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一章 「普通じゃない」ストーカー事件
河童所長
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河童。――日本の妖怪。ガータロ、水虎など呼称は様々。主に川や沼などに生息する。緑色の体躯に亀のような甲羅を背負った風貌が一般的にはよく知られている。嘴や頭部の皿、手足の水かきなども特徴的であり、皿が乾いたり割れたりすると衰弱し、時には死に至るといわれている。キュウリが好物。
絵里はオカルト研究会で得たばかりの知識を脳内で再生させた。服を着ているために甲羅は見えないが、妖怪オタクである友人が描いていた落書きの河童によく似ている。
「いかにも河童だが、人間用の名前がある。化野と呼べ」
見た目にそぐわない重厚な低音の声で、河童と思われる生き物はそう言った。
「はあ」
状況が理解できないままに生返事をすると、河童――もとい化野の左右の女が揃って絵里を睨めつけた。空気が重くなる感覚と共に、腹の奥がすっと冷たくなる。ただ睨まれただけだというのに、絵里はこれまでに経験したことの無い恐怖を感じた。
竦み上がる絵里を見て、化野は小さく嘆息した。
「お前たち、この娘は客人だ。丁寧に扱え。……そいつも返しとけ」
化野の一言で、絵里の周りの空気がふっと軽くなった。
左側の髪の長い女は顔を歪め、懐に手を入れると財布を取り出した。そのピンク色の財布に、絵里は見覚えがあった。
反射的に鞄の中を探る。
「……ない」
確かに入れていたはずの財布が入っていない。
唖然とする絵里の胸元をめがけ、女は財布を投げつけた。受け取ってすぐ、絵里はまた悲鳴を上げる。袖口から覗いた彼女の腕には、いくつもの目玉が付いていた。
化野は立てた膝に頬杖を付いた。
「ヒイヒイ五月蠅いぞ小娘。お前たち、もう下がれ」
女達は不服そうにして見せたが、しばらくすると諦めて立ち上がり部屋から出て行った。
「あ、僕もですか?」
室内に静寂が戻ると、ずっと口を閉ざしていた少年が焦ったように言った。
「いや、お前は私を手伝え」
「じゃあ僕、お茶でもいれますね!」
化野の返事に気をよくしたらしく、少年は目を輝かせ立ち上がった。と思うと、絵里に向かって申し訳なさそうに手を合わせる。
「さっきはごめんなさい。百々目鬼さんは盗み癖があって。――少し待ってて下さいね」
「は、はあ。…………ってちょっとまっ……て」
絵里の制止もむなしく、少年は爽やかな笑顔と得体の知れない生き物を残してどこかへ行ってしまった。
帰る。帰ろう。帰ります。じゃあ、さよなら。
化野と二人きり(化野を一人と数えるべきなのかは疑問が残る)にされた絵里はここから立ち去るシュミレーションを脳内で繰り返した。少年がいないのは、反対にチャンスかもしれない。彼が居るとなにかと言いくるめられてしまう可能性がある。
絵里は胸に手を当て、呼吸を整えた。
簡単なことだ、「すみません、帰ります」と言って部屋を出て、襖を閉めると同時に玄関まで全速力で走る。それだけでいい。
「あの――」
口を開いた瞬間だった。ワンピースの袖をぐい、と後ろに引かれ、絵里は息を飲んだ。
振り返るが誰も居らず、背筋が凍り付くた。
やはりここはおかしい。今すぐ逃げなくては。
化野の方に向き直ると、テーブルの上に小人が立っていた。
「ひぃい!」
手のひら程の大きさのそれは、つり上がった糸のような目でじっと絵里を見つめている。
「も、もう無理、無理、無理無理無理!」
鞄を掴み、駆け出そうとした絵里の目の前で襖が開いた。
「あれ、どうかしました?」
丸い盆を手に入ってくる少年に、絵里は青い顔で叫んだ。
「な、ななな、なんかいる!」
少年は大きな目をぱちくりさせて、あっと眉根を下げた。
「びっくりさせてごめんなさい。あの子、僕の友達のこーくんです。袖ひき小僧っていう妖怪で、人の袖をひくのが趣味みたいな子で」
「しゅ、み……」
少年は茶器ののった盆をテーブルに置くと、屈んで小人に顔を近づけた。
「こら、だめでしょう。お客さんを驚かせたら。ちゃんと謝って」
「……ごめんなさい」
小人は小さな頭を下げると、すぐ少年の影に隠れてしまった。絵里は全身の力が抜けてしまっていた。
少年は熱いお茶を二つ用意すると、屈託の無い笑顔で片方を絵里が座っていた座布団の前に置いた。
「お茶、どうぞ」
不思議な魔力さえ感じる少年の眩しい笑顔の効果は絶大で、やっぱり彼の居ないうちに逃げるべきであったと絵里は後悔した。
絵里はオカルト研究会で得たばかりの知識を脳内で再生させた。服を着ているために甲羅は見えないが、妖怪オタクである友人が描いていた落書きの河童によく似ている。
「いかにも河童だが、人間用の名前がある。化野と呼べ」
見た目にそぐわない重厚な低音の声で、河童と思われる生き物はそう言った。
「はあ」
状況が理解できないままに生返事をすると、河童――もとい化野の左右の女が揃って絵里を睨めつけた。空気が重くなる感覚と共に、腹の奥がすっと冷たくなる。ただ睨まれただけだというのに、絵里はこれまでに経験したことの無い恐怖を感じた。
竦み上がる絵里を見て、化野は小さく嘆息した。
「お前たち、この娘は客人だ。丁寧に扱え。……そいつも返しとけ」
化野の一言で、絵里の周りの空気がふっと軽くなった。
左側の髪の長い女は顔を歪め、懐に手を入れると財布を取り出した。そのピンク色の財布に、絵里は見覚えがあった。
反射的に鞄の中を探る。
「……ない」
確かに入れていたはずの財布が入っていない。
唖然とする絵里の胸元をめがけ、女は財布を投げつけた。受け取ってすぐ、絵里はまた悲鳴を上げる。袖口から覗いた彼女の腕には、いくつもの目玉が付いていた。
化野は立てた膝に頬杖を付いた。
「ヒイヒイ五月蠅いぞ小娘。お前たち、もう下がれ」
女達は不服そうにして見せたが、しばらくすると諦めて立ち上がり部屋から出て行った。
「あ、僕もですか?」
室内に静寂が戻ると、ずっと口を閉ざしていた少年が焦ったように言った。
「いや、お前は私を手伝え」
「じゃあ僕、お茶でもいれますね!」
化野の返事に気をよくしたらしく、少年は目を輝かせ立ち上がった。と思うと、絵里に向かって申し訳なさそうに手を合わせる。
「さっきはごめんなさい。百々目鬼さんは盗み癖があって。――少し待ってて下さいね」
「は、はあ。…………ってちょっとまっ……て」
絵里の制止もむなしく、少年は爽やかな笑顔と得体の知れない生き物を残してどこかへ行ってしまった。
帰る。帰ろう。帰ります。じゃあ、さよなら。
化野と二人きり(化野を一人と数えるべきなのかは疑問が残る)にされた絵里はここから立ち去るシュミレーションを脳内で繰り返した。少年がいないのは、反対にチャンスかもしれない。彼が居るとなにかと言いくるめられてしまう可能性がある。
絵里は胸に手を当て、呼吸を整えた。
簡単なことだ、「すみません、帰ります」と言って部屋を出て、襖を閉めると同時に玄関まで全速力で走る。それだけでいい。
「あの――」
口を開いた瞬間だった。ワンピースの袖をぐい、と後ろに引かれ、絵里は息を飲んだ。
振り返るが誰も居らず、背筋が凍り付くた。
やはりここはおかしい。今すぐ逃げなくては。
化野の方に向き直ると、テーブルの上に小人が立っていた。
「ひぃい!」
手のひら程の大きさのそれは、つり上がった糸のような目でじっと絵里を見つめている。
「も、もう無理、無理、無理無理無理!」
鞄を掴み、駆け出そうとした絵里の目の前で襖が開いた。
「あれ、どうかしました?」
丸い盆を手に入ってくる少年に、絵里は青い顔で叫んだ。
「な、ななな、なんかいる!」
少年は大きな目をぱちくりさせて、あっと眉根を下げた。
「びっくりさせてごめんなさい。あの子、僕の友達のこーくんです。袖ひき小僧っていう妖怪で、人の袖をひくのが趣味みたいな子で」
「しゅ、み……」
少年は茶器ののった盆をテーブルに置くと、屈んで小人に顔を近づけた。
「こら、だめでしょう。お客さんを驚かせたら。ちゃんと謝って」
「……ごめんなさい」
小人は小さな頭を下げると、すぐ少年の影に隠れてしまった。絵里は全身の力が抜けてしまっていた。
少年は熱いお茶を二つ用意すると、屈託の無い笑顔で片方を絵里が座っていた座布団の前に置いた。
「お茶、どうぞ」
不思議な魔力さえ感じる少年の眩しい笑顔の効果は絶大で、やっぱり彼の居ないうちに逃げるべきであったと絵里は後悔した。
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