健全なぼくらの不健康な日常

雨咲まどか

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ネコが膝からおりない

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 ネコが膝からおりない。最初に一回にゃーと鳴いてからというもの、うんともすんともいわない。

 手袋を付けたままの手を軽く握ってベンチに放り出し、ぼくはため息を吐いた。白いもわもわが顔の前に広がる。
 バスが来た。二人降りて、三人乗った。さて、バスには何人増えたでしょう。そんな問題を解いたのは何年生の時だったか。四年生になった今となっては、なんともカンタンな計算だ。
 運転手が中からぼくに声を掛けた。

「ボク、乗らないの?」

 だまって首を横に振った。運転手は「もう行くからね」と言ってバスのドアを閉めた。
 行ってしまったバスを見えなくなるまで眺めてから、視線を下に。

 ネコが膝からおりない。
 白に黒いぶちのネコは、ぼくの太股の上で丸くなって目を閉じたまま動かない。
 ネコは何もしない。ぼくも何もしない。だから時間だけが過ぎていく。
 太ってないけど大きいネコだ。大人のネコだろう。人間でもネコでも、大人はみんな身勝手なのだ。

「おばあちゃんの家で良い子にしててね」

 お母さんお得意のセリフは、どんな日だっておんなじ口調で流れ出る。前まではこれにオプションで「一人で行ける?」が付いていた。「一人で行ける?」は「一人で行けるよね?」に変わり、それからなくなった。
 おばあちゃんの家は嫌いじゃない。優しいし暖かいし、ごはんも美味しい。今日だってきっと、豪華なごはんが用意されるだろう。ケーキもあるだろうし、プレゼントもくれるだろう。

 ぼくはマフラーに顔を埋めた。
 おばあちゃんの家へ行けるバスは、二十分ごとに来る。少なくとも後二十分はここで待ってなきゃいけなくなった。今日はとっても寒いから、風邪でも引きそうだ。

 ネコが膝からおりなくなって、もう十五分はたつ。大人なだけになかなか重いから、足がしんどくなってきた。
 二時十分のバスに乗り遅れてベンチに座り、五分後にネコがやってきた。ネコはすぐに膝に飛び乗って、そのままぬいぐるみみたいになった。
 ネコは首輪をしてない。野良ネコなのかもしれない。えらく自由なネコだ。

「あ」

 いきなり横から声がして、ぼくは少しびくっとした。ぼくがびくっとすると、ネコも少しびくっとした。
 ひょっこり顔を出したのは、知らない男の人だった。三十歳くらいに見える。真っ黒な髪は、変なところが跳ねていた。コートのポケットに片手を突っ込み、もう片方でスーパーの袋を持っている。
 垂れた目を細くして、男の人は笑った。

「つーくん、こんなところに居るなんて珍しいね」

 ぼくは思わず目を丸くした。知らない男の人は、知らない男の人の癖してぼくの名前を知っている。知っている男の人なのだろうか。
 でもおかしい、ぼくを『つーくん』と呼ぶのはお母さんとおばあちゃんだけだ。
 口を閉ざしたままのぼくを気にせず、男の人は膝の上のネコを撫でた。ネコはごろごろ言う。
 それから、男の人はぼくの目を見て訊いた。

「君、つーくんの友達なの?」

「つーくん……」

「ああ、このネコの事だよー」

 ぼくはネコに目を移した。こいつもつーくんっていうのか。変な偶然だ。

「おじさん、飼い主?」

 背が高い男の人を見上げて訊ねてみると、首を捻られた。

「どうだろ? 飼い主なのかな?」

 訊かれても知らない。
 そもそもぼくは、『見知らぬ人と関わってはいけません』と習っているのだ。ぼくは言いつけを守る良い子だ、という自負がある。
 男の人はネコに顔を寄せた。

「つーくん、迷惑かけちゃ駄目だよ。一緒に帰ろうか」

 ネコはぷいと顔を背けた。

「ほら、この子は行くところがあるんだよ。たぶん」

 ネコは長いしっぽで男の人の手を払った。
 ちょっとの沈黙。ネコはやっぱり膝からおりない。
 男の人は肩を落としてぼくに謝った。

「ごめんね」

「……別にいいけど」

 本当はしびれて来た。でも、ネコは膝からおりない。
 男の人は、ぼくの横に腰を掛けた。

「君、名前は?」

「……つかさ」

「へえ、じゃあ君もつーくんだねえ」

 バスが来た。今回は一人降りて、誰も乗らなかった。

「乗らないの?」

 不思議そうに男の人が目をぱちぱちした。

「乗らない」

「つ、つーくんのせい?」

「……別に」

 男の人はほっとした様子だった。

「どこに行くの?」

「おばあちゃんち」

「へえ。クリスマスだもんねえ」

「……いつもだよ。クリスマスとか、関係ない」

 ずっと昔からそうだった。
 お母さんはいつもぼくを置いていく。『預けられていた』時はまだよかった。もう預けてなんてくれない。ただ、置いていく。

「別にいかなくったっていいんだ。もう四年生だから、一人で平気。家でひとりでも、平気だもん」

「そうだねえ」

「……そうだよ」

 足の感覚がなくなってきた。
 天気はいいのにばかみたいに寒い。これだけ長いこと外に居ると、マフラーも手袋も役に立たなくなってくる。なのに、目の奥だけ熱い。
 男の人は横に座ったままだ。
 
 ぼくはきっと、結局おばあちゃんの家へいくだろう。健全なぼくは、ぐれたりしない。

 バスが来るのは二十分後。

 ネコが膝からおりない。おりてくれない。
 ぼくはネコを撫でたりしない。ネコはぼくになにもしない。

 なのにネコが、膝からおりない。

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