『無頼勇者の奮闘記』 ―親の七光りと蔑まれた青年、異世界転生で戦才覚醒。チート不要で成り上がる―

八雲水経・陰

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第八章 魔人決戦篇

EP230 人魚姫

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 時は変わって数分前。
 男の神と人の女が混浴する事になる、不思議な風呂場にて――。

「はぁ・・・。」

 誰も居ない大浴場にて征夜は一人、大きな溜め息を吐いていた。
 だだっ広い湯船に一人で浸かるのは寂しく思えたので、数個だけ用意された"個室"の中に籠り、こじんまりとした湯船に浸かる事にした。

「クソ・・・何なんだよ・・・。」

 ラドックスは確かに倒した。よって、あの世界での使命は果たした。しかし、代償はあまりに大きかった。
 湯船浸かれば気が休まるかと思ったが、そんな事は無かった。むしろ水温と共に心が締め付けられていく。

「エレーナは、気にするなって言ってたけど・・・。」

 征夜にはどうしても、ミサラを失った悲しみが拭えない。短い間ではあったが、苦楽を共にして来た仲間だったのだ。

 もはや彼に、女神に対する尊敬など微塵も無い。
 玉座に踏ん反り返るエレーナより、命を賭して戦ったミサラの方が、何倍も尊い存在に思えたのだ。

「でも、一歩間違えれば・・・ミサラじゃなく花が死んで・・・馬鹿野郎!!!」

 悲しみの次に湧いて来るのは、身勝手な考えを持つ自分への怒りだった。
 "花じゃなくて良かった" 。そんな、最低としか言いようのない気持ちが、意図せずに心の内側から溢れ出して来る。

 あの時、花を抱き抱えずに人命を救助していれば、ミサラを救えたのか。それは分からない。
 だが、少なくとも"助けようともしなかった"と言う罪悪感に、駆られる事は無かっただろう――。

「僕は・・・どうすれば良いんだ・・・誰か・・・教えてくれ・・・母さん・・・父さん・・・。」

 天を仰いでも、母からの返事は無い。
 足元を覗いても、父からの返事は無い。

「もう一度・・・って事かな。」

 その時、彼は罪悪感に全身を支配された。
 湯船に全身を沈めて、目を瞑った。そうすれば何かを変えられるだろうと、確かに思ったからだ。

ブクブクブクブク・・・・・・

 何も感じない。何も閃かない。
 虚空へと解き放たれていく自分の息と共に、魂さえも抜け落ちて行きそうだ。

 調気の極意は、息継ぎをせずに長時間生存する事も可能にする。よって、体は苦しくない。むしろ、心は新たな平穏に向かいつつある。

 それは
 誰にも看取られる事の無い死は今の征夜にとって、"何よりも素晴らしい贖罪"に感じられた。

(少しも悪くない・・・苦しくもない・・・ここには何も無い・・・死によって、きっと僕は浄化されるんだ・・・。)

 彼は無意識のうちに、「死にたい」と思っていた。
 黒翼の怪物にミサラが奪い去られた時から、何をやっても心が喜ばない。

 生きているのは体だけで、心はとっくに死んでいた。
 怒りと悲しみだけを感受し、嬉しい事は排斥する。そんな機械に成り下がっていた。

 その証拠に、彼はバスタオルを持ち込んでいない。最初から、この大浴場を"生きて出る"つもりが無かったのだ――。

(二度目の転生は・・・・・・"鳥"になりたいな。)

 雲一つ無い青空を、自分の翼と風の流れだけで優雅に飛んで行く、美しい鳥の姿に憧れた。
 もう、人間はウンザリだ。自分は"生まれ変わった"筈なのに、結局は何も出来ないクズのまま。

 いや、むしろ退化している。
 少女を過酷な戦いに巻き込んで死なせるぐらいなら、いっそ"社内ニート"の方がマシだ。
 同僚からすれば迷惑だが、少なくとも怪物に食われて死ぬ事はない。"ミセラベルと言う部下"は、"吹雪征夜と言う名の上司"の最大にして最悪の犠牲者だった。

 彼に唯一出来るのは、彼女を"最後の犠牲者"にする事だけ。ここで自分が死ねば、もう二度と自分のせいで死ぬ人は居ないのだ。

 それに、彼には期待している事があった――。

(次に転生したら・・・今度こそ生まれ変われると良いな・・・。)

 一度目の転生で、彼は生まれ変わった。
 "戦闘"と言う職を得て、"楠木花"と言う生き甲斐を見つけた。前世に比べて、別人と言って良いほどに変わったのだ。

 いや、変わったと思っていた――。

(何も・・・変わっちゃいない・・・僕は・・・もう一度・・・生まれ変わらないと・・・。)

 必死になって努力しても、何も変えられなかった。ここまで来たら、もう一度生まれ変わるしかない。

 もしも転生が起こらなければ、自分はそれまでの人間。潔く死を受け入れよう。
 もしも転生が起こったら、今度は絶対に間違えない。誰の力も借りないような、素晴らしい生き方を見つけてみせる。

 そんな無責任な事を思いながら、征夜は肺に溜まった息を吐き出した。
 風呂桶の底に沈んで行く彼の体は、瞬く間に湯で満たされて行く。

 段々と意識が遠のいて行く。
 その代わりに、無責任な死が刻々と近づいて来る。

 窒息する感覚は苦しい。
 だが、魔王城に取り残された人々や、怪物に食い千切られたミサラは、何倍も苦しかったのだ。

(今行くよ・・・ミサラ・・・。)

 贖罪と救済を求める勇者は、晴れる事の無い闇の中へと飛び込んで行った――。

~~~~~~~~~~

(ここは・・・どこだ?)

 薄明かりに照らされた闇の中で、征夜は目を覚ました。
 全身に強い脱力感を覚え、意識が朦朧としている。体はあまり動かない。

(僕・・・生きてる?)

 自分は溺死したはず。正確には、湯を飲んで自殺しようとした筈。
 だが体が動かないとは言え、息が出来る。そして、多少は目も見えるのだ。これは、どう言う事だろう。

(誰かが・・・助けてくれたのか・・・いっそ・・・死なせてくれれば・・・。)

 せっかく命を救ってもらったのに、むしろ"恨み"が込み上げてくる。
 死なせてくれれば良かったのに。あのまま逝かせてくれれば、苦しまずに済んだのに。

 そんな恨み言を、心の中で吐いていると――。

("人魚"・・・?)

 征夜は仄暗い視界の先に、座り込む何かを見つけた。
 シルエットは人間だが、人間の特徴である2本の足が無い。身に付けている服は風に揺られて、ユラユラと旗めいている。

 遠目から見れば、ソレはまさに人魚だった。
 だが目を凝らしてみると、全く違う物だと気付く――。

「あ、あの・・・ありが・・・・・・うッ!?」



 そこに居たのは、"美しい人魚"などではなかった――。



「よ"・・・ぶ・・・う"・・・!」

「うわ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ッッッッッ!!!!!?????」

 征夜は起き上がる事も出来ないまま、半狂乱になって暴れ回った。
 訳も分からぬまま叫び、足をバタつかせ、シャンプーのボトルを"ソレ"に向けて投げ付ける――。

「な"・・・ひ・・・う"・・・!」

「来るな!来るな来るな来るな!来るなあぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ーーーッッッッッ!!!!!」

 最初は美しい人魚に見えた"ソレ"は、征夜の方へ歩み寄ってくる。
 訳も分からない言葉を並べ立てながら、ジリジリと詰め寄って来るのだ。

 命の恩人と思わしき存在に対する征夜の態度は、あまりに失礼な物だろう。だが、彼の気持ちも分からなくない。

 そこに居たのは、"人間の姿をした怪物"だった――。

 口は裂け、頭頂部は削ぎ落とされ、瞳孔の開いた眼は血走っている。顔中が血だらけで、片耳は無い。剥き出しになった歯茎は、不気味な笑みを浮かべていた。
 僅かに残された髪は、とても美しい物だった。だが、闇に阻まれて色はよく見えない。

 人魚と見紛うのも無理は無い。
 ソレは片足を寸断され、もう片方の足を組んで座っていたのだ。闇の中で見ていれば、座り込んだ人魚のヒレに見えなくはない。
 人魚の身に付ける羽衣のように見えた服装は、ボロボロに引き裂かれていただけ。血に塗れ、服の原型を留めていないが、確かに人間の服だった。

「じょ"・・・ど・・・がぁ"・・・。」

「うわあ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ーーーッッッ!!!!!!ぐげっ。」

 半狂乱になって叫び散らした征夜は、その弾みで何処かに頭を打った。
 そして、次第に薄れゆく意識の中で、美しい女性の声を聞いた気がした――。

~~~~~~~~~~

 征夜の意識が、再び現世に舞い戻ると――。

「征夜!死んじゃダメ!征夜ぁッ!!!」

「げほぉッ!!!」

 大きく咳き込みながら、征夜は息を吹き返した。
 胸板にめり込む柔らかい掌の感触が、心臓の鼓動を補助していたのが分かる。

 どうやら彼は、意識だけでなく呼吸まで失っていたらしい。
 "心臓マッサージ"を受けた今、視界はハッキリとしており、先ほどのように闇に包まれていない。

「征夜!あぁ、良かった!良かったよぉ・・・!」

「え・・・あ・・・。」

「大丈夫、何も喋らなくて良いわ。安静にして・・・!」

「・・・え?」

 また"人魚"に救われたのかと思ったが、どうやら違う。
 顔を上げた征夜の前に居たのは、安堵の表情に包まれた花だった。

「・・・あれ?に、人魚は・・・?」

「人魚・・・何のこと?」

 周囲を見渡しても、先ほどの"人魚のような何か"は見当たらない。
 膝立ちになって征夜の顔を覗き込む花は、彼の正気を疑っているようだ。

「・・・君が、助けてくれたの?」
(夢・・・だったのか?)

「えぇ、本当に驚いたわ・・・女湯に貴方が居て、しかも倒れてるんだから・・・。」

「え?女・・・湯?」

 耳から飛び込んできた"女湯"と言う単語に、征夜は困惑する。自分は確かに男湯に入った筈なのに、これはどう言った事だろう。

 答えは至ってシンプル。
 征夜が入った時は"純粋な男湯"だった風呂も、シンの策略で"人間の女湯・神の男湯"に変わっていたのだ。

 湯に浸かる時、花は他の入浴者と出会わなかった。
 当然だろう。脱衣所で神と出会ったなら、ここが女湯であると言う事実に、疑念を抱く筈だからだ。

「・・・うわっ!?」

 他に入浴者が居るならともかく、男はおろか女すら入浴していない浴場に入るのに、体を隠す必要は無い。
 持ち込むのは、体を洗うハンドタオルだけで十分。体を隠すためのバスタオルなど、あっても邪魔になるだけだ。

 その時、花は"一糸纏わぬ姿"だった――。

「な、なな!何も見てないよ!ごめん!」

 彼女はある意味、とても幸運だった。
 ここに至るまで誰にも会わず、唯一出会った男は征夜だけ。その彼も自主的に目を覆って、何も見ていない。

 彼女が、あと少し早く入浴していたら、混浴の相手はシンだったろう。

(は、裸・・・裸・・・花の裸・・・。)

 実際のところ、征夜は何も見ていない。
 視界に彼女の裸身が映り込む前に、両目を手でガードしたのだ。

 男としての欲求を必死に抑え、征夜は目を瞑る。
 花は自らの体を隠す余裕も無いほど、慌てて彼の心肺を蘇生したのだ。そんな彼女に、恩を仇で返す訳にはいかない。

「あ、あの・・・花・・・タオルで体を覆っ」

「どうして倒れてたの!?何があったの!?誰かと戦ってた!?誰に攻撃されたの!?」

「あ、あの、裸・・・」

「そんな事・・・気にしてる場合じゃないわ。貴方の事だし、足を滑らせた訳じゃないんでしょ?」

 見る側の征夜ばかり恥ずかしがって、見られる花の方は恥じていないようだ。
 普段から花は征夜のアプローチには寛容的だが、今回は何かが違う。「見ても良い」ではなく、「それよりも大事なことがある」と言うのが、彼女の意思なのだ。

「あっ・・・やめ・・・。」

 花は征夜の目を覆う手を、彼の制止を無視して優しく引き剥がした。
 征夜の両手は花の両肩に置かれ、彼女の両手は征夜の頬を下から押さえた。

「教えて・・・何があったの?」

 頬を優しく支えられ、目線をガッチリと固定される。
 "目を逸らす事など許さない"と言わんばかりに、真剣な花の眼差しに照らされ、征夜の心は"逃げられない"と悟った。

 不思議な事に、相手の目と目線を完全に合わせると、"邪な思い"は湧いて来ないものだ。
 異性の裸に対する生物として当然の好奇心も、その光景を羞恥する心も、何処か遠くへと取り上げられてしまう。

「戦ってた・・・訳じゃない・・・。」

「じゃあ、何してたの・・・?」

「・・・。」

「正直に言いなさい、征夜。」

 嘘を吐く子供を叱る母親のように、花の目線は本気だった。まっすぐ、心の奥底まで覗き込むようなピンクの瞳。
 "瞳術"を発動している訳でもないのに、その視線に捉えられた征夜は、真実しか語れなくなってしまう。

「じ・・・自さ」

パチーンッ!

 鋭く、冷たい平手が、征夜の頬を弾いた。
 湯船の温度と異性への興奮で茹で上がった肌が、一挙に冷却されていく。

「信じらんない・・・あなた何考えてるの!?"気をしっかり持て"って、言ったばかりでしょう!」

「ご・・・ごめん・・・。」

 心身共にボロボロな征夜を気遣って、花は励ましの言葉を掛けたのだ。
 彼女には分かっていた。今の彼がどれほど傷付き、どれほど弱っているのか。

 たとえ"体の傷"を負っても、彼女は「征夜なら大丈夫」と思えた。
 彼はどんな時も、すぐに立ち上がるタフさが有るからだ。たとえ足が折れても、腕が折れても、肺が破れても、治療すれば必ず立ち直れた。

 だが、心の傷は真逆だった。
 征夜の心は脆く、壊れやすく、自制が効かない。
 悲哀にも、憎悪にも、歓喜にも、興奮にも、彼は正直なのだ。まるで少年のように、感情がそのまま行動に出る。

 そんな彼が、感情に素直な彼が好きだから、花は彼と共に歩んでいるのだ。
 「可愛い」と思った時も、「美味しい」と思った時も、彼の感情は素直に出る。そんな純粋さが、彼女は好きだった。

「ミサラちゃんの事は、私だって辛い。けど・・・死んじゃダメでしょう?」

「ご、ごめんなさい・・・。」

 シンはともかく、花は本気で悲しんでいる。
 険悪な仲になった事もあったが、最近では"先輩・後輩"のような良好な関係になっていた。
 征夜を取り合う事をやめてからは、お互いの凹凸を埋め合うコンビとして、確かな友情を築いていたのだ。

 そんなミサラが居なくなって、悲しくない筈がない。
 死にたいほどに辛いのは、花だって同じなのだ。

「資正さんとの約束は、一体どうするの?
 何があっても胸を張って生きる・・・そう言われたでしょう?」

「・・・うん。」

 資正から受け取った激励の言葉も、今では色褪せていた。心から尊敬する恩師の言葉でも、今の彼を救う事は出来ないのだ。

「もう、上がるよ。僕がいると、落ち着かないだろうし・・・。」

 居心地が悪くなった征夜は、適当な理由を付けて風呂を上がろうとした。
 異性と混浴する事に興奮した訳でも、叱られて苛立った訳でも、頬に打たれた平手が痛む訳でもない。

 ただ、申し訳なかったのだ――。

(僕は・・・クズだ。花と釣り合うような、立派な男じゃない。僕なんかじゃ、彼女が可哀想だ・・・。)

 こんな自分と交際している彼女に、これ以上の心労を掛けたくない。
 真剣に叱責してくれるのは、本当に嬉しい。自分のことを大切に思っているのが、よく伝わるから。

 だからこそ、なおさら自分では相応しくない――。

(僕より良い男。そんな奴を見つけるのが、僕に出来る唯一の事・・・そこまで彼女を守るのが、僕の"使命"だ。)

 自殺するにしても、今すぐの必要は無い。
 彼女の関心が他の男に向いて、自分を見限ってくれた時になれば、誰にも迷惑を掛けずに死ねる。
 もっと強くて、もっとカッコよくて、もっとシッカリした男。職も安泰で、学もあって、人格も完成された紳士。

 そんな"完璧な男"が、必ず何処かにいる。
 自分は花を、その男の元に送り届ける。

 それが、"騎士"としての使命なのだ――。



「ダメ。」

「え?」

 しかし、花には彼の考えが、お見通しだった。
 浴場から立ち去ろうと、湯船を上がった征夜。その手を力強く掴み、強引に引き戻す。

「このまま出て行くなんて許さない。
 "もうこんな事しない"って約束しない限り、ここから絶対に出さないから。」

 花の表情は真剣だ。
 彼女の制止を振り払うのは、征夜にとっては容易の筈。
 相手は非戦闘職の女性で、自分はバチバチの戦闘員なのだ。互いに丸腰の今、勝負になる筈が無い。

「あ・・・え・・・。」

 だが征夜には、彼女の手を振り払えなかった。
 単に彼女が恋人で、大切な人だからではない。
 勿論、「女性に手を挙げるのは最低」などと言う、雑な考えでもない。

 彼女の気迫が、本気の思いが、掴まれた腕越しに流れ込んで来るのだ。
 本気を出せば楽勝なのに、「絶対に勝てない」と思わされる感覚。

 思春期の息子と母親のような、"積み重ねた信頼"がある故に成り立つ強弱関係が、そこには有った――。

「・・・約束出来る?」

「出来る・・・。」

「ダメ、しっかり目を見て話して。」

 ソッポを向きながら返答した征夜の本音を、花は瞬時に見抜いた。
 感情が表に出やすいのが、彼の長所であり短所。嘘を吐いたところで、恋人を欺ける筈がなかった。

 今度は花の瞳を見て、ゆっくりと本音を語り出す――。

「出来ないよ・・・もう・・・本当に・・・苦しいんだ・・・。」

 吐き出した言霊の数だけ、大粒の涙が溢れ出した。
 やっと話せた本音が、彼女にだけ明かせた思いが、彼の心を軽くする。

「なら、私が洗い終えるまで、ここで待ってて。」

 花はそう言うと、目線を湯船に移した。
 その後、向かい合っていた征夜に背を向けて、足元の椅子に座り込み、シャワーの蛇口に手を伸ばす。

「あなたの話を、じっくり聞いてあげる。
 もう二度と、自殺したいなんて思えないくらい、全てを吐き出してもらう。・・・それとも、私とお風呂は嫌?」

「い、いや・・・そんな事ないよ。」

 花が嫌がるならともかく、自分が嫌がる訳がないと征夜は思った。と言っても、彼女との混浴を期待している訳ではない。

(花を・・・心配させられない・・・。)

 彼女の行動は、真の"情"から出た物だ。
 恋人が傷付き、心が折れ掛けている。と言うより、自殺を試みるほどに"折れている"。
 そんな様子を見過ごせない。そんな彼を救いたい。そう言った彼女の思いが、ハッキリと伝わってくる。

 花が征夜に向ける真剣な想いを、彼が断れる筈が無かったのだ――。

「なら、そこでジッとしてなさい。」

「うん・・・。」

 征夜は素直に返事をすると、湯船に鼻下まで埋めて浸かった。口の先からブクブクと泡を吐き、濃密な湯気の香りを鼻から吸い込む。

 やがて、花がシャワーを浴び始めると、湯気の中に石鹸の香りが混じった。
 自分が使った物と全く同じ石鹸、全く同じ泡の匂い。無機質で苦い、そんな匂いの筈だった。

(甘いな・・・。)

 だが、征夜の鼻腔を包み込む石鹸の匂いは、先ほどと全く違っていた。
 トゲトゲしい芳香剤の、作られた匂いではない。もっと本能的に、心の底から安堵を誘う匂い。

 それは自分が使った物とは、全く違う香りだ。
 同じ石鹸を使っても、匂いが違う。そんな事があるのだろうか。

 彼女を彩る純白の石鹸は、文字通り"甘い花の匂い"がした――。
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