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一章 天竜堂のおろく医者
四
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「御免ください、誰ぞおりませぬか?」
簡素な木戸門の前で、中の者を呼ぶ凌雲。隅田川向島、水戸藩江戸藩邸の側、小倉庵の麓に隠居し旗本寄合席となった水谷無用斎が構える隠宅があった。意気な黒板塀に冠木門、小梅村が集う百姓地には不釣り合いな隠宅がそこに立っていた。
その肥えに気が付き、家の者が出迎えに出て来た。箒を持った痩せぎすな白髪頭の老人。恐らく個々の郎党だろう。
「何方じゃな?」
「林斎先生より往診の儀を仰せつかった、高柳凌雲と申す。」
「本道医、藤川美沙です。」
「おぅ、待っておったぞ。儂は用人、木村太兵衛と申す。大旦那様は聞いての通りの荒い御気性、もはやどの医者も寄り付かなくてな。以前は女中もおったのだが、あの通りの雇い主だから皆逃げてしもうたわい。まあお前さんも、懲りずに見てやってくれ。」
「お察し申し上げます。」
無用斎の噂は美沙も聞いている。思わず本音が零れた。
通されるままに中へ入ると、奥の部屋で件の無用斎は布団の中で横たわっていた。
「大殿、医者が参りました。」
「左様か・・・。」
用人の呼ぶ声にも反応せず、背中越しに返事をした。このままでは診察にはならない。今度は凌雲が無用斎に声をかけて来た。
「貴様が新しい医者か?」
「蘭医・高柳凌雲御召を頂き罷り越しました。」
「高柳・・・、凌雲・・・?」
凌雲が名乗ると、無用斎はゆっくりと起き上がった。髷はすっかり細くなり、鬢は鼠色、痩せぎすで体調が芳しくないと言うのは直ぐに見て取れた。皺だらけの額には金創膏が貼り付けてあった。細い目で暫く睨むように凌雲を見ると、あからさまに大きな溜息を付いて無用斎は言った。
「噂に聞くおろく医者とは、お前か?」
「左様でございます、具合は如何かな?」
「女連れとは・・・、良い御身分だのう・・・。」
「嫌な爺・・・。」嫌味を込めて言う無用斎の言葉に、眉を顰める美沙。しかし、この頑固爺の憎まれ口は何時もの事だと意にも介さない。
「具合は如何かな?」
「何時もと変わらぬ。」
凌雲がそうだと言うと、更にムスッとしたまま無用斎は呟いた。
「どの医者も寄り付かぬと言うのに、物好きな。」
「失礼致す。」
嫌味など気にもせず凌雲はずかずかと寝室に上がり込み、無用斎の治療を開始した。
成程この物言い、この無用斎と言う隠居は太兵衛老人の言う通りの難物。
「全く御上も馬鹿よ、今や勘定奉行の地位には虎の威を借る狐がでんと座っていると聞く。もはや幕閣は長い事は無いのぅ。」
無用斎の文句は続く。ああした難物の患者に慣れていないわけではない。早速文句を言い始めた無用斎に構わず、先ずは腕の脈を診た。
「御脈を拝見。」
「勝手にせい。」
腕の脈を診ると、何やら血の巡りに異常がある様だった。続いて凌雲は無用斎を横にし、フランス人の医師ルネ・ラエンネックが発明したとされる聴診器で胸の音を聞いた。心拍数も通常よりも早いようだった。しかし、今日明日危篤になると言う物ではなかった。
そして凌雲は、額の金創膏に手を伸ばした。
「なっ、何を致す!?」
「お静かに。」
おざなりに貼り付けられた金創膏剥がすと、滲んだ血の跡が円状に固まり、その中心には一寸半(5センチ程)の切り傷があった。更に金創膏の真ん中には膿が出た跡があった。この傷口に、美沙も眉間に皺を寄せる。傷口を見ると、所々に黄色い膿が付着していた。恐らく正しい治療もせず、金創膏に薬を塗った跡も見られなかった。これだけ小言を言う無用斎に参り、通いの医者である林斎もろくな治療も出来なかった様だ。
「これでは悪化して当たり前だ。」
以前もこの無用斎は、急なめまいを起こし縁側で転倒し石畳に頭を打ち付けてざっくりと裂傷をこさえてしまった。近頃無用際は、転倒する事が多くなった。
無用斎は、職を辞する僅か前より手の震え等の体調不良を訴え始めており、御上もそれを懸念し早々に退官させる事を決断した。御上としては、後は嫡男に任せ残りの余生を穏やかに過ごす様にと言う思いがあった。だが、親の心子知らずと言うか当の本人は「老人は用済み」と首を切られたと考え、不貞腐れたかの様に隠宅を構えたのだった。
「また転ばれましたな」
「大事ない、縁側で躓いただけじゃ。」
「ろくな治療を成されていませぬな?」
「お前たち医者が見捨てたせいじゃ。」
「林斎先生によれば杖をお使いとの事ですが、杖は如何致しました?」
「あんな年より臭い物、使えるか!儂は楊心流の目録持ち、儂だから軽症で済んだのじゃ。」
自画自賛しながらほくそ笑む無用斎をみて、奥で控える太兵衛も美沙も笑いでも堪えている様だった。
「まず、傷を診ますぞ?」
「ふん、この際何とでも致せ。」
「それじゃあ遠慮なく」と言わんばかりに、少々手荒いかもしれぬが金創治療を始めた。
これを使えと言っても、頑として言う事を聞かない。成程、厄介な相手だ。凌雲は愛用している薬篭箱から、針と糸を取り出した。この傷は、縫合する必要がある。膿を布で拭き取り、針を刺した。
「おいっ!痛いぞ!!」
「我慢なされよ。」
懐から手ぬぐいを取り出し、棒状に丸め無用斎に手渡した。だが無用斎は、「いらぬ」と断った。
(麻酔を使わぬ縫合には激痛が伴うのに、舌をかみ切っても知らぬぞ。)
凌雲は構わず傷を縫い始める。ギャアギャアと無用斎が騒ぐが、構わず縫合を続ける。
(まあ、意地っ張りには良い薬だ)
治療の最中、凌雲は思わず笑みを浮かべた。
凌雲が住まう八丁堀には、治療を放棄した医者同様に様々な医者が軒を連ね、中でも本道医が多く外科の看板を掲げている医者は少なかった。外科治療は慶長十四年、ポルトガルの宣教師であった沢野忠庵ことクリストファン・フェレイラが広めたと言う阿蘭陀流外科治療が主流だ。解体新書和訳から数年後、華岡青洲の功績により麻酔薬が生み出され、外科治療も大いに発展している。と言っても癌の摘出や美容整形と言った困難な外科治療は不可能、出来る外科治療と言えば簡単な傷口の縫合手術や腫物の治療である。
「やはり蘭方外科は外道と言う様に、ろくでなししかおらぬようじゃのう。」
無用斎は更に凌雲だけでなく、蘭方医事態を誹り始めた。本道医が主流のこの時代「蘭医は好き好んで体に刃物を入れる輩。」と言う偏見が横行した。無用斎の様な偏見で見る者のせいで、弾圧事件も相まって外科治療を依頼される事は少なく、蘭医でありながら本道医の看板を上げている者もいた。凌雲自身、蘭学知識を振るう機会は少なく殆どが本道治療だ。従って、この無用斎の様な外科治療は久しぶりだ。
縫合を終えると、金創膏に薬を塗り傷口に貼り付け包帯を額に巻き付けた凌雲を無用斎は睨み付け続けた。
「まだ痛め付ける気か?」
「動くともっと痛みますぞ?」
大した痛みでもないのに騒ぐ患者を凌雲は何人も見て来た。
切れ者幕臣だった頃の姿は微塵にも見えない、今やただの偏屈爺となり下がった無用斎も同じ。諭しながら治療を続ける凌雲が癪に障ったのか、無用斎の愚痴は更に酷くなった。
「こうなったのも、職を奪われさび付いたせい、腐りきった公儀のせいじゃ。我が水谷家は神君家康公の頃より使える三河武士の末裔・・・。長く公儀を守って来た由緒ある家柄じゃ。それを、置いただけでお払い箱。とかく雲上人とは勝手な物よな。」
本来ならば口に耳を傾けても良い頃だが、凌雲はそれをしない。
いちいち取るに足らない愚痴を聞いては、仕事にならないからだ。
「聞いておるのか貴様?」
治療を終えた凌雲は、尚もブツブツと言い続ける無用斎に言い放った。
「いい加減になされよ。」
「な、何?」
「何時までも子供の様に不貞腐れるのはお止めなさい。」
「ぶっ、無礼な!?儂がいつ不貞腐れた!」
「怒りっぽく愚痴っぽい、これでは治る物も治りませぬ。」
「貴様に何が解る!?」
容赦のない物言いが気に食わないと見えて、更に顔を真っ赤にして怒り出した。
「お身の上は気の毒とは存ずるが、上様のお気持ちもお考えなされい。」
「上様の?」
キョトンとする無用斎をしり目に、凌雲は無用斎を諭した。
「左様、確かに無用斎殿は幕閣の為に大いに働かれた。御貴殿の働きにより、幕府の金蔵や天領地の暮らしも豊かになったとも聞いておりまする。」
「ほぉ、解っておるではないか。」
「だからこそ上様は、御労苦を労いたいのです。」
「果たしてそうであろうか・・・。」
「野暮な事を聞きますが、大殿様は体の不調が現れたのは何度目ですかな?」
「此度の怪我を含めて、四度・・・。」
「そうでしょう、無理が祟りて遅れになる前に上様は穏やかな余生を送れと申しておるのです。幸い大殿様には、蔵人様と言う立派な御嫡男がおり正に盤石。後はご自分の事だけを考え、ごゆるりとなされるのがよろしいでしょう。」
凌雲の言葉を聞きもっともだと思えたのか、喧しかった無用斎は急に押し黙った。
暫く黙りこくった無用斎は、今日初めて穏やかな面持ちになった。
「さもありなん、儂も少し意固地になっていたかもしれぬ。」
「お解り頂けたのであれば、治りも早いはずです。」
「ふん、貴様の講釈をとっとと終わらせたかっただけじゃ。」
怪我が治ったとしても、この頑固さは治らない様だ。
「長居は無礼と言う物、では他に別件がございますゆえに失礼いたします。」
そう軽い挨拶を交わすと、薬篭箱より続命湯を取り出して手渡した。当帰、川芎、桂皮を調合した脳や手足をはじめ全身の血液循環の改善に効果のある漢方薬だ。脳疾患がある無用斎が飲んでいる処方薬だ。今回転んで大怪我をしたのも、脳の不調を拗らせての事だ。裂傷が出来る程に転んでは、時間差で再び倒れそのままご臨終と言う事も有り得る。
しかし、倒れる事無く今日まで生活していられた所を見ると脳は異常をきたしていない様だ。それが救いだ。
「ではこの薬を三度に分け飲んでください。もし吐き気や皮に不調があった場合は飲むのを止め、私に知らせてください。」
「解った、では薬礼は太兵衛から受け取れ。ご苦労であった。」
「では、お大事に。」
凌雲たちが立ち上がると、太兵衛は切り餅の包金一つ(約二十五両)手渡して来た。
「太兵衛殿、これは多い。」
「お受け取り下さい、このまま返しては御家の名に関わりますゆえ・・・。」
「しかし・・・。」
ならばせめて半額と切り餅を分解しようとすると、美沙がそれを引っ手繰って懐に絞まった。その顔は、さっきまでの物調面とは打って変わった満面の笑みだった。
「有難く頂戴致します!お武家様も、ご苦労が絶えませんねぇ。」
「よく言うぜ」と小さく笑って見せた凌雲。すると無用斎が、傍に置かれていた瓦版を見て呟いた。
「歌舞伎役者の中村菊之丞(なかむらきくのじょう)・・・、近頃流行よな。」
「菊之丞?」
博識な凌雲だったが、そうした事には疎い。
「何者ですかな、その菊之丞と言うのは?」
「其方は世情には疎いようだな。役者じゃよ、今売り出し中の。何かと喧しい昨今、慎ましい暮らしを強いられている様じゃがの・・・。」
「左様か・・・、ではお体に気をつけて。たまにはささやかに娯楽を楽しむのも、体にはよう御座いますぞ?」
「そうか・・・、考えておこう。」
話半分で話を聞き、もうひと眠りしようと無用斎は横になった。それを見届けた凌雲は、美沙と共に無用斎の隠宅を後にした。思いがけぬ後学の薬礼を懐にホクホク気分の美沙。
「嬉しそうだな美沙殿。」
「これだけあれば、色々な払いが済みますわ。だって先生ったら、どんな治療も十六文で済ませてしまうから。カツカツでこのままじゃ飢え死にしてしまいますよ?」
「はっはっは、終いには俺がおろくになるな。」
「笑い事ではありません!」
美沙の鋭いツッコミも、凌雲は笑って誤魔化す。金に執着しない凌雲のタダ働きは、何時も美沙を悩ませている。凌雲を病と言うなら、無欲病か金欠病とでも言うのだろう。
何気なく凌雲は中村菊之丞の事を聞いた。
「美沙殿、中村菊之丞と言う役者の話を知っているか?」
「私は興味ありませぬが、中々に人気がある役者と聞いています。菊様菊様って、皆さん黄色い声出すんですから。」
「そうか・・・。」
美沙が菊之丞を前にきゃあきゃあと黄色い声を出している様を想像すると、思わず笑みが零れた。
「何か可笑しいですか?」
何かを察したのか、ムスッとした面持ちになった美沙。それを見て、凌雲は慌てて取り繕った。美沙の鶏冠に血が上ると、何人たりとも手が付けられない。
「いいや、何でもない。」
何気ない話しをしながら歩いていると、黒塗りの駕籠とすれ違う。駕籠の中の者が凌雲たちとすれ違うと、「停めよ」と駕籠を止めた。駕籠から降りて来たのは、裃姿の侍。察するに、無用斎の息子である水谷蔵人であろう。
「貴殿が新しい医者か」
「蔵人様ですな?」
「会うのは初めてだったな。水谷蔵人だ。おぅ、随分と美形を連れておるな。」
ちらりと美沙に目をやり蔵人が言う、しかしその言葉には揶揄いの悪戯心もいやらしさも無かった。それを感じ取ったようで、美沙も嫌な顔はしなかった。
「手前の助手です。」
「左様か、頼もしいのう。ところで、父の様子はどうじゃな?」
「傷も治りつつありますし、少々脈が乱れてりますが異常はありませぬ。胃の腑も、だんだんと落ち着いております。」
「左様か、これからもめげずに来てやってくれ。」
「勿論、医者として見捨てる事は致しませぬ。蔵人様こそ、こうして日々御父上の加減を見舞いに来る。中々出来る事ではございませぬ。」
「そうかのぅ、金は受け取ったか?」
「はい、過分なる御礼を頂きました。」
「なら良い、何かの足しに致せ。」
気さくな笑みを浮かべ、頷きながら礼を言う蔵人。
ふいに蔵人は話題を変えた、山王町の一件だ。
「ご苦労であった、そう言えば山王町で相対死があったそうじゃの?」
「ご存じでしたか?」
「城中で阿部奉行がぼやいていた。」
「左様か。」
場所が場所だけに、噂が広まるのは早いようだ。
「何と由々しき事だ、其方が検死を引き受けたとか。」
「何やら疑惑があるようですが、後は町方の仕事です。」
「死骸の検視まで引き受けるとは、忙しい身よな。」
「お気遣いの御言葉、身に余る光栄。」
すると先程まで気さくな面持ちだった蔵人が、何やら悩げな面持ちになり呟いた。
「検死を引き受けた其方の耳には入れておいた方が良いだろうが、三島屋は財産没収の上闕所の沙汰が下るやもしれぬ。」
「財産没収とな?」
闕所と言う言葉を聞き、凌雲も美沙も驚愕した。
いわば被害者である三島屋が、なぜ厳罰に処されなければならないのだ。口にはしないが、凌雲の表情はそう言いたげだった。
「其方も納得が行かぬようだな、私もその沙汰は間違っていると進言したのだ。だが、老中の本多長門守義忠様が跡部殿に娘の所業は怪しからぬと進言、其れを受けた勘定奉行の跡部能登守殿が闕所を命じたとの事だ。不運にも能登守は、今を時めく水野忠邦様の弟、耳を貸そうともせぬ。」
「跡部殿か・・・。」
勘定奉行の地位にある跡部良弼は、公儀を取り仕切る筆頭老中の実弟と言う事もあってかその態度は傲慢不遜。周辺と諍いを起こすことが少なくなかった。在任中の大坂では米価が暴騰し、多くの者が餓死し、中には貧民が貧困層を妬み襲撃する打ち壊しも発生し多くの被害者を出した。良弼はこれに対してなんらの打開策を立てないばかりか、豪商らによる米の買い占めを傍観し、また、町奉行所の元与力で陽明学者、大塩平八郎が提案した救民計画を無視、江戸に米の廻送を命じたため、米価はますます高騰したと言われ、これが原因で、天保八年の大塩平八郎の乱の原因になったと言われてきた。良弼はその後ものらりくらり罷免の危機を避け、勘定奉行となった今でもその態度は改まっていない。
三島屋闕所を進言したのも、この跡部良弼である。
「して、その理由は?」
「理由はどうであれ、心中騒ぎを起こし江戸市中を混乱させた事は不届き至極との事だ。全く、難癖も良い所だ。逼迫の一途をたどる幕府財政を、どうにかして立て直したいのだろう。三島屋は相当な財産を持つ豪商、騒ぎを口実に全て奪い取ろうと言う腹積もりだろう。」
「だからと申して、江戸庶民を巻き添えにすると言うのは・・・。」
「解っておる・・・。だが、立場の違う儂にはどうにもならぬ。」
「左様か、一刻も早く町方には真相を究明して頂きたいものです。でなければ、三島屋があまりに気の毒。それに、三島屋に仕える店の者が路頭に迷ってしまうやも。」
「左様、鬼畜の所業じゃ。この所業は跡部殿の兄君、水野様にも言える事じゃ。」
兄である水野忠邦もまた、政の名を借りた悪行を繰り返している。あらゆる娯楽を禁ずる奢侈禁制を主とする天保の改革以前から、何かと理由を付けて領地替えや取り潰しを強行し、諸藩各所から大変な悪評を買っている。取り潰されれば、その土地に住む庶民にも累が及ぶ。これまで幾多の民が貧困に喘ぎ、涙を流した事だろうか。養子に出たとは言え同じような所業をする、血は争えない様だ。
「ああ、つまらぬ話に付き合わせてしもうたな。」
「いいえ、情報を入れて頂きありがとうございます。私はせいぜい、一介の医者として三島屋の行く末を影ながら見守る事に致しましょう。私にできるのは、この位ですからな。」
「うむ、それがよかろう。ではな・・・。」
「はい、失礼致します。」
こうして隠宅を後にした凌雲は、帰路に就く。
その道中も、蔵人から聞かされた歪んだ政策について憤りを感じていた。江戸庶民を何とも思わぬ政策の先に待つのは、不満を限界まで貯め爆発した庶民による反乱だ。江戸各地では打ちこわしが発生し、ついこの間には大阪で大塩の乱が勃発したばかりだ。事態は幕府軍により鎮圧したとされているが、反乱に連なる残党は今でもどこかへ潜伏し、次なる機会を虎視眈々と狙っている事だろう。
「美沙殿、寄り道をしても良いか?」
「解っています、居ても立っても居られないのでしょう?」
「話が早くて助かる。」
騒動の進捗が気になり、考えているうちに凌雲の足は竹島町へは行かず、呉服橋へ向かっていた。呉服橋を渡ると、そこは北町奉行所がある。勇五郎が与力として通う場所だ。
門番がまず、凌雲らの存在に気が付く。
「其方は?」
「高柳凌雲、北町奉行に御意を得たい。」
「見かけぬ男だな。」
奉行所関係者でなければ中へ入れない。門番は初めて凌雲を見るようで険しい面持ちで見つめる。すると奥の方より、聞き覚えのある声が聞こえた。
村垣伝助に絡まれた際、助け舟を出してくれた吟味方与力の神山平蔵だ。
「よぉ、凌雲先生じゃねえか。」
「これを神山様。」
「様なんか付けなくていい、何か用か?」
「ちょいと御奉行に用がな。」
「そうか、構わねえ。中へ入りな。内与力の蒲生さんに声を掛ければ、すぐに解るぞ。」
「有難い。」
奉行所の責任者の一人から許可を得て、凌雲と美沙は遠慮なく奉行所の中へと入って行く。そこまで奉行所の中に詳しい訳では無いが、何処に何があるかの察しは付く。暫く進んで行くと、平蔵が言っていた内与力の蒲生猪太夫とすれ違った。本来ならば見慣れぬ者を目の当たりにし、「何奴」と刀に手を掛けるぐらいの事は使用物だが、凌雲が何者かは解った様だ。
「其方が検死に協力してくれたと言う蘭医か?」
「高柳凌雲と申す、御奉行はおられるか?」
「この先の部屋にいるはずじゃ、御用繫多故に手短にな。」
猪太夫が指さす先に、奉行の邸宅につながる障子がある。戸の前で凌雲は中にいる金四郎を呼ぶ。
「御奉行、蘭医の高柳凌雲と申す。三島屋の一件について、お聞きしたき儀があり参上仕った。」
しかし中の反応はない。襖をゆっくりと開けると、中には人っ子一人いなかった。
声をかけても返りはない。美沙が不安げに周囲を見渡す。
「おかしいですね、急用かしら……。」
凌雲は無言で部屋に入り、鋭い眼光で机の上を走らせた。そこには、書きかけの公文書も、飲みかけの茶も残されていない。ただ、文机の端に、一枚の「役立たずの古紙」が、あえて捨て置かれたように残っていた。
「先生、これは・・・。」
満開の桜の木の下で、一羽の「鶴」と、一匹の「亀」が向かい合い、楽しげに盃を交わしている、その上で劉が天を飛んでいる落書き。
「……何よこれ。お忙しいのに落書きなんて。しかも鶴と亀に天空の龍っておめでたいけど、子供の絵みたいじゃない。」
美沙が呆れた声を出すが、凌雲の口元には微かな笑みが浮かんだ。
「いや、美沙殿。これは『お遊び』じゃない。金四郎様からの火急の文だ。……鶴と亀、そして桜に天竜。これらが揃う場所は、江戸に一つしかない」
その絵を見て、金四郎がどこにいるのか理解出来た。どうやら、此処で待っていると言う暗号であるらしい。
そう思いながら、懐にその絵を入れ部屋を後にすると猪太夫が声を掛けて来た。
「何じゃ、もう済んだのか?」
「うむ、所用もありますればこれで。」
そう言うと凌雲は、足早に奉行所を後にし、落書きで示された場所まで向かった。凌雲が去った後で、猪太夫が金四郎奉行が失踪した事を知り大騒ぎになったのは言うまでもない。
簡素な木戸門の前で、中の者を呼ぶ凌雲。隅田川向島、水戸藩江戸藩邸の側、小倉庵の麓に隠居し旗本寄合席となった水谷無用斎が構える隠宅があった。意気な黒板塀に冠木門、小梅村が集う百姓地には不釣り合いな隠宅がそこに立っていた。
その肥えに気が付き、家の者が出迎えに出て来た。箒を持った痩せぎすな白髪頭の老人。恐らく個々の郎党だろう。
「何方じゃな?」
「林斎先生より往診の儀を仰せつかった、高柳凌雲と申す。」
「本道医、藤川美沙です。」
「おぅ、待っておったぞ。儂は用人、木村太兵衛と申す。大旦那様は聞いての通りの荒い御気性、もはやどの医者も寄り付かなくてな。以前は女中もおったのだが、あの通りの雇い主だから皆逃げてしもうたわい。まあお前さんも、懲りずに見てやってくれ。」
「お察し申し上げます。」
無用斎の噂は美沙も聞いている。思わず本音が零れた。
通されるままに中へ入ると、奥の部屋で件の無用斎は布団の中で横たわっていた。
「大殿、医者が参りました。」
「左様か・・・。」
用人の呼ぶ声にも反応せず、背中越しに返事をした。このままでは診察にはならない。今度は凌雲が無用斎に声をかけて来た。
「貴様が新しい医者か?」
「蘭医・高柳凌雲御召を頂き罷り越しました。」
「高柳・・・、凌雲・・・?」
凌雲が名乗ると、無用斎はゆっくりと起き上がった。髷はすっかり細くなり、鬢は鼠色、痩せぎすで体調が芳しくないと言うのは直ぐに見て取れた。皺だらけの額には金創膏が貼り付けてあった。細い目で暫く睨むように凌雲を見ると、あからさまに大きな溜息を付いて無用斎は言った。
「噂に聞くおろく医者とは、お前か?」
「左様でございます、具合は如何かな?」
「女連れとは・・・、良い御身分だのう・・・。」
「嫌な爺・・・。」嫌味を込めて言う無用斎の言葉に、眉を顰める美沙。しかし、この頑固爺の憎まれ口は何時もの事だと意にも介さない。
「具合は如何かな?」
「何時もと変わらぬ。」
凌雲がそうだと言うと、更にムスッとしたまま無用斎は呟いた。
「どの医者も寄り付かぬと言うのに、物好きな。」
「失礼致す。」
嫌味など気にもせず凌雲はずかずかと寝室に上がり込み、無用斎の治療を開始した。
成程この物言い、この無用斎と言う隠居は太兵衛老人の言う通りの難物。
「全く御上も馬鹿よ、今や勘定奉行の地位には虎の威を借る狐がでんと座っていると聞く。もはや幕閣は長い事は無いのぅ。」
無用斎の文句は続く。ああした難物の患者に慣れていないわけではない。早速文句を言い始めた無用斎に構わず、先ずは腕の脈を診た。
「御脈を拝見。」
「勝手にせい。」
腕の脈を診ると、何やら血の巡りに異常がある様だった。続いて凌雲は無用斎を横にし、フランス人の医師ルネ・ラエンネックが発明したとされる聴診器で胸の音を聞いた。心拍数も通常よりも早いようだった。しかし、今日明日危篤になると言う物ではなかった。
そして凌雲は、額の金創膏に手を伸ばした。
「なっ、何を致す!?」
「お静かに。」
おざなりに貼り付けられた金創膏剥がすと、滲んだ血の跡が円状に固まり、その中心には一寸半(5センチ程)の切り傷があった。更に金創膏の真ん中には膿が出た跡があった。この傷口に、美沙も眉間に皺を寄せる。傷口を見ると、所々に黄色い膿が付着していた。恐らく正しい治療もせず、金創膏に薬を塗った跡も見られなかった。これだけ小言を言う無用斎に参り、通いの医者である林斎もろくな治療も出来なかった様だ。
「これでは悪化して当たり前だ。」
以前もこの無用斎は、急なめまいを起こし縁側で転倒し石畳に頭を打ち付けてざっくりと裂傷をこさえてしまった。近頃無用際は、転倒する事が多くなった。
無用斎は、職を辞する僅か前より手の震え等の体調不良を訴え始めており、御上もそれを懸念し早々に退官させる事を決断した。御上としては、後は嫡男に任せ残りの余生を穏やかに過ごす様にと言う思いがあった。だが、親の心子知らずと言うか当の本人は「老人は用済み」と首を切られたと考え、不貞腐れたかの様に隠宅を構えたのだった。
「また転ばれましたな」
「大事ない、縁側で躓いただけじゃ。」
「ろくな治療を成されていませぬな?」
「お前たち医者が見捨てたせいじゃ。」
「林斎先生によれば杖をお使いとの事ですが、杖は如何致しました?」
「あんな年より臭い物、使えるか!儂は楊心流の目録持ち、儂だから軽症で済んだのじゃ。」
自画自賛しながらほくそ笑む無用斎をみて、奥で控える太兵衛も美沙も笑いでも堪えている様だった。
「まず、傷を診ますぞ?」
「ふん、この際何とでも致せ。」
「それじゃあ遠慮なく」と言わんばかりに、少々手荒いかもしれぬが金創治療を始めた。
これを使えと言っても、頑として言う事を聞かない。成程、厄介な相手だ。凌雲は愛用している薬篭箱から、針と糸を取り出した。この傷は、縫合する必要がある。膿を布で拭き取り、針を刺した。
「おいっ!痛いぞ!!」
「我慢なされよ。」
懐から手ぬぐいを取り出し、棒状に丸め無用斎に手渡した。だが無用斎は、「いらぬ」と断った。
(麻酔を使わぬ縫合には激痛が伴うのに、舌をかみ切っても知らぬぞ。)
凌雲は構わず傷を縫い始める。ギャアギャアと無用斎が騒ぐが、構わず縫合を続ける。
(まあ、意地っ張りには良い薬だ)
治療の最中、凌雲は思わず笑みを浮かべた。
凌雲が住まう八丁堀には、治療を放棄した医者同様に様々な医者が軒を連ね、中でも本道医が多く外科の看板を掲げている医者は少なかった。外科治療は慶長十四年、ポルトガルの宣教師であった沢野忠庵ことクリストファン・フェレイラが広めたと言う阿蘭陀流外科治療が主流だ。解体新書和訳から数年後、華岡青洲の功績により麻酔薬が生み出され、外科治療も大いに発展している。と言っても癌の摘出や美容整形と言った困難な外科治療は不可能、出来る外科治療と言えば簡単な傷口の縫合手術や腫物の治療である。
「やはり蘭方外科は外道と言う様に、ろくでなししかおらぬようじゃのう。」
無用斎は更に凌雲だけでなく、蘭方医事態を誹り始めた。本道医が主流のこの時代「蘭医は好き好んで体に刃物を入れる輩。」と言う偏見が横行した。無用斎の様な偏見で見る者のせいで、弾圧事件も相まって外科治療を依頼される事は少なく、蘭医でありながら本道医の看板を上げている者もいた。凌雲自身、蘭学知識を振るう機会は少なく殆どが本道治療だ。従って、この無用斎の様な外科治療は久しぶりだ。
縫合を終えると、金創膏に薬を塗り傷口に貼り付け包帯を額に巻き付けた凌雲を無用斎は睨み付け続けた。
「まだ痛め付ける気か?」
「動くともっと痛みますぞ?」
大した痛みでもないのに騒ぐ患者を凌雲は何人も見て来た。
切れ者幕臣だった頃の姿は微塵にも見えない、今やただの偏屈爺となり下がった無用斎も同じ。諭しながら治療を続ける凌雲が癪に障ったのか、無用斎の愚痴は更に酷くなった。
「こうなったのも、職を奪われさび付いたせい、腐りきった公儀のせいじゃ。我が水谷家は神君家康公の頃より使える三河武士の末裔・・・。長く公儀を守って来た由緒ある家柄じゃ。それを、置いただけでお払い箱。とかく雲上人とは勝手な物よな。」
本来ならば口に耳を傾けても良い頃だが、凌雲はそれをしない。
いちいち取るに足らない愚痴を聞いては、仕事にならないからだ。
「聞いておるのか貴様?」
治療を終えた凌雲は、尚もブツブツと言い続ける無用斎に言い放った。
「いい加減になされよ。」
「な、何?」
「何時までも子供の様に不貞腐れるのはお止めなさい。」
「ぶっ、無礼な!?儂がいつ不貞腐れた!」
「怒りっぽく愚痴っぽい、これでは治る物も治りませぬ。」
「貴様に何が解る!?」
容赦のない物言いが気に食わないと見えて、更に顔を真っ赤にして怒り出した。
「お身の上は気の毒とは存ずるが、上様のお気持ちもお考えなされい。」
「上様の?」
キョトンとする無用斎をしり目に、凌雲は無用斎を諭した。
「左様、確かに無用斎殿は幕閣の為に大いに働かれた。御貴殿の働きにより、幕府の金蔵や天領地の暮らしも豊かになったとも聞いておりまする。」
「ほぉ、解っておるではないか。」
「だからこそ上様は、御労苦を労いたいのです。」
「果たしてそうであろうか・・・。」
「野暮な事を聞きますが、大殿様は体の不調が現れたのは何度目ですかな?」
「此度の怪我を含めて、四度・・・。」
「そうでしょう、無理が祟りて遅れになる前に上様は穏やかな余生を送れと申しておるのです。幸い大殿様には、蔵人様と言う立派な御嫡男がおり正に盤石。後はご自分の事だけを考え、ごゆるりとなされるのがよろしいでしょう。」
凌雲の言葉を聞きもっともだと思えたのか、喧しかった無用斎は急に押し黙った。
暫く黙りこくった無用斎は、今日初めて穏やかな面持ちになった。
「さもありなん、儂も少し意固地になっていたかもしれぬ。」
「お解り頂けたのであれば、治りも早いはずです。」
「ふん、貴様の講釈をとっとと終わらせたかっただけじゃ。」
怪我が治ったとしても、この頑固さは治らない様だ。
「長居は無礼と言う物、では他に別件がございますゆえに失礼いたします。」
そう軽い挨拶を交わすと、薬篭箱より続命湯を取り出して手渡した。当帰、川芎、桂皮を調合した脳や手足をはじめ全身の血液循環の改善に効果のある漢方薬だ。脳疾患がある無用斎が飲んでいる処方薬だ。今回転んで大怪我をしたのも、脳の不調を拗らせての事だ。裂傷が出来る程に転んでは、時間差で再び倒れそのままご臨終と言う事も有り得る。
しかし、倒れる事無く今日まで生活していられた所を見ると脳は異常をきたしていない様だ。それが救いだ。
「ではこの薬を三度に分け飲んでください。もし吐き気や皮に不調があった場合は飲むのを止め、私に知らせてください。」
「解った、では薬礼は太兵衛から受け取れ。ご苦労であった。」
「では、お大事に。」
凌雲たちが立ち上がると、太兵衛は切り餅の包金一つ(約二十五両)手渡して来た。
「太兵衛殿、これは多い。」
「お受け取り下さい、このまま返しては御家の名に関わりますゆえ・・・。」
「しかし・・・。」
ならばせめて半額と切り餅を分解しようとすると、美沙がそれを引っ手繰って懐に絞まった。その顔は、さっきまでの物調面とは打って変わった満面の笑みだった。
「有難く頂戴致します!お武家様も、ご苦労が絶えませんねぇ。」
「よく言うぜ」と小さく笑って見せた凌雲。すると無用斎が、傍に置かれていた瓦版を見て呟いた。
「歌舞伎役者の中村菊之丞(なかむらきくのじょう)・・・、近頃流行よな。」
「菊之丞?」
博識な凌雲だったが、そうした事には疎い。
「何者ですかな、その菊之丞と言うのは?」
「其方は世情には疎いようだな。役者じゃよ、今売り出し中の。何かと喧しい昨今、慎ましい暮らしを強いられている様じゃがの・・・。」
「左様か・・・、ではお体に気をつけて。たまにはささやかに娯楽を楽しむのも、体にはよう御座いますぞ?」
「そうか・・・、考えておこう。」
話半分で話を聞き、もうひと眠りしようと無用斎は横になった。それを見届けた凌雲は、美沙と共に無用斎の隠宅を後にした。思いがけぬ後学の薬礼を懐にホクホク気分の美沙。
「嬉しそうだな美沙殿。」
「これだけあれば、色々な払いが済みますわ。だって先生ったら、どんな治療も十六文で済ませてしまうから。カツカツでこのままじゃ飢え死にしてしまいますよ?」
「はっはっは、終いには俺がおろくになるな。」
「笑い事ではありません!」
美沙の鋭いツッコミも、凌雲は笑って誤魔化す。金に執着しない凌雲のタダ働きは、何時も美沙を悩ませている。凌雲を病と言うなら、無欲病か金欠病とでも言うのだろう。
何気なく凌雲は中村菊之丞の事を聞いた。
「美沙殿、中村菊之丞と言う役者の話を知っているか?」
「私は興味ありませぬが、中々に人気がある役者と聞いています。菊様菊様って、皆さん黄色い声出すんですから。」
「そうか・・・。」
美沙が菊之丞を前にきゃあきゃあと黄色い声を出している様を想像すると、思わず笑みが零れた。
「何か可笑しいですか?」
何かを察したのか、ムスッとした面持ちになった美沙。それを見て、凌雲は慌てて取り繕った。美沙の鶏冠に血が上ると、何人たりとも手が付けられない。
「いいや、何でもない。」
何気ない話しをしながら歩いていると、黒塗りの駕籠とすれ違う。駕籠の中の者が凌雲たちとすれ違うと、「停めよ」と駕籠を止めた。駕籠から降りて来たのは、裃姿の侍。察するに、無用斎の息子である水谷蔵人であろう。
「貴殿が新しい医者か」
「蔵人様ですな?」
「会うのは初めてだったな。水谷蔵人だ。おぅ、随分と美形を連れておるな。」
ちらりと美沙に目をやり蔵人が言う、しかしその言葉には揶揄いの悪戯心もいやらしさも無かった。それを感じ取ったようで、美沙も嫌な顔はしなかった。
「手前の助手です。」
「左様か、頼もしいのう。ところで、父の様子はどうじゃな?」
「傷も治りつつありますし、少々脈が乱れてりますが異常はありませぬ。胃の腑も、だんだんと落ち着いております。」
「左様か、これからもめげずに来てやってくれ。」
「勿論、医者として見捨てる事は致しませぬ。蔵人様こそ、こうして日々御父上の加減を見舞いに来る。中々出来る事ではございませぬ。」
「そうかのぅ、金は受け取ったか?」
「はい、過分なる御礼を頂きました。」
「なら良い、何かの足しに致せ。」
気さくな笑みを浮かべ、頷きながら礼を言う蔵人。
ふいに蔵人は話題を変えた、山王町の一件だ。
「ご苦労であった、そう言えば山王町で相対死があったそうじゃの?」
「ご存じでしたか?」
「城中で阿部奉行がぼやいていた。」
「左様か。」
場所が場所だけに、噂が広まるのは早いようだ。
「何と由々しき事だ、其方が検死を引き受けたとか。」
「何やら疑惑があるようですが、後は町方の仕事です。」
「死骸の検視まで引き受けるとは、忙しい身よな。」
「お気遣いの御言葉、身に余る光栄。」
すると先程まで気さくな面持ちだった蔵人が、何やら悩げな面持ちになり呟いた。
「検死を引き受けた其方の耳には入れておいた方が良いだろうが、三島屋は財産没収の上闕所の沙汰が下るやもしれぬ。」
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「跡部殿か・・・。」
勘定奉行の地位にある跡部良弼は、公儀を取り仕切る筆頭老中の実弟と言う事もあってかその態度は傲慢不遜。周辺と諍いを起こすことが少なくなかった。在任中の大坂では米価が暴騰し、多くの者が餓死し、中には貧民が貧困層を妬み襲撃する打ち壊しも発生し多くの被害者を出した。良弼はこれに対してなんらの打開策を立てないばかりか、豪商らによる米の買い占めを傍観し、また、町奉行所の元与力で陽明学者、大塩平八郎が提案した救民計画を無視、江戸に米の廻送を命じたため、米価はますます高騰したと言われ、これが原因で、天保八年の大塩平八郎の乱の原因になったと言われてきた。良弼はその後ものらりくらり罷免の危機を避け、勘定奉行となった今でもその態度は改まっていない。
三島屋闕所を進言したのも、この跡部良弼である。
「して、その理由は?」
「理由はどうであれ、心中騒ぎを起こし江戸市中を混乱させた事は不届き至極との事だ。全く、難癖も良い所だ。逼迫の一途をたどる幕府財政を、どうにかして立て直したいのだろう。三島屋は相当な財産を持つ豪商、騒ぎを口実に全て奪い取ろうと言う腹積もりだろう。」
「だからと申して、江戸庶民を巻き添えにすると言うのは・・・。」
「解っておる・・・。だが、立場の違う儂にはどうにもならぬ。」
「左様か、一刻も早く町方には真相を究明して頂きたいものです。でなければ、三島屋があまりに気の毒。それに、三島屋に仕える店の者が路頭に迷ってしまうやも。」
「左様、鬼畜の所業じゃ。この所業は跡部殿の兄君、水野様にも言える事じゃ。」
兄である水野忠邦もまた、政の名を借りた悪行を繰り返している。あらゆる娯楽を禁ずる奢侈禁制を主とする天保の改革以前から、何かと理由を付けて領地替えや取り潰しを強行し、諸藩各所から大変な悪評を買っている。取り潰されれば、その土地に住む庶民にも累が及ぶ。これまで幾多の民が貧困に喘ぎ、涙を流した事だろうか。養子に出たとは言え同じような所業をする、血は争えない様だ。
「ああ、つまらぬ話に付き合わせてしもうたな。」
「いいえ、情報を入れて頂きありがとうございます。私はせいぜい、一介の医者として三島屋の行く末を影ながら見守る事に致しましょう。私にできるのは、この位ですからな。」
「うむ、それがよかろう。ではな・・・。」
「はい、失礼致します。」
こうして隠宅を後にした凌雲は、帰路に就く。
その道中も、蔵人から聞かされた歪んだ政策について憤りを感じていた。江戸庶民を何とも思わぬ政策の先に待つのは、不満を限界まで貯め爆発した庶民による反乱だ。江戸各地では打ちこわしが発生し、ついこの間には大阪で大塩の乱が勃発したばかりだ。事態は幕府軍により鎮圧したとされているが、反乱に連なる残党は今でもどこかへ潜伏し、次なる機会を虎視眈々と狙っている事だろう。
「美沙殿、寄り道をしても良いか?」
「解っています、居ても立っても居られないのでしょう?」
「話が早くて助かる。」
騒動の進捗が気になり、考えているうちに凌雲の足は竹島町へは行かず、呉服橋へ向かっていた。呉服橋を渡ると、そこは北町奉行所がある。勇五郎が与力として通う場所だ。
門番がまず、凌雲らの存在に気が付く。
「其方は?」
「高柳凌雲、北町奉行に御意を得たい。」
「見かけぬ男だな。」
奉行所関係者でなければ中へ入れない。門番は初めて凌雲を見るようで険しい面持ちで見つめる。すると奥の方より、聞き覚えのある声が聞こえた。
村垣伝助に絡まれた際、助け舟を出してくれた吟味方与力の神山平蔵だ。
「よぉ、凌雲先生じゃねえか。」
「これを神山様。」
「様なんか付けなくていい、何か用か?」
「ちょいと御奉行に用がな。」
「そうか、構わねえ。中へ入りな。内与力の蒲生さんに声を掛ければ、すぐに解るぞ。」
「有難い。」
奉行所の責任者の一人から許可を得て、凌雲と美沙は遠慮なく奉行所の中へと入って行く。そこまで奉行所の中に詳しい訳では無いが、何処に何があるかの察しは付く。暫く進んで行くと、平蔵が言っていた内与力の蒲生猪太夫とすれ違った。本来ならば見慣れぬ者を目の当たりにし、「何奴」と刀に手を掛けるぐらいの事は使用物だが、凌雲が何者かは解った様だ。
「其方が検死に協力してくれたと言う蘭医か?」
「高柳凌雲と申す、御奉行はおられるか?」
「この先の部屋にいるはずじゃ、御用繫多故に手短にな。」
猪太夫が指さす先に、奉行の邸宅につながる障子がある。戸の前で凌雲は中にいる金四郎を呼ぶ。
「御奉行、蘭医の高柳凌雲と申す。三島屋の一件について、お聞きしたき儀があり参上仕った。」
しかし中の反応はない。襖をゆっくりと開けると、中には人っ子一人いなかった。
声をかけても返りはない。美沙が不安げに周囲を見渡す。
「おかしいですね、急用かしら……。」
凌雲は無言で部屋に入り、鋭い眼光で机の上を走らせた。そこには、書きかけの公文書も、飲みかけの茶も残されていない。ただ、文机の端に、一枚の「役立たずの古紙」が、あえて捨て置かれたように残っていた。
「先生、これは・・・。」
満開の桜の木の下で、一羽の「鶴」と、一匹の「亀」が向かい合い、楽しげに盃を交わしている、その上で劉が天を飛んでいる落書き。
「……何よこれ。お忙しいのに落書きなんて。しかも鶴と亀に天空の龍っておめでたいけど、子供の絵みたいじゃない。」
美沙が呆れた声を出すが、凌雲の口元には微かな笑みが浮かんだ。
「いや、美沙殿。これは『お遊び』じゃない。金四郎様からの火急の文だ。……鶴と亀、そして桜に天竜。これらが揃う場所は、江戸に一つしかない」
その絵を見て、金四郎がどこにいるのか理解出来た。どうやら、此処で待っていると言う暗号であるらしい。
そう思いながら、懐にその絵を入れ部屋を後にすると猪太夫が声を掛けて来た。
「何じゃ、もう済んだのか?」
「うむ、所用もありますればこれで。」
そう言うと凌雲は、足早に奉行所を後にし、落書きで示された場所まで向かった。凌雲が去った後で、猪太夫が金四郎奉行が失踪した事を知り大騒ぎになったのは言うまでもない。
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