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綻び(3)―触れられない不安
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「気持ちいいの?でもダメ、まだイかせてあげない」
桜那は目の前の男優ごしに、カメラを見据えた。
撮影中は相変わらずの集中力で、目線や表情、声を意識し、柔らかい体をくまなく動かして魅せ場を作る。
「……あっ!ああん!」
喘ぎながら目を閉じると、ふと初めて宏章に出会った時の事が頭を過った。
「どのコマも表情意識して美しく魅せているところとか、本当にプロだなって思ったよ!」
ビデオの感想を尋ねた時の、宏章の台詞。
……あの時はああ言ってくれたけど、今はどう思ってるのかな?
全く平気な訳じゃないだろう。平気だと思われているのなら嫌だし、悲しくもあった。だが最近はむしろ、あの時の台詞のまま今もそう思っているのなら、少しは後ろめたさもなくなる……そんな風に思い始めていた。
男優相手にフェラをしていても、まったく何にも感じない。まるでゴム製の張形を咥えているみたいだ。挿入されようと同じだ。体温も、肌の感触も、何もかもが遠い。
自分もまた、よく出来たラブドールの様だ。生身の人間になれるのは、宏章としている時だけ。
口内に舌を押し入れられた時の生温かさ、中で絶頂を迎えた時の脈打つ粘膜……それを感じた時、初めて生きている実感が湧いた。
……宏章はいつも、私を「一人の人間」として尊重してくれるから。
どう動いて、どう声を出せばいいか分かる。どう魅せれば、男達を悦ばせられるのかも。
だけど、宏章の心だけは分からない。
すべてを曝け出して、もう失うものなど何もないと思っていた。文字通り、裸一貫からのスタートだ。怖いものなど、何ひとつないと思っていたのに……。
……今は、宏章の本心を知るのが怖い。
……宏章を失う事が、ただただ怖い。
長丁場の撮影を終え、複雑な気持ちを抱えたまま自宅へ戻る。
キッチンへ向かい、気を紛らわすように一人ワインボトルを開けた。
頭を抱えて、疲労のため息をつく。
結局その晩はそのまま飲み続け、気づけばいつの間にかテーブルで寝落ちしていた。
目を覚まして傍らの携帯に手を伸ばすと、宏章から今月のスケジュールがメールで送られてきていた。桜那は笑顔になり、手帳でスケジュールを確認する。
『日曜の夜には会えそうだよ♡どうかな?』
宏章からすぐに返事が来た。
『OK、日曜は早く帰れそうだよ。桜那、早く会いたい』
桜那は嬉しそうにふふっと笑い、携帯を握りしめた。
……今週も頑張ろう。
いよいよ待ち侘びていた日曜を迎えた。
桜那は仕事を終えて帰宅するが、一向に食欲が湧いてこない。酒のつまみになりそうな惣菜を数点、とりあえず買ったのみで何も用意していなかった。
桜那が冷蔵庫を開けて何を作ろうか思いあぐねいていると、チャイムが鳴った。
急いで解錠して、笑顔で宏章を出迎えた。
「いらっしゃーい!早かったね。私も今帰ったとこだよ」
「ああ、ごめん。なんか思ったより早く着いちゃって……」
宏章が済まなそうに言うと、桜那はすかさず首を横に振った。
「ううん、早く宏章に会いたかったから嬉しいよ。ごめんね、まだご飯の支度できてなくて……」
そう言いかけた桜那は、どことなく疲れて見えた。
「桜那、座ってなよ。俺が飯作るから。冷蔵庫開けていい?」
「え?でも宏章仕事帰りで疲れてるでしょ?」
「それは桜那も同じだろ。いつも作ってもらってるし、今日は休んでなよ」
宏章はそう言って、桜那の頭に優しく手を置いた。
「じゃあ今日はお言葉に甘えちゃおうかな。ありがと」
桜那はブランケットに包まり、ソファに腰掛ける。手際良く調理する宏章の後ろ姿を見ていると、なんだか安心して心休まるのを感じた。
宏章は調理を終えて、鍋をテーブルへ運ぶ。桜那へ視線を向けると、すうすうと寝息を立てていた。
しゃがみ込んで手を伸ばし、そっと髪に触れる。
桜那がゆっくり瞼を開いた。
「ごめん、起こしたね。飯出来たけど食べる?」
桜那は目を擦って、小さく頷いた。その仕草が子どものようで、宏章は庇護欲を掻き立てられた。
桜那もまた、宏章の優しさに甘えていた。子どもの頃欲しくても得られなかった安らぎを、無意識のうちに宏章へ求めていたのだ。
「いい匂い……何作ったの?」
「塩野菜タンメン!すぐ出来るし、麺にした」
「私ラーメン大好き!最近食べてなかったから嬉しいよ!」
桜那は立ち上がり、買っておいた惣菜をテーブルに並べ始めた。
宏章はふっと小さく笑ってテーブルに腰掛け、ラーメンをよそう。お椀を桜那に手渡すと、桜那は両手で受け取って満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、宏章!いただきまーす」
美味しそうに頬張る桜那を見て、宏章が安堵したのも束の間、桜那がワインを開け始めた。
桜那は宏章が作ったタンメン以外、ほとんど食事に手をつけずに酒ばかり飲んでいた。
「桜那、食べないの?」
宏章が心配そうに尋ねる。
「あんまりお腹空いてないから。宏章は遠慮なく食べて」
桜那は笑顔で答えた。
宏章はここのところ桜那の酒量が増えている事が気になっていた。いつも自分が一緒の時は、さりげなくストップをかけていた。
「桜那、俺やっぱり今日泊まってもいいかな?朝早くに出るからさ」
「ほんと?嬉しい!」
桜那は嬉しそうにパッと顔を上げた。
明日は早くから仕事だと聞いていたので、宏章は泊まらずに帰るつもりだったが、やはり心配で朝まで側にいる事にしたのだ。
「じゃあ一緒にお風呂入ろうよ!」
桜那が唐突に言い出し、恥じらいから宏章は慌てふためいた。
「えっ!それはちょっと……」
「えぇ~!何でよ?」
「いや、ほらなんかまだ慣れないし……」
「慣れないって……、あんだけシといて?」
桜那が呆れながら、何言ってんだとばかりに不思議そうな顔をした。
「それとこれとは別だろ?」
宏章が照れ交じりに答えると、桜那はため息をついて、寂しそうにむうっと頬を膨らました。その顔を見て、宏章はいよいよ根負けした。
「分かったよ」
桜那はパッと目を開き、勢いよく体を起こした。
「じゃ!準備してくる」
桜那は上機嫌でバスルームへ向かった。
しばらく待っていると、呼び出し音が鳴った。
宏章はバスルームへ向かい、緊張気味にドアを開けた。
「今日はすぐ来てくれたね!」
「うん……」
宏章は言葉少なに返事して、照れ隠しに目を伏せた。
桜那の身体は何度も見ているのに、いまだに見慣れない。
桜那はまた前と同じくピンクに染まったお湯に浸かっていた。
相変わらずすっぴんでも美しく、濡れた髪や素肌、まつ毛を見ていたら体が次第に反応してきた。悟られまいと、宏章は速やかに洗髪して湯船に体を沈める。すると入浴剤のいい香りが漂って来た。
「この入浴剤いい香りだね。なんの香り?」
宏章が尋ねると、「ああ、これ?」と言って桜那は傍に置いてあった入浴剤の瓶を手に取った。
「チェリーブロッサムだって。でも桜の香りじゃなくて、チェリー、ピーチ、カシス、バニラ……色々混ざってるみたい。これ一番好きな香りなの!」
宏章は両手でお湯を掬って顔を近づけた。
「桜那の香りがする……さくらの香り。俺は桜を見る度に、桜那の事思い出すんだろうな」
桜那がにっこりと微笑んだ。
「春になったらお花見行こうよ。毎年一緒に見れたらいいな」
二人は顔を見合わせて笑った。
桜那が入浴後はスキンケアに時間がかかると言うので、宏章は先に上がりソファに腰掛けて待っていた。
一人になると、先程の桜那の様子が頭を擡げた。
……やっぱり仕事の事で焦りがあるのかな。
実際の所、桜那の仕事は順調そのものだった。昨年末に、桜那が有料チャンネルのアダルト部門最優秀女優賞に選ばれて、それこそAV女優としては、相変わらずの人気を誇っていた。だけど、桜那のゴールはそこじゃない。それは側で見ていて宏章は充分分かっていた。でも自分には側にいて、せいぜい話を聞いてやる事くらいしか出来ない。もっとも話を聞いたとて、自分は何のアドバイスも出来ないし、励みにもならない事も分かっていた。
宏章はそんな事を考えながら、やるせない気持ちでいた。
「おまたせ」
入浴を終えた桜那が何かを手にして戻ってきた。
「宏章、明日休みでしょ?今日は夜更かしして映画観ようよ。これ、私が一番好きな映画なの。今度この監督のオーディション受けるんだ!」
桜那は手にしていたDVDを嬉しそうに見せる。『Honey Kiss me Honey』というタイトルの映画だった。
「へぇ、どんな話なの?」
宏章が尋ねる。
「それは、見てからのお楽しみ!高校の時にこの映画初めて見たんだけど、ストーリーはもちろん映像も雰囲気も、何もかもが素敵で!もう夢中になっちゃって!それからもう何回見たかも分かんないくらい!セリフも全部覚えてね!それくらい私には思い入れのある映画なの!」
桜那は興奮しながら熱く語ると、ブランケット片手にソファへ腰掛け、DVDをセットして再生ボタンを押した。
桜那が好きだと言ったその映画は、羽仁衣という名の少女が、兄に恋をするという近親相姦をモチーフにした映画だった。ショッキングな題材に対して、二人の日常が淡々と綴られつつ、徐々に関係が綻んでいく様が描かれていた。物語は大きな起伏もなく緩やかに進んでいくが、映像や所々に挿入される音楽が独特の美しさを放ち、気がついたら引き込まれていた。
ふと横目で桜那を眺めると、目を潤ませながら真剣に見入っていた。
映画の主人公がどことなく桜那と重なって見えて、宏章はこの監督の映画で桜那を見てみたいと思った。
映画を見終わっても、桜那はしばらく物語の余韻に浸っていた。感嘆のため息を漏らし、「あぁ、やっぱりいつ見ても素敵だな……」と呟いた。
「いやぁ、俺も引き込まれちゃったよ!普段恋愛映画って観ないんだけど、すごい良かった。俺も好きだなこの映画」
「でしょ!」
桜那は得意げに、きゃっきゃとはしゃいだ。
「この映画の主人公、桜那と雰囲気が似てるよね。俺、この監督の映画で桜那を見てみたいな……」
宏章は心からそう思っていた。幻想的な映像の中、憂いを帯びた眼差しで立ち尽くす桜那のイメージが浮かんでいた。
「本当?嬉しい!この監督の映画に出る事がずっと夢だったの!またとないチャンスだもん、頑張るね!」
夢を語る桜那の笑顔は、キラキラと輝いてより一層美しさを増していた。
「オーディションいつなの?」
「一か月後!この次こそは絶対に取りたいの……、やってみせるよ!」
桜那の気迫に宏章は圧倒されたが、どこか不安そうでもあった。どうしてもという強い願望の裏返しなのだろう。このオーディションにかける強い意気込みが、ひしひしと伝わってきた。
宏章は桜那の頭にポンと優しく手を置いた。
「桜那なら出来るよ」
宏章は煽てるでも気休めでもなく、心からそう思っていた。
「ありがとう宏章……キスして。そうしたら、もっと頑張れるから……」
桜那にキスをせがまれ、宏章が顔を近づける。桜那はゆっくり瞼を閉じた。
宏章に励まされて、桜那は役に賭ける気持ちをより一層強くしたのだった。
桜那は目の前の男優ごしに、カメラを見据えた。
撮影中は相変わらずの集中力で、目線や表情、声を意識し、柔らかい体をくまなく動かして魅せ場を作る。
「……あっ!ああん!」
喘ぎながら目を閉じると、ふと初めて宏章に出会った時の事が頭を過った。
「どのコマも表情意識して美しく魅せているところとか、本当にプロだなって思ったよ!」
ビデオの感想を尋ねた時の、宏章の台詞。
……あの時はああ言ってくれたけど、今はどう思ってるのかな?
全く平気な訳じゃないだろう。平気だと思われているのなら嫌だし、悲しくもあった。だが最近はむしろ、あの時の台詞のまま今もそう思っているのなら、少しは後ろめたさもなくなる……そんな風に思い始めていた。
男優相手にフェラをしていても、まったく何にも感じない。まるでゴム製の張形を咥えているみたいだ。挿入されようと同じだ。体温も、肌の感触も、何もかもが遠い。
自分もまた、よく出来たラブドールの様だ。生身の人間になれるのは、宏章としている時だけ。
口内に舌を押し入れられた時の生温かさ、中で絶頂を迎えた時の脈打つ粘膜……それを感じた時、初めて生きている実感が湧いた。
……宏章はいつも、私を「一人の人間」として尊重してくれるから。
どう動いて、どう声を出せばいいか分かる。どう魅せれば、男達を悦ばせられるのかも。
だけど、宏章の心だけは分からない。
すべてを曝け出して、もう失うものなど何もないと思っていた。文字通り、裸一貫からのスタートだ。怖いものなど、何ひとつないと思っていたのに……。
……今は、宏章の本心を知るのが怖い。
……宏章を失う事が、ただただ怖い。
長丁場の撮影を終え、複雑な気持ちを抱えたまま自宅へ戻る。
キッチンへ向かい、気を紛らわすように一人ワインボトルを開けた。
頭を抱えて、疲労のため息をつく。
結局その晩はそのまま飲み続け、気づけばいつの間にかテーブルで寝落ちしていた。
目を覚まして傍らの携帯に手を伸ばすと、宏章から今月のスケジュールがメールで送られてきていた。桜那は笑顔になり、手帳でスケジュールを確認する。
『日曜の夜には会えそうだよ♡どうかな?』
宏章からすぐに返事が来た。
『OK、日曜は早く帰れそうだよ。桜那、早く会いたい』
桜那は嬉しそうにふふっと笑い、携帯を握りしめた。
……今週も頑張ろう。
いよいよ待ち侘びていた日曜を迎えた。
桜那は仕事を終えて帰宅するが、一向に食欲が湧いてこない。酒のつまみになりそうな惣菜を数点、とりあえず買ったのみで何も用意していなかった。
桜那が冷蔵庫を開けて何を作ろうか思いあぐねいていると、チャイムが鳴った。
急いで解錠して、笑顔で宏章を出迎えた。
「いらっしゃーい!早かったね。私も今帰ったとこだよ」
「ああ、ごめん。なんか思ったより早く着いちゃって……」
宏章が済まなそうに言うと、桜那はすかさず首を横に振った。
「ううん、早く宏章に会いたかったから嬉しいよ。ごめんね、まだご飯の支度できてなくて……」
そう言いかけた桜那は、どことなく疲れて見えた。
「桜那、座ってなよ。俺が飯作るから。冷蔵庫開けていい?」
「え?でも宏章仕事帰りで疲れてるでしょ?」
「それは桜那も同じだろ。いつも作ってもらってるし、今日は休んでなよ」
宏章はそう言って、桜那の頭に優しく手を置いた。
「じゃあ今日はお言葉に甘えちゃおうかな。ありがと」
桜那はブランケットに包まり、ソファに腰掛ける。手際良く調理する宏章の後ろ姿を見ていると、なんだか安心して心休まるのを感じた。
宏章は調理を終えて、鍋をテーブルへ運ぶ。桜那へ視線を向けると、すうすうと寝息を立てていた。
しゃがみ込んで手を伸ばし、そっと髪に触れる。
桜那がゆっくり瞼を開いた。
「ごめん、起こしたね。飯出来たけど食べる?」
桜那は目を擦って、小さく頷いた。その仕草が子どものようで、宏章は庇護欲を掻き立てられた。
桜那もまた、宏章の優しさに甘えていた。子どもの頃欲しくても得られなかった安らぎを、無意識のうちに宏章へ求めていたのだ。
「いい匂い……何作ったの?」
「塩野菜タンメン!すぐ出来るし、麺にした」
「私ラーメン大好き!最近食べてなかったから嬉しいよ!」
桜那は立ち上がり、買っておいた惣菜をテーブルに並べ始めた。
宏章はふっと小さく笑ってテーブルに腰掛け、ラーメンをよそう。お椀を桜那に手渡すと、桜那は両手で受け取って満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、宏章!いただきまーす」
美味しそうに頬張る桜那を見て、宏章が安堵したのも束の間、桜那がワインを開け始めた。
桜那は宏章が作ったタンメン以外、ほとんど食事に手をつけずに酒ばかり飲んでいた。
「桜那、食べないの?」
宏章が心配そうに尋ねる。
「あんまりお腹空いてないから。宏章は遠慮なく食べて」
桜那は笑顔で答えた。
宏章はここのところ桜那の酒量が増えている事が気になっていた。いつも自分が一緒の時は、さりげなくストップをかけていた。
「桜那、俺やっぱり今日泊まってもいいかな?朝早くに出るからさ」
「ほんと?嬉しい!」
桜那は嬉しそうにパッと顔を上げた。
明日は早くから仕事だと聞いていたので、宏章は泊まらずに帰るつもりだったが、やはり心配で朝まで側にいる事にしたのだ。
「じゃあ一緒にお風呂入ろうよ!」
桜那が唐突に言い出し、恥じらいから宏章は慌てふためいた。
「えっ!それはちょっと……」
「えぇ~!何でよ?」
「いや、ほらなんかまだ慣れないし……」
「慣れないって……、あんだけシといて?」
桜那が呆れながら、何言ってんだとばかりに不思議そうな顔をした。
「それとこれとは別だろ?」
宏章が照れ交じりに答えると、桜那はため息をついて、寂しそうにむうっと頬を膨らました。その顔を見て、宏章はいよいよ根負けした。
「分かったよ」
桜那はパッと目を開き、勢いよく体を起こした。
「じゃ!準備してくる」
桜那は上機嫌でバスルームへ向かった。
しばらく待っていると、呼び出し音が鳴った。
宏章はバスルームへ向かい、緊張気味にドアを開けた。
「今日はすぐ来てくれたね!」
「うん……」
宏章は言葉少なに返事して、照れ隠しに目を伏せた。
桜那の身体は何度も見ているのに、いまだに見慣れない。
桜那はまた前と同じくピンクに染まったお湯に浸かっていた。
相変わらずすっぴんでも美しく、濡れた髪や素肌、まつ毛を見ていたら体が次第に反応してきた。悟られまいと、宏章は速やかに洗髪して湯船に体を沈める。すると入浴剤のいい香りが漂って来た。
「この入浴剤いい香りだね。なんの香り?」
宏章が尋ねると、「ああ、これ?」と言って桜那は傍に置いてあった入浴剤の瓶を手に取った。
「チェリーブロッサムだって。でも桜の香りじゃなくて、チェリー、ピーチ、カシス、バニラ……色々混ざってるみたい。これ一番好きな香りなの!」
宏章は両手でお湯を掬って顔を近づけた。
「桜那の香りがする……さくらの香り。俺は桜を見る度に、桜那の事思い出すんだろうな」
桜那がにっこりと微笑んだ。
「春になったらお花見行こうよ。毎年一緒に見れたらいいな」
二人は顔を見合わせて笑った。
桜那が入浴後はスキンケアに時間がかかると言うので、宏章は先に上がりソファに腰掛けて待っていた。
一人になると、先程の桜那の様子が頭を擡げた。
……やっぱり仕事の事で焦りがあるのかな。
実際の所、桜那の仕事は順調そのものだった。昨年末に、桜那が有料チャンネルのアダルト部門最優秀女優賞に選ばれて、それこそAV女優としては、相変わらずの人気を誇っていた。だけど、桜那のゴールはそこじゃない。それは側で見ていて宏章は充分分かっていた。でも自分には側にいて、せいぜい話を聞いてやる事くらいしか出来ない。もっとも話を聞いたとて、自分は何のアドバイスも出来ないし、励みにもならない事も分かっていた。
宏章はそんな事を考えながら、やるせない気持ちでいた。
「おまたせ」
入浴を終えた桜那が何かを手にして戻ってきた。
「宏章、明日休みでしょ?今日は夜更かしして映画観ようよ。これ、私が一番好きな映画なの。今度この監督のオーディション受けるんだ!」
桜那は手にしていたDVDを嬉しそうに見せる。『Honey Kiss me Honey』というタイトルの映画だった。
「へぇ、どんな話なの?」
宏章が尋ねる。
「それは、見てからのお楽しみ!高校の時にこの映画初めて見たんだけど、ストーリーはもちろん映像も雰囲気も、何もかもが素敵で!もう夢中になっちゃって!それからもう何回見たかも分かんないくらい!セリフも全部覚えてね!それくらい私には思い入れのある映画なの!」
桜那は興奮しながら熱く語ると、ブランケット片手にソファへ腰掛け、DVDをセットして再生ボタンを押した。
桜那が好きだと言ったその映画は、羽仁衣という名の少女が、兄に恋をするという近親相姦をモチーフにした映画だった。ショッキングな題材に対して、二人の日常が淡々と綴られつつ、徐々に関係が綻んでいく様が描かれていた。物語は大きな起伏もなく緩やかに進んでいくが、映像や所々に挿入される音楽が独特の美しさを放ち、気がついたら引き込まれていた。
ふと横目で桜那を眺めると、目を潤ませながら真剣に見入っていた。
映画の主人公がどことなく桜那と重なって見えて、宏章はこの監督の映画で桜那を見てみたいと思った。
映画を見終わっても、桜那はしばらく物語の余韻に浸っていた。感嘆のため息を漏らし、「あぁ、やっぱりいつ見ても素敵だな……」と呟いた。
「いやぁ、俺も引き込まれちゃったよ!普段恋愛映画って観ないんだけど、すごい良かった。俺も好きだなこの映画」
「でしょ!」
桜那は得意げに、きゃっきゃとはしゃいだ。
「この映画の主人公、桜那と雰囲気が似てるよね。俺、この監督の映画で桜那を見てみたいな……」
宏章は心からそう思っていた。幻想的な映像の中、憂いを帯びた眼差しで立ち尽くす桜那のイメージが浮かんでいた。
「本当?嬉しい!この監督の映画に出る事がずっと夢だったの!またとないチャンスだもん、頑張るね!」
夢を語る桜那の笑顔は、キラキラと輝いてより一層美しさを増していた。
「オーディションいつなの?」
「一か月後!この次こそは絶対に取りたいの……、やってみせるよ!」
桜那の気迫に宏章は圧倒されたが、どこか不安そうでもあった。どうしてもという強い願望の裏返しなのだろう。このオーディションにかける強い意気込みが、ひしひしと伝わってきた。
宏章は桜那の頭にポンと優しく手を置いた。
「桜那なら出来るよ」
宏章は煽てるでも気休めでもなく、心からそう思っていた。
「ありがとう宏章……キスして。そうしたら、もっと頑張れるから……」
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