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第三章 灰色の対極
3-1 嫉妬心
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記憶に残っていることがある。
あれは幼い頃の話。自分自身の最初の記憶といってもいいほどに過去の話。それをなんとなく今唐突に思い出した。
その思い出は、楽しいとも、哀しいとも思えない、灰色のような記憶。特に感情を抱くような出来事があったわけでもないのに、どうしてかそれを忘れられずにいる自分がいる。
「泣いているの?」
僕は母に問いかけた。
十字架を飾り立てた教会、保育園にいる僕を迎えに来た母が、ついでにと教会の方へと歩んでいき、そうして十字架を見て、涙を流しているのが低身長であっても視認してしまったから、僕は母にそう聞いたのだと思う。
母の顔は別に哀しそうというわけでも、嬉しそうというわけでもない。それこそ、十字架に対して祈りをささげるように、無表情に、心を無にして涙を流している姿。それが、幼心からすれば、とても異様に思えたのだ。
「泣いていないわよ」
母がそういうけれど、拭うのが遅れた雫は、僕の足元に落ちていく。そうして絨毯が少しばかり濡れ染みをつくり、そこに涙があった痕跡を残すけれど、数秒足らずでそれは消えてしまった。
きっと、ここで母が涙を流したことは、今のように現実になる。現実になるということは、母は涙など流していなかったという現実を世界が肯定したのだと、僕にはそう思えて仕方がない。
でも、母が泣いていないというのならば、それ以上に言葉を紡ぐことなどできやしない。子どもが泣いているのと違って、大人が泣いている姿を見たのは、これが初めてだったから、どう言葉を紡げばいいのか、僕にはわからなかったからだ。
「帰りましょう」
母がそう言いながら、僕の手を引いて、ゆっくりと教会の十字架を後にする。十字架に対して祈りをささげる人間はほかにもいるのに、その時は母しか存在しないような錯覚を覚えるほどに、僕と母だけの空間として教会は成立していた。
今思えば、母はなんで涙を流していたのだろう。その理由を聞くには、あまりにも月日が経ちすぎているし、それ以上に僕が成熟したからといって軽率に聞ける内容でもない。
だから、この疑問はずっと心の中に留めておくべきなのだ。あの日生まれた劣等感ともに、僕は生きなければいけないのだ。
□
「最近、環くん来ないねぇ」
立花先生は、いつもならいたはずの場所にいない彼をどこか心配するような目で見つめている。その視線は次第に私に映って、なにか訳を知っているか、と聞くような視線を孕ませていた。
「……さあ、どうなんでしょう」
私には、わからない。
あの日以来、環と会話をすることは少なくなってしまった。登下校の時に顔を合わせようと思っても、彼が裂けるので、時間を合わせることができず、そうして魔法教室にも来ないのだから、会話を紡ぐ場面もない。
でも、彼の顔はどこか憑き物がとれたような表情をしていて、以前の……、魔法使いになる前の彼と同じような雰囲気だから、私は無理に魔法教室には誘わない。
──あれから、彼は魔法を使えたのだろうか。
私はそんな疑問を抱くけれど、以前の彼と同じような表情ということは、できていない、ということに繋がるのだろう。それは、どこか諦観を潜ませた瞳だったからこそ言えることかもしれない。
そして、それと同時に魔法教室であるこの空間には一人いない。
魔法教室を休む魔法使いは結構いる。都合が悪ければ明楽くんは休むし、体調を崩してしまうことが多い雪冬くんも、たまには休むことがあるから、それに対しては何の違和感も覚えない。
でも、彼女は。
天王寺天音、彼女に関しては、今まで私たちの動向をうかがうように、ずっと毎日来ていたのに。今となってはその影すら存在しないように、彼女はここに来ていない。環とタイミングを合わせるように、彼女はあの日からここに来ることはなかった。
──彼女は不思議な魔法使いだ。
紋章をとにかく人に隠している。私も特に晒すものではないから、別にそれでもいいと思うのだが、立花先生が知らないという事実は私を驚愕させるには十分な材料だった。
立花先生は、どうあれ人の秘密を見透かす先生だ。それを先生といっていいのか、疑問を覚えることはあるけれど、気が付かぬうちに背後に立って、そうして対象の情報を盗んでいく魔法使い。それが立花 改という魔法使いなのだから、その人でさえ彼女について知らない事実がある、というのが、どことなく違和感を加速させる。
──そう考えると、途端に嫌な予感を覚える。
環と同じタイミングで休み始める彼女。別に彼女が悪人ではないということはなんとなくの雰囲気で察してはいるけれども、雰囲気だけで人を理解するなんて言うことはできるはずもない。私や他の人が知らない裏で、大変な悪事に加担していたり、主導していたとしても見抜くことはできないのだから、それだけが判断材料として優秀なわけじゃない。
そんな彼女と、環が関わっている姿を見るたびに、私の心臓に針を刺すような感覚がする。チクリと、つねられているような気持ちさえ覚える。
──私は彼女の存在が不安でしようがないのだ。
いつもならば、彼女は魔法教室の隅の方で人の魔法を研究するように、じっと眺めている。それなのに、環が魔法教室に通うようになった瞬間、環のことを理解するように反発の練習を始めたり、私が認識していない裏で会話をしたり。
私が知らない場所で、環と関わっているのが、どこか不安でしようがない。きっと、これは嫉妬に近い感情なのかもしれないけれど、そんな感情を生まれてこの方抱いたことがないから、そうラベリングすることは私にはできない。
でも、もし可能ならば、環には彼女と関わらないでいてほしい。そうすれば、心の平穏は保てるのだから。
今の環と会話をすることはできずにいるけれど、彼が平穏に今の世界に生きれるのならば、別にそれでいい。だから、彼女の存在が平穏を脅かすものだとしたら──。
私は彼女に対して、どう行動をすればいいのだろう。
あれは幼い頃の話。自分自身の最初の記憶といってもいいほどに過去の話。それをなんとなく今唐突に思い出した。
その思い出は、楽しいとも、哀しいとも思えない、灰色のような記憶。特に感情を抱くような出来事があったわけでもないのに、どうしてかそれを忘れられずにいる自分がいる。
「泣いているの?」
僕は母に問いかけた。
十字架を飾り立てた教会、保育園にいる僕を迎えに来た母が、ついでにと教会の方へと歩んでいき、そうして十字架を見て、涙を流しているのが低身長であっても視認してしまったから、僕は母にそう聞いたのだと思う。
母の顔は別に哀しそうというわけでも、嬉しそうというわけでもない。それこそ、十字架に対して祈りをささげるように、無表情に、心を無にして涙を流している姿。それが、幼心からすれば、とても異様に思えたのだ。
「泣いていないわよ」
母がそういうけれど、拭うのが遅れた雫は、僕の足元に落ちていく。そうして絨毯が少しばかり濡れ染みをつくり、そこに涙があった痕跡を残すけれど、数秒足らずでそれは消えてしまった。
きっと、ここで母が涙を流したことは、今のように現実になる。現実になるということは、母は涙など流していなかったという現実を世界が肯定したのだと、僕にはそう思えて仕方がない。
でも、母が泣いていないというのならば、それ以上に言葉を紡ぐことなどできやしない。子どもが泣いているのと違って、大人が泣いている姿を見たのは、これが初めてだったから、どう言葉を紡げばいいのか、僕にはわからなかったからだ。
「帰りましょう」
母がそう言いながら、僕の手を引いて、ゆっくりと教会の十字架を後にする。十字架に対して祈りをささげる人間はほかにもいるのに、その時は母しか存在しないような錯覚を覚えるほどに、僕と母だけの空間として教会は成立していた。
今思えば、母はなんで涙を流していたのだろう。その理由を聞くには、あまりにも月日が経ちすぎているし、それ以上に僕が成熟したからといって軽率に聞ける内容でもない。
だから、この疑問はずっと心の中に留めておくべきなのだ。あの日生まれた劣等感ともに、僕は生きなければいけないのだ。
□
「最近、環くん来ないねぇ」
立花先生は、いつもならいたはずの場所にいない彼をどこか心配するような目で見つめている。その視線は次第に私に映って、なにか訳を知っているか、と聞くような視線を孕ませていた。
「……さあ、どうなんでしょう」
私には、わからない。
あの日以来、環と会話をすることは少なくなってしまった。登下校の時に顔を合わせようと思っても、彼が裂けるので、時間を合わせることができず、そうして魔法教室にも来ないのだから、会話を紡ぐ場面もない。
でも、彼の顔はどこか憑き物がとれたような表情をしていて、以前の……、魔法使いになる前の彼と同じような雰囲気だから、私は無理に魔法教室には誘わない。
──あれから、彼は魔法を使えたのだろうか。
私はそんな疑問を抱くけれど、以前の彼と同じような表情ということは、できていない、ということに繋がるのだろう。それは、どこか諦観を潜ませた瞳だったからこそ言えることかもしれない。
そして、それと同時に魔法教室であるこの空間には一人いない。
魔法教室を休む魔法使いは結構いる。都合が悪ければ明楽くんは休むし、体調を崩してしまうことが多い雪冬くんも、たまには休むことがあるから、それに対しては何の違和感も覚えない。
でも、彼女は。
天王寺天音、彼女に関しては、今まで私たちの動向をうかがうように、ずっと毎日来ていたのに。今となってはその影すら存在しないように、彼女はここに来ていない。環とタイミングを合わせるように、彼女はあの日からここに来ることはなかった。
──彼女は不思議な魔法使いだ。
紋章をとにかく人に隠している。私も特に晒すものではないから、別にそれでもいいと思うのだが、立花先生が知らないという事実は私を驚愕させるには十分な材料だった。
立花先生は、どうあれ人の秘密を見透かす先生だ。それを先生といっていいのか、疑問を覚えることはあるけれど、気が付かぬうちに背後に立って、そうして対象の情報を盗んでいく魔法使い。それが立花 改という魔法使いなのだから、その人でさえ彼女について知らない事実がある、というのが、どことなく違和感を加速させる。
──そう考えると、途端に嫌な予感を覚える。
環と同じタイミングで休み始める彼女。別に彼女が悪人ではないということはなんとなくの雰囲気で察してはいるけれども、雰囲気だけで人を理解するなんて言うことはできるはずもない。私や他の人が知らない裏で、大変な悪事に加担していたり、主導していたとしても見抜くことはできないのだから、それだけが判断材料として優秀なわけじゃない。
そんな彼女と、環が関わっている姿を見るたびに、私の心臓に針を刺すような感覚がする。チクリと、つねられているような気持ちさえ覚える。
──私は彼女の存在が不安でしようがないのだ。
いつもならば、彼女は魔法教室の隅の方で人の魔法を研究するように、じっと眺めている。それなのに、環が魔法教室に通うようになった瞬間、環のことを理解するように反発の練習を始めたり、私が認識していない裏で会話をしたり。
私が知らない場所で、環と関わっているのが、どこか不安でしようがない。きっと、これは嫉妬に近い感情なのかもしれないけれど、そんな感情を生まれてこの方抱いたことがないから、そうラベリングすることは私にはできない。
でも、もし可能ならば、環には彼女と関わらないでいてほしい。そうすれば、心の平穏は保てるのだから。
今の環と会話をすることはできずにいるけれど、彼が平穏に今の世界に生きれるのならば、別にそれでいい。だから、彼女の存在が平穏を脅かすものだとしたら──。
私は彼女に対して、どう行動をすればいいのだろう。
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