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第149話 セイルとカスクート
★補足
※アロン→アッシュの兄・セイルの義兄
※サリ→アロンの妻
※ランゼ→アッシュの妹・セイルの義妹
※ジャン→ランゼの旦那。スパティフィラム侯爵家長男・現当主
セイルは、昨夜のアッシュの執拗なまでの腰使いを思い出し、不意に頬を朱に染めた。歩くたびに太腿の付け根に微かな怠さが走り、足元がどこか浮ついている。
真昼になる少し前、エリンジューム侯爵邸の廊下を進み、予定していた打ち合わせのため、セイルは義兄アロンの執務室の扉を静かに叩いた。
「まず、話を進める前提として。ジャン様には、俺の口から直接お伝えしなければならないことがございます」
「……伝えなければならないこと?」
ジャンの怪訝そうな表情に、セイルは真っ直ぐな視線を返した。
「他言無用でお願いいたします」と前置きし、セイルは自身がこの世界の住人ではない「異世界転移者」であること、水・火・光の魔法がマスターランクであること。さらには食材生成魔法や錬金魔法、転移魔法まで使いこなせる事実を淡々と、しかし誠実に告げた。
既に事情を知っているアロンも、改めてセイルの口から語られるその規格外な力の全貌に、微かな身震いを禁じ得ないようだった。
「……以前、ジャン様は俺のことを『天才』だと仰ってくださいましたね。ですが、実はそうではないんです。俺が見せているものは、元の世界で先人たちが積み上げた努力や知識を再現しているだけに過ぎません」
「にわかには信じがたいが……。君が、そのような質の悪い冗談を言うタイプではないことも分かっている……」
ジャンが言葉を飲み込んだのを見届け、セイルはゆっくりと瞼を閉じた。
精神を集中させると、足元から白銀の魔法陣が鮮やかに展開される。執務室の空気が一変し、桜の花びらのような魔力の粒子が、幻想的な花吹雪となって室内を舞い踊った。
「これは……! なんという美しさだ……」
ジャンが驚嘆に目を見開く。粒子は三人が囲むテーブルの上へと収束し、音もなく弾けた。光が収まったあとには、この季節、この土地では手に入らないはずの瑞々しいバナナやリンゴ、芳醇な香りを放つ果実が山盛りになって現れていた。
「これが、俺の『食材生成魔法』です」
セイルは穏やかに微笑んだ。ジャンはその瑞々しい果実の一つを手に取り、信じられないものを見るような目で凝視した。指先に伝わる確かな重みと、部屋中に広がる甘い香りが、これが幻影ではないことを証明している。
「……参ったな。魔法の概念を根底から覆された気分だ。これほど高密度の魔力を、微塵の乱れもなく制御して『物質』に変えるなど……」
ジャンは感嘆のため息をつき、セイルを改めて見つめた。そこには、単なる「義弟」に対する親しみだけでなく、底知れない存在への畏敬の念が混じっている。
「セイル君、君は自分がどれほどの影響力を持っているか自覚しているかい? この力が公になれば、国同士の均衡さえ揺るぎかねない」
「はい。ですから、信頼できる方にしかお話ししていません。ジャン様は以前、俺がジャン様の子供達に贈った『絵本』に興味を持たれ、真摯にその有用性を世間に広めようとしてくれてます。なにより、ランゼちゃんの旦那さんですからね。悪い人であるはずが、ありません」
セイルの屈託のない信頼の言葉に、ジャンは一瞬呆然とした後、苦笑して首を振った。
「君という人は……。そのお人好しなところが、アッシュをあそこまで狂わせるんだろうな」
「……狂わせる、ですか?」
アロンが横から口を挟む。
「ああ、あいつの独占欲は身内から見ても凄まじい。君を隠したがる理由が、今ようやく骨の髄まで理解できたよ。これほどの宝を、外に出しておきたくないはずだ」
「それは……違います。アッシュは逆に、俺が大きな力を使うと、眉を顰めて心配し、時には怒るんですよ。俺自身が壊れてしまわないか、誰かに利用されないかって」
セイルは少し困ったように、けれど愛おしそうに目を細め俯いた。
「……全く。あいつの過保護も、今の話を聞けば納得どころか、むしろ足りないくらいだ」
ジャンは手の中のリンゴを愛おしそうに眺め、それから真剣な面持ちでセイルに向き直った。
「わかった。セイルくん、私を信頼してくれてありがとう。義兄の一人として、君の力の事は誓って他言しない。……だが、一つだけ約束してほしい。この力は、君自身の幸せのために使ってくれ。国益や義務感に押しつぶされて、君のその穏やかな微笑みが消えるようなことがあっては、アッシュに殺されてしまうからね」
ジャンが冗談めかして肩をすくめると、セイルはふふっと喉を鳴らして笑った。
「はい。アッシュを怒らせない程度に、ボチボチやっていきます」
「さて、秘密の共有はこのくらいにして……本題に入ろうか、セイル」
それまで静かに二人のやり取りを見守っていたアロンが口を開いた。
「何か俺とジャンに、仕事の話をしたいとか…」
「はい。その前に、兄さん達に昼食も兼ねてリメインの試作品を食べて欲しいのですが」
『兄さんたち』。
その響きに、アロンは微かに目尻を下げ、ジャンはどこか誇らしげに胸を張った。セイルがエリンジューム家の一員として、そして家族として自分たちを頼ってくれることが、彼らにはたまらなく嬉しいのだ。
「とりあえず俺の部屋に来ていただけますか?」
セイルの言葉にアロンは口角をあげた。
「ふふ、セイル、『アレ』か」
「あれ……?」
「……転移門とは、驚いたな。ここがリメイン……、セイルとアッシュの愛の巣なのか」
セイルに連れられて、セイルとアッシュの私室にある転移扉からリメイン二階、住居部に訪れたジャンは驚きに声をあげた。
キョロキョロと住居部を見回していると、階下から香ばしい香りが昇ってきた。
「執務室に行く前にパンを窯に仕込んでいたんですよ。ちょうど頃合いですね。下に行きましょう。住居部から店舗に抜ける扉の外に履き物が有るので、スリッパから履き替えて下さい」
階段を降りながらセイルが促すと、ジャンとアロンは物珍しそうに視線を交わす。扉を抜け、用意されたサンダルに足を通した。
店舗内は鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが立ち込めており、小麦が焼き上がる、抗いようのない幸せな香りに満ちていた。
厨房に入ると、セイルは迷いのない動きで大きな石窯の前へと進んだ。手慣れた動作でピールを差し込み、中から黄金色に輝くバゲットを次々と取り出していく。
「……セイル、そのパンは魔法で錬成したものではないのか?」
アロンが不思議そうに尋ねた。セイルの食材生成魔法を知っている身からすれば、わざわざ窯で焼く手間を省けるはずだと思ったからだ。セイルは焼き上がったパンの爆ぜる音に耳を傾けながら、穏やかに首を振った。
「開店当初は、時間短縮のために魔法でパンそのものを錬成していたこともありました。ですが、窯を作ってからは……やはり、こうして火を通して焼き上げるのが一番だと思い至りまして。魔法で出した瑞々しい小麦を、この世界の火で焼き上げる。手間はかかりますが、焼きたてに勝るものはありませんから」
「なるほど、こだわりというわけか。職人だな」
ジャンが感心したように声を漏らす。セイルは作業台に向かうと、目にも止まらぬ速さでナイフを動かし始めた。
「セイルが料理する姿を初めて見たが……。淀みがないな。正に料理人の手だ」
ジャンの言葉通り、セイルの指先は驚くほどしなやかで正確だった。
まず、表面がパリッと鳴るバゲットを斜め一文字に割り、断面に自家製のバターをたっぷりと塗る。そこへ、魔法で生成したばかりの濃緑のレタス、厚切りのフレッシュトマト、そして真っ白なモッツァレラチーズを重ねてジェノバソースを掛けていく。
「こちらは『トマトジェノベーゼカスクート』。カスクートとはこういったバゲットで作られたサンドウィッチの総称です」
手際よく三等分に切って並べると、次はもう一種類。今度はリーフレタスに熟成されたプロシュート、生ハムとロースハムを贅沢に重ね、乾燥イチジクを挟んだ。
「こちらは『ハムとイチジクのカスクート』。塩気と甘みの調和を楽しんでいただけると思います」
二人の前に並べられたのは、宝石のように色鮮やかなサンドウィッチ。そして香り穏やかな野菜スープが添えられた。
「……壮観だな。食べるのが惜しいほどだ」
ジャンが感嘆の声を漏らし、カスクートを手に取る。
「遠慮なく召し上がってください。温かいうちに」
セイルに促され、二人はまず『トマトジェノベーゼカスクート』に手を伸ばした。
バリッ、と小気味よい音が店内に響く。
「……っ! なんだ、この食感は。外側は驚くほど軽やかなのに、中はもっちりとしていて……。それに、このトマトの濃さはどうだ。魔法で生成したと言われなければ、最高級の農園で今朝摘んできたものだと信じて疑わないよ」
ジャンが目を見開いて咀嚼する横で、アロンも深く頷いた。
「バジルの香りが鼻を抜けるな。セイル、このソースの配合も君が考えたのか?」
「はい。以前の世界で親しまれていた味を、こちらの調味料で再現してみました。エリトロ領のオリーブオイルは質が良いので、助かっています」
続いて二人は『ハムとイチジクのカスクート』へ。
生ハムの鋭い塩気と、乾燥イチジクの凝縮された甘みが口の中で溶け合う。複雑でいて完成されたその味わいに、ジャンは思わず天を仰いだ。
「……参った。これは貴族の晩餐会に出されてもおかしくないクオリティだ。だが、この『手軽さ』がリメインの真骨頂なのだろう? 騎士たちが任務の合間にこれを頬張る姿が目に浮かぶよ」
セイルは二人の反応に安堵し、自身もスクートを口に運んだ。
※作者勘違いしてまして、『妹の旦那は年上だろうと義弟になる』という事を知らなかったので(汗)、セイルが25歳・ジャンが27歳の設定なので、セイルは「ジャン兄さん」と呼んでますが、この話以降の大量のストック全てが「ジャン兄さん」呼びしてますので、このまま行かせて頂きます。異世界モノという事で(汗)。申し訳ありません。
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