遠巻きに見守る幹部たち、そしてヘネスを囲んでいた兵士たちですら。
再び始まるであろう勇者と長の一騎打ちを、固唾を呑んで見守っている。
勿論、魔物たちは己の長が負ける可能性は砂粒ほども考えてはいない。
何せ彼らの敬愛する城主は、魔物の中でも最強を誇る「竜」なのだ。
たかが人間の、20年も生きていないようなひよっこに負けるはずはない。
それは誰の目にも明らかで、勇者本人もそれを本能で理解していた。正攻法で勝ち目は万分の一もなく、命を捨てる覚悟すら固めていた。
すべての注意が両者に向けられていた。
唯一の例外は、床に倒れこみ苦痛に耐えているヘネスだけ。
ヘネスは、ひたすらに声を殺していた。
理性のすべてを動員して歯を食いしばっていなければ、今にも叫びだしてしまいそうだったのだ。
傷口からの苦痛ゆえではない。
確かに引きちぎられた腕の痛みは相当なものだ。治癒は既に始まっているものの、気を失いそうな激痛が襲いかかってくる。加えて今もなお床に染みていく鮮血が、ヘネスの力を奪っていた。
けれどそれ以上に、ヘネスの中には燃えるような怒りが揺れていた。
それは自身に対するものかもしれないし、この状況そのものへの怒りかもしれない。根底にある対象すら曖昧になりながらも、怒りの感情だけは次々と湧いてくる。あたかも、零れ落ちる命に成り代わるかのように。
破天竜はそう強い竜ではなかった。
幾つも枝分かれし、伸びた系統樹のほんの一端。魔物としては上位に入るものの、竜としては中堅だ。その力量は下級貴族と渡り合えるか否かという程度が一般的である。
けれども、その本性はまごう事なき竜だった。
竜の最大の強み。それは桁違いの生命力と、身体能力だ。
尽きない生への執着とそれに見合う身体能力を誇る種族。それが、竜。
突然、激しい爆発音がした。
続いて響く絶叫と、強烈な風。
「これは……」
振り返ったエルが表情を険しくする。熱風に翻る髪を掻き上げ、小さく舌打ちする。
衝撃で飛ばされた魔物たちが床に倒れ伏す中、その中心部に巨大な姿があった。
高い天井を持つ広間すら、狭く感じるほどの巨大な体躯。
窮屈そうに折り曲げた右腕は長く、五指には鋭い爪が並ぶ。左側に腕はなく、肩の部分が深く抉れて今にも血が滴りそうな赤い肉がのぞいていた。褐色の鱗に覆われた長い首をもたげ、漆黒の双眸で見下ろす。
その背にうっすらと見えるのは、折りたたまれた翼だろう。その巨躯を支え、飛行するだけの力を持つ、強靭な翼だ。
「破天竜……!」
誰ともなくその名を呼んだ。
幾重にもかけられた枷を振り千切って、竜が咆哮した。
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