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2章 アンジェラス1は軍部で活躍します

アードリアの心情

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私には、兄様がいた。
病弱だけど、誰よりも心優しい兄様が。

誰にも甘えることのできない私を、兄様だけが甘えさせてくれた。
頭を撫でてくれる手がとても温かくて好きだった。

でも、兄様は突然死んでしまった。
前日までは、元気だったのに。安らかに息を引き取っていたのだ。

とても悲しくて、泣き叫んだけれど周りは死んで当然だと兄様を罵っていた。
役立たずだって、私の邪魔になるから死んでくれてよかったと、両親でさえ言っていた。

それが信じられなくて、嘘だって誰かに否定して欲しくて、色々と聞いて回ると使用人からも蔑まれ、食事も質素なもので、私といる時以外は酷い扱いを受けていた事を知った。

両親からは、ストレスの吐口されて時には病弱であるにも関わらず殴られて。
私は何も知らずに、兄様に甘えてどんな気持ちで頭を撫でてくれていたのだろう。

もう謝ろうとしても、遅くて。
泣きたくても、周りはそれを許してくれなくて。

だから、見返そうと思った。
いや、正確には復讐しようと思ったのだ。

どんな手を使ってでも、当主になって両親を蹴落とす。
そして、奴隷の様にこき使ってやる。もちろん、他の使用人達も。

だから、力でなんでも出来ると心の底から信じている両親に疑われない様に暴力的でプライドの高い衛将軍三公格大将えいしょうぐんみつひろかくたいしょうアードリア・エースを演じきっていた。

大将軍たいしょうぐんにまで成り上がることが出来たら、未成年でも親元を離れることが出来る。
それを目指して評判が悪くとも努力だけは怠らずに必死に踠いて来た。

だというのに、あの少女が私の計画を狂わせた。

突然現れたアンジュという少女は、癇に触る様な言葉を使って、どんなふうに付け入ったのか大将軍たいしょうぐんの地位をフェリックスから受け継いでいた。

フェルという可愛い犬を口図に、観察するために近づいた。
アンジュは、なかなかに暴力的で人の気持ちを考えない、かなりの曲者だったが実力だけは本物だった。

努力なんてしたことのない様な綺麗な手をしていた。
私の手は、ボロボロなのに。

それがとても悔しかった。私は天才だと言われていたけれど、本当はただの秀才止まりだった事を知っていた。

だから、目の前の圧倒的な天才に殺意が湧いた。
今までの努力を馬鹿にされた様で、悔しくてたまらなかった。
アンジュ自体に、非がない事は知っていたけれど、それでも許せなかった。

こんなにも私は苦しんでいるのに平然としているアンジュが。

だから、模擬戦は良い機会だった。
今までのストレスの吐口として使わせてもらった。
あわよくば、殺してやろうと思って。

でも、アンジュの心は完全には折れなかった。
いつの間に絆を深めていたのか、部下の無礼とも取れる言葉で澱んでいた瞳に光が灯ったのだ。

明らかに雰囲気が変わり、勝てないと本能でわかった。
次元が違う、何となく同じ獣人でさえないと思った。

元々、ものすごく綺麗な少女だったが容姿にふさわしく美しいミニドレスを身につけると神々しく思えた。

容姿も実力も何もかもが完全に負けた。

後は、もう蹂躙される一方で何をしても弾き返されて全く同じことをされた。
ただ違うところといえば、ストレスの吐口にされなかった事くらいか。

ボロボロに負けて、家に帰ると両親から物凄く罵られた。

陛下から既に衛将軍三公格大将えいしょうぐんみつひろかくたいしょうの地位は返上されていた様で、もう大激怒だった。

でも、心は酷くすっきりしていた。
社交界で、これから笑い物になるであろう両親のことを思うと、笑いが止まらなかった。

そして、一番驚いた事なのだが顔や体を殴られた割に軽傷だった。
たった1日で元に戻ったのだ。

おかしな現象に、頭を悩ませたがアンジュは曲者だからと思うと、何故かしっくり来た。
だから、もう深くは考えない事にした。

復讐は、間接的ではあるが完了したのだ。
これから、この家は衰退していく一方だろう。

「……全くもって、不思議ですわ。」

王国から追放され、今は他国で生活しているのだが、まさかアンジュに謝りに行った時に善意で私が模擬戦の時に傷つけたと本気で思っていたらしい事には驚きを隠せなかった。

やっぱり、アンジュは曲者だ。
常識が、全くもって通用しない。

けれど、根は悪い人でない事くらいは分かる。

カイエンのことを聞くと、部下だからという理由で手助けをする気ではある様だった。

だから、私も事情を話していれば協力して貰えたのだろうかと思うが、今となってはもう全てが遅い。

「まぁ、もう関係のないことですけれどね。」

異国の地で、質素な暮らしをしながらも優雅に紅茶を嗜みながら、同期のカイエンが同じ道を辿ることのない様に願った。





***




そして、余談であるが、私はフェルという犬の正体を、国を出る時に知った。

伝説上の生き物だと思っていたフェンリルが、月を背に現れたのだ。
真っ白に毛並みに、宝石の様な爪を持つ幻想的なフェンリルが。

『貴様、国ヲ出ルノカ。』

淡々とした問いかけだった。
特に敵意は感じることも無く、武器を手にしても勝てない事は、容易く想像できる為、何もしない。

「もちろんですわ。もう、この国に私の居場所はありませんもの。」

『ソウカ。』

「貴方と、私はどこかで会ったことがありますの?」

なんとなく、初対面ではない様な気がした。
本当に何となくだが。

『我ハ、"フェル"ト呼バレテイル。』

フェル、その名はアンジュがいつも胸に挟んでいる犬の名前だ。

「そう、ですの……」

よくよく考えてみれば、あのフェルという生き物は、犬にしては少し尻尾が大きかったりと可笑しい所があったと今更ながらに気づく。

「私には、何の用ですの?」

『少シ、話ヲシヨウト思ッテナ。』

フェンリルは気性が荒いと聞いていたが、意外と大人しい様だ。

『貴様ガ、立チ直ッタノハ、アンジュノオカゲデアロウ?』

「まぁ、そうですわね。」

『アレハ、人ノ気持チガ分カラナイダケデ、悪意ガアル訳デハナイ。』

「見ていればわかりますわ。」

私が、罪悪感で押しつぶされそうになって土下座した時に、立ち直った事には理由がある。

「罪悪感なんて、あの少女に抱くだけ馬鹿みたいですわ。勿論、感謝はしていますが。」

『ソウダロウナ。アレハ、結果的ニ良イ方向ニ向イテイルダケデ、唯ノ自己中心的ナ奴ダ。』

結構、貶している。
アンジュが聞いたら、怒ってムッとすることだろう。

『ダガ、親シイ者達ニハ優シクスルベキダト貴様ノオ陰で気ヅイタ。人を全員見下スノハ良イ事デハナイト。』

あの態度で、人を見下していたのか。
てっきり、そういう人物なのかと思っていた。

「もし見下さなかったら、もっと優しいのです?」

『ソレハ、無イダロウナ。』

即座に否定されて、私の認識は間違っていなかったのだと安心する。

『アレガ元々ノ性格ダ。改善サレル見込ミハ無イ。』

はっきりと断言している。
きっと、かなりの長い年月を共に生きているのだろう。

そんなに信頼し合える仲間がいる事が、少しだけ羨ましく思える。

『貴様ハ、間違イヲ犯シタ。ダガ、生キテイル限リ、ソノ間違イガ正サレル時ガ来ル。今回ノ事デ懲リタナラバ、シッカリト反省スル事ダ。』

「はい。」

『アト、アドバイスデアルガ、神ニ祈ルノデハナク、世界ノ意志様ニ祈ルコトヲ、オススメスルゾ。』

「?」

突然、お薦め存在に驚いたのも一瞬で、気がついた時には、居なくなっていた。

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