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不眠症と夢の話
羊が二匹
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セーラームーンにもケーキ屋さんにもお花屋さんにも、なりたくなんかなかった。でも何にもなりたくないのが恥ずかしいから、私は夢をそんな可愛い箱でラッピングした。まるで中身が入っている顔をして、ほんとはどうだってよかったくせに。
「すみません。貸し出しお願いします」
私は掛けられた声にはっとして、急いでエプロンの紐を結んだ。
貸し出しカウンターで本を抱えた女子学生が微笑んでいる。頻繁に本を借りに来る彼女は、よほど本が好きなのかいつも機嫌良くここへやって来る。
私は大学で図書館職員の仕事をしていた。
差し出された三冊の本を確認して、バーコードを読み取る。貸し出し可能なのかを調べて返却期限を告げて本を渡し、お仕事完了。
分厚い本を受け取って、女子学生は照れくさそうに俯いた。
「あの、司書さんはどうやってここで働くようになったんですか?」
私は瞬きして、答えに詰まった。
「私、司書じゃないんです。事務員として大学に就職したらここに配属されただけで」
「え」
彼女の顔にありありと浮かんだのは「がっかり」だった。そんな顔をされても、事実だからどうしようもない。
お礼の言葉ともやもやした気持ちを置き去りにして彼女は図書館を後にした。
私は箱に詰めてある返却済みの大量の本を仕分けすると、書庫の本だけを抱えて図書館の奥へ向かった。一生掛かっても読み切れないような本の壁を見回し、ラベルを見ながら本を元に戻していく。一日の仕事の中でこの時間が一番好きだ。
大学の事務職員になったのは、それが一番楽だったから。コネで就職を決めて働き出して、もう一年半が経つ。大きな問題なく続けられているのだから、向いていなかった訳ではないのだと思いたい。
専門書を棚に収めていく。広い図書館の中でも、書庫の奥は最も変わった本が並んでいる。その背表紙のタイトルを眺めるのが私は好きだった。でも、その専門的な知識を活かした職業に就きたいとは思わない。私には昔から夢がなかった。
あの学生は司書になりたいのだろうか。図書館司書の一般採用枠は少ないらしいから、難しい夢かもしれないな。私のように大学の職員として図書館に配属されても、事務員は部署をローテーションしているからずっと司書のような事が出来るわけではない。
それでも、やりたがる人が沢山居るはずのこの仕事をやっているのは、なんだか申し訳がないような気がした。
「茅原さん! ちょっと!」
急に名前を呼ばれ、私はびくりと跳び上がった。抱えていた本を落としそうになって必死にお腹で押さえつける。
「は、はい!」
焦りながら振り返るとそこにいたのは上司の鵜野うのさんだった。彼女は新卒一年目の頃に私の教育係をしてくれていた人であり、キャリアも長いベテランの女性職員だ。長い黒髪を夜会巻きにまとめ上げた、上品だけどきつい風貌で、職員達の間では頼りにされている一方で恐れられてもいる。
コネ就職の職員が大半を占める中、鵜野さんはきちんと面接と試験を受けて入ってきたのだという。どちらの人の方が真面目かは一概に言えないが、彼女からすればぼんやりと就職した私のような人は決して印象はよくないだろう。
「ぼーっとしてないで、それが終わったら学生課の手伝いに回ってちょうだい」
「わ、えと、はい」
「返事はしゃきっと。何度言わせるの」
鵜野さんは大きな歩幅で歩いて行ってしまう。その背中に私は「はい」と投げかけてから息を吐いた。
今の時期は数週間後に控えた学園祭の準備で学内全体がばたばたしていた。図書館職員も読書の秋だからとなにかとキャンペーンをしており少しだけ忙しいが、手が空けば他部署の仕事を手伝うのが暗黙の了解だった。
私が学生だった時は、学園祭なんていつの間にか開催されていつの間にか終わっていたものだが、こうして裏方を知ってみると沢山の学生と職員が忙しく動いていて驚愕させられる。
大学時代をモラトリアムと言った人がいるらしい。私はもう終えたはずなのに、私なんかより学生達の方がとっくに前に進んでる様に思えた。
私はふと息苦しくなって、深呼吸をしてみたら空気が水みたいで、不思議と溺れるような感覚がした。
餌をあげると桃子は小さな鼻をひくひくさせて、嬉しそうに頬張った。
モルモットの桃子はぶち模様をした女の子だ。就職し独り暮らしを始めてしばらくした頃に飼いだした。
私がペットショップから連れて帰った時にはもう彼女はずいぶんと成長していて、私との暮らしに慣れてくれるまではかなり時間が掛かった。今では懐いてくれているけれど、飼い始めた当初の桃子は酷く怯えていて人間を嫌っていた。
私は餌入れに頭を突っ込んでいる桃子の額を指先で撫でた。彼女は頭を振って、私の手を払う。
「ごめんごめん」
ペットを飼うのは心配だった。初めての独り暮らしなうえ、仕事も始まったばかりで精神的にも余裕がなかった。精神的に余裕が無いのは、今もかもしれないが。
なのにあの日、ゲージの隅でたった一匹で丸くなっている桃子の姿を見て、次の日には飼う準備を済ませてしまった。今になってみれば、あの時彼女を飼う決断をして本当によかったと思う。
私は学生時代、生物学を専攻していた。中でも最も興味を持っていたのはモルモットも含む小動物だ。しかしその知識をいかせる仕事に就きたいとは、思わなかった。
「じゃあ、おやすみ桃子」
立ち上がって私は台所に向かった。コップに水を入れ、薬の袋を二つ取り出す。
私が住んでいるこのマンションは、駅から徒歩十分ほどの距離にある。私を軽度の睡眠障害だと診断した時仁くんが勤務している大学病院から程近く、それがこのマンションを選んだ理由の一つでもあった。私の両親は時仁くんに対して絶大な信頼を寄せており、職場から二駅離れたこの場所を強く勧めてきのだ。大学の最寄り駅に比べてこっちの方が実家へ帰りやすいというのもあるだろうけれど。
私は袋を破って、半分に割られた小さな錠剤を手の平に載せた。こんな小さな粒の中に私を眠らせる力が圧縮されている。お腹いっぱいに飲めば、多分死んじゃう。命って、本当に脆いな。
嚥下して、しばらく経つと頭がぼんやりし始める。電気を消して、寝室へ。目覚まし時計のスイッチを入れてからベッドの上へ転がった。
昨日は結局目覚まし時計をセットせずに寝てしまい、今朝は大変な目に遭った。意識が無くなる前にきちんとセットしておかなくては。
瞼を閉じると、誰かがすぐそこで笑う気配がした。
半錠ずつ飲むように、という時仁くんの言葉を今日も迷わず無視したのは、また彼に会いたかったからなんだろうと、思う。
「やあ、こんばんは。きみのために羊を数えにきたよ」
確かに男の子のものなのに高いその声は、やっぱり甘ったるくて泣きたくなった。
「すみません。貸し出しお願いします」
私は掛けられた声にはっとして、急いでエプロンの紐を結んだ。
貸し出しカウンターで本を抱えた女子学生が微笑んでいる。頻繁に本を借りに来る彼女は、よほど本が好きなのかいつも機嫌良くここへやって来る。
私は大学で図書館職員の仕事をしていた。
差し出された三冊の本を確認して、バーコードを読み取る。貸し出し可能なのかを調べて返却期限を告げて本を渡し、お仕事完了。
分厚い本を受け取って、女子学生は照れくさそうに俯いた。
「あの、司書さんはどうやってここで働くようになったんですか?」
私は瞬きして、答えに詰まった。
「私、司書じゃないんです。事務員として大学に就職したらここに配属されただけで」
「え」
彼女の顔にありありと浮かんだのは「がっかり」だった。そんな顔をされても、事実だからどうしようもない。
お礼の言葉ともやもやした気持ちを置き去りにして彼女は図書館を後にした。
私は箱に詰めてある返却済みの大量の本を仕分けすると、書庫の本だけを抱えて図書館の奥へ向かった。一生掛かっても読み切れないような本の壁を見回し、ラベルを見ながら本を元に戻していく。一日の仕事の中でこの時間が一番好きだ。
大学の事務職員になったのは、それが一番楽だったから。コネで就職を決めて働き出して、もう一年半が経つ。大きな問題なく続けられているのだから、向いていなかった訳ではないのだと思いたい。
専門書を棚に収めていく。広い図書館の中でも、書庫の奥は最も変わった本が並んでいる。その背表紙のタイトルを眺めるのが私は好きだった。でも、その専門的な知識を活かした職業に就きたいとは思わない。私には昔から夢がなかった。
あの学生は司書になりたいのだろうか。図書館司書の一般採用枠は少ないらしいから、難しい夢かもしれないな。私のように大学の職員として図書館に配属されても、事務員は部署をローテーションしているからずっと司書のような事が出来るわけではない。
それでも、やりたがる人が沢山居るはずのこの仕事をやっているのは、なんだか申し訳がないような気がした。
「茅原さん! ちょっと!」
急に名前を呼ばれ、私はびくりと跳び上がった。抱えていた本を落としそうになって必死にお腹で押さえつける。
「は、はい!」
焦りながら振り返るとそこにいたのは上司の鵜野うのさんだった。彼女は新卒一年目の頃に私の教育係をしてくれていた人であり、キャリアも長いベテランの女性職員だ。長い黒髪を夜会巻きにまとめ上げた、上品だけどきつい風貌で、職員達の間では頼りにされている一方で恐れられてもいる。
コネ就職の職員が大半を占める中、鵜野さんはきちんと面接と試験を受けて入ってきたのだという。どちらの人の方が真面目かは一概に言えないが、彼女からすればぼんやりと就職した私のような人は決して印象はよくないだろう。
「ぼーっとしてないで、それが終わったら学生課の手伝いに回ってちょうだい」
「わ、えと、はい」
「返事はしゃきっと。何度言わせるの」
鵜野さんは大きな歩幅で歩いて行ってしまう。その背中に私は「はい」と投げかけてから息を吐いた。
今の時期は数週間後に控えた学園祭の準備で学内全体がばたばたしていた。図書館職員も読書の秋だからとなにかとキャンペーンをしており少しだけ忙しいが、手が空けば他部署の仕事を手伝うのが暗黙の了解だった。
私が学生だった時は、学園祭なんていつの間にか開催されていつの間にか終わっていたものだが、こうして裏方を知ってみると沢山の学生と職員が忙しく動いていて驚愕させられる。
大学時代をモラトリアムと言った人がいるらしい。私はもう終えたはずなのに、私なんかより学生達の方がとっくに前に進んでる様に思えた。
私はふと息苦しくなって、深呼吸をしてみたら空気が水みたいで、不思議と溺れるような感覚がした。
餌をあげると桃子は小さな鼻をひくひくさせて、嬉しそうに頬張った。
モルモットの桃子はぶち模様をした女の子だ。就職し独り暮らしを始めてしばらくした頃に飼いだした。
私がペットショップから連れて帰った時にはもう彼女はずいぶんと成長していて、私との暮らしに慣れてくれるまではかなり時間が掛かった。今では懐いてくれているけれど、飼い始めた当初の桃子は酷く怯えていて人間を嫌っていた。
私は餌入れに頭を突っ込んでいる桃子の額を指先で撫でた。彼女は頭を振って、私の手を払う。
「ごめんごめん」
ペットを飼うのは心配だった。初めての独り暮らしなうえ、仕事も始まったばかりで精神的にも余裕がなかった。精神的に余裕が無いのは、今もかもしれないが。
なのにあの日、ゲージの隅でたった一匹で丸くなっている桃子の姿を見て、次の日には飼う準備を済ませてしまった。今になってみれば、あの時彼女を飼う決断をして本当によかったと思う。
私は学生時代、生物学を専攻していた。中でも最も興味を持っていたのはモルモットも含む小動物だ。しかしその知識をいかせる仕事に就きたいとは、思わなかった。
「じゃあ、おやすみ桃子」
立ち上がって私は台所に向かった。コップに水を入れ、薬の袋を二つ取り出す。
私が住んでいるこのマンションは、駅から徒歩十分ほどの距離にある。私を軽度の睡眠障害だと診断した時仁くんが勤務している大学病院から程近く、それがこのマンションを選んだ理由の一つでもあった。私の両親は時仁くんに対して絶大な信頼を寄せており、職場から二駅離れたこの場所を強く勧めてきのだ。大学の最寄り駅に比べてこっちの方が実家へ帰りやすいというのもあるだろうけれど。
私は袋を破って、半分に割られた小さな錠剤を手の平に載せた。こんな小さな粒の中に私を眠らせる力が圧縮されている。お腹いっぱいに飲めば、多分死んじゃう。命って、本当に脆いな。
嚥下して、しばらく経つと頭がぼんやりし始める。電気を消して、寝室へ。目覚まし時計のスイッチを入れてからベッドの上へ転がった。
昨日は結局目覚まし時計をセットせずに寝てしまい、今朝は大変な目に遭った。意識が無くなる前にきちんとセットしておかなくては。
瞼を閉じると、誰かがすぐそこで笑う気配がした。
半錠ずつ飲むように、という時仁くんの言葉を今日も迷わず無視したのは、また彼に会いたかったからなんだろうと、思う。
「やあ、こんばんは。きみのために羊を数えにきたよ」
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