猫舌の私は夢をみない

雨咲まどか

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不眠症と夢の話

羊が四匹

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 今年は酷く暑い夏だったから、お盆休みくらいのんびりと冷房代も気にせず過ごしたいと思い立った時だった。丁度母から「帰ってきなさいよ」と電話が来て、私はすぐに桃子を連れてマンションを後にした。ゲージを入れた大きなボストンバッグを一つ抱えて、タクシーと電車を乗り継いで実家まで。

 滞在していた四日間の内、最初の三日間は何も変わりないいつもの光景が続いていた。父も母もいつもと同じ顔をして、軽口を言い合って笑っていた。

 最終日の昼食はカルボナーラだった。母の得意料理であり、私と父の好物でもあった。私は昼過ぎには帰るつもりで荷物も纏め終わっていて、またしばらく母の手料理を食べられない寂しさを、スパゲッティと一緒に飲み込んでいた。

 口を開いたのは母だった。

 窓の外で大きな雲が太陽を覆い隠して、「大事な話がある」という前置きが、食卓のテーブルを一瞬でほの暗くたみたいだった。

「律、私達離婚したの」

「――は?」

 母の言葉は脳を掠めて通り過ぎていった。ベーコンが刺さったままのフォークが、皿の縁を叩いて乾いた音がした。

「相談もせずにごめんね。二人で話し合って決めたことなの」

 意味のわからないことを言う母を見ていられずに父の方を向くと、彼は申し訳なさそうに頭を垂れていた。

 母は何度もリハーサルをこなした女優のように、静かで凛とした声色を紡ぎ続ける。

「これからは、私達別々の場所に住むわ。私はしばらくここに居るけど、父さんは夏の内に引っ越すから、また色々落ち着いたら連絡するね」

 私はじっくりと見慣れた筈のリビングを見渡した。私が描いた落書きをカバーで隠したソファ。一向に買い換えてくれなくて文句ばかり言っていた型の古いテレビ。父が出張先の海外で買ってきた趣味の悪いぬいぐるみ。母がしょっちゅう食材を買い込みすぎて溢れさせては父に呆れられていた冷蔵庫。三食きちんと食べる事をとにかく大切にしていた両親が拘って買ってきた食卓のテーブルと椅子。

 生まれた時から家族三人で住んでいた我が家は、これから先どうなってしまうんだろうか。売られて、違う人が住むのだろうか。自分自身への同情はちっとも浮かんでこないのに、家に対する同情はすぐ湧いてくるから面白いと思った。

「ごめんな、律」

 父の口から謝罪が出て来た時、ようやく私は自分が「可哀想」なのだと気が付いた。

 とはいっても、気付いたからと言って私にはもうどうしようもなかった。

 上手だった。両親の離婚は、驚くほど上手だった。

 なんの心配もさせない自然な夫婦関係を演じ抜き、一人娘が成人後就職し独り暮らしを始めて落ち着き出した二年目の、長期休暇の最終日。私が苦手な冬や、誕生日がある春を避けた夏の日。こんなにも娘に配慮した離婚が果たしてあっただろうか。

 そんな見事な離婚を前にして、大人になった私が彼らに対して起こす行動の選択肢なんて、ほとんど残されていなかった。





 私が語り終える頃には、時仁くんはお医者さんとしての表情を取り戻していた。それが少し残念で、悲しくもあった。

「信じられないよ、あのおじさんとおばさんが、離婚だなんて」

「私も、まだいまいち実感がない」

「辛かっただろ」

 黒い瞳に優しさを滲ませる時仁くんに、私は悩んでしまった。どうだろう。辛かった?

「ああ、そうかも」

 両親の離婚は完璧だった。けれど一つだけ、彼らが失敗したとするならば、さよならを食卓に持ち込んだことだ。

 だってあの日から、

「カルボナーラ、胸焼けするの」
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