猫舌の私は夢をみない

雨咲まどか

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不眠症と夢の話

羊が六匹

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 あの日の帰りは、父が車で送ってくれるのだと約束していた。だから離婚話の後、私は桃子を抱えて父の車に乗り込んだ。まるで死角に入り込むみたいに、運転席の後ろで、ぴったりドアにくっついて。

 父の姿は白髪が混じった後頭部のてっぺん以外見えなくて、私はルームミラーを見ないようにずっと窓の外を眺めていた。

 私の横では、桃子がガサガサと音を立てていた。初めて車に乗った時は緊張して固まっていたのに、今では慣れたものだ。

 信号が赤になって、車が停止した。混んでいる車道に、蜃気楼が出来ていた。

「ねえ、どうして離婚するの?」

「……父さんが悪いんだ」

 噛みしめるみたいな声色が、情けないと思った。この人が自身を「父さん」と言うことに、初めて違和感を覚えた。

「浮気?」

 返事が無いままに車は動き出した。否定しないと言うことが、答えだった。

「どうして浮気したの?」

 また返事は無かった。

「いつから浮気してたの?」

「――八年くらい前からだ」

 長い逡巡の後に、父は漸く口を開いた。私はそれでも、外を眺め続けた。

「すっごい前からじゃない」

「申し訳ない」

 車が角を曲がると、窓に太陽が照りつけてきた。熱くて眩しかったけれど、私は頑として動かずにいた。

 八年前。私が高校生の頃だ。そんなそぶり、見せなかったくせに。ずっと父親だったくせに。何を今さら、申し訳ないだなんて言っているのか。そもそも、あんたもう四十八じゃないか。何をいい歳して、八年も恋愛して、今から再婚するつもり?

「相手は?」

「うちの事務員」

 父は弁護士をしていた。三十代後半になってから独立し、小さな事務所を経営している。

「若い子?」

「……俺よりは大分」

「再婚するの?」

「しない」

「どうして」

「出来ないんだ」

 じりじりと肌を焼く真夏の太陽と、ここだけ世界から切り離されたみたいな車内のせいで、どうしようもなく長い時間、沈黙があったみたいに思えた。

 今になってみれば、多分私はこの時、父が怖くて逃げ出したかったのだと思う。恐怖は人の時間感覚を狂わせる。

「男だから」

 私はその言葉の意味を理解できずに、マンションの下へ着くまで押し黙ってただ時が経つのを待っていた。

 短い礼を述べて、桃子の入ったケースを持ち上げてすぐにエレベーターに乗り込む。狭い密室で、私はやっと、父の言葉を捕まえた。





「いやあ、父さんがバイだったとは、二十四年も気付かなかった、びっくり」

「……妙に落ち着いてるね」

 話をしていた私のオムライスよりもずいぶん残っているグラタンから手を放して、時仁くんは額に手を当てた。

 私はうーんと唸ってから、肺から絞り出すみたいに息を吐いた。

「なんだろう。意味はちょっとずれちゃうけど、ホメオスタシスが機能してる感じかなあ」

「安定した状態を維持するために環境の変化に適応する事、だっけ。……そうやって知性化するのもいいけど、俺にくらい、もっと話して欲しいな。君がほんとに思ってる事をさ」

 時仁くんはどこか寂しそうに目を伏せた。どうにも私は、彼の優しさや思いやりを、上手く受け止められない。悲しませたい訳じゃ無いのにな。

 細い目をもっと細くして、時仁くんは少し笑った。

「ご両親の離婚の事もさ、話して欲しかったな。何も出来ないかもしれないけど、辛い時くらい頼って欲しいんだ」

「時仁くんには、もう十分すぎるほど頼ってるよ」

 本当は病院なんか、行きたくなかった。だけど時仁くんが診てくれるなら、悪くないかと思ったのだ。私の事を憎んだって可笑しくない筈の彼がここまで優しくしてくれるだけで、私は罪悪感でいっぱいになるのに。

「りっちゃん。感情の言語化っていうのは、臨床心理学の上でも重要とされてるんだ。言葉にするプロセスを経ることで、感情を明確化させられる。そうやって自分の感情と向き合う事で、心身の安定に繋がる」

 難しい言葉に自分を押しつけて逃げる私がちゃんと聞くように、時仁くんは授業でもしてるみたいに固い声で言った。こうなると、先に同じ方法で話をずらそうとした私は納得せざるを得なくなる。何だかんだと言って、私は彼に口で勝てた試しがない。

 私は誤魔化すようにチキンライスを口内に詰め込んだ。

 控えめな着信音とバイブレーションの音が鳴り、時仁くんが「失礼」と立ち上がる。私はひらひら手を振って、携帯電話を手に席を離れる彼を見送った。

 ふと、チキンライスを飲み込んで、私は自分の携帯電話を取り出すと指先で検索画面を開いた。『知性化』と打ち込むとすぐに検索結果が表示される。

「うげ」

――知的な言葉を使用したり一見論理的な思考を用い、自身の感情の直視から逃避すること。

 私はすぐに携帯電話を鞄にしまい、平常心を装ってオムライスに向き直った。しばらくすると時仁くんが謝罪の言葉と共に戻ってくる。私はその視線から思わず目を逸らした。心理学用語らしい『知性化』は、私に多大なダメージを与えていた。

 この現代社会においては、人の言動でさえいくらでも研究され尽くしているようだ。見事な分析力。そうだ彼は医者だった。こうも綺麗に自分の性質を言い当てられると、思いもよらぬ恥ずかしさがある。悲しくなるほどお見通しだ。大量の水を飲み込んだみたいに、私は息苦しくて胸を押さえる。

「流石としか言いようがないです」

 うなだれる私に、時仁くんは不思議そうに首を傾げた。

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