遊羅々々うらら

H.sark-9

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002話 はらりと舞えば泡景色

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「火奴羅殿…!」
震えている。声が、体が。
「健乱を…!健乱を助けてやってください!」
火奴羅は澄まして一声。
「健乱は、ついてくるなと。」
「しかし…!」
少し俯く火奴羅。
「ええ、ちょっと見て来ましょうかね…」
ささあと村に風が薙ぐ。火奴羅の表情が変わった。
「火を吹く獣、でしたね。」
「はい。」
「詳しく聞かせて。」
「ええ…、私と同じくらいの高さで、四つの足で走る、大きな獣でした。」
「…お待ちになってらして。」
鋭く抑えた声。そして火奴羅は飛び上がった。姿は瞬く間に消え、光が一筋、空を裂いてゆく。

星のない空。ただ白い月が一つ、のっぺりと光るだけの空。大きな月であった。
走る健乱。黒い気配は毒の海、沈み、また沈むよう。風のさららも聞かない。ただ暗がりの奥の黒々しい何かが、少しずつ、はくはくと迫りくる。見上げれば、空はいかほどにも遠く見えるようで、月が燻る闇の霧模様に少しずつ切り裂かれ、崩れ、そして消えた。それでも健乱は、灰色の草地を蹴って走った。
ふと立ち止まる。足が進まぬ気心地。耐えきれぬ様で逸らした目を、重圧、風に抗うように、再び据える。影。村を荒らした巨大獣が、微かな光に照らされて創り出した影像。健乱は拳を握りしめた。
「こいつっ…!」
震える脚が、しかし鋭く大地を蹴り散らす。肩引き前を見据える拳は勇み、それもまた獣の形。
「行くぜーっ!」
ゴッッッ
力の限りの一撃。
「なっ…!」
獣、動かぬこと石像の如く。
「ぐっ…。い゛やーッ!!」
ガッッッ
力の限りの一撃。
「…どうなってやがる。」
獣、動かぬこと岩塊の如し。
いくらか殴りつけても、同じ。皮と剛毛が僅かになびくのみ。

また、空が離れてゆく。沈みきった辺りは満遍なく、闇。黒くてうつろに巨大な箱庭の中、がらんどうな静けさの中、健乱はただ独り、立ち尽くしていた。
恐る恐る視線を下げる。苛烈な違和に、健乱の顔がひきつった。思えばきっと猛々しき、眉間鼻先と荒く皺を波立たせた鋭虐な眼付きの顔。しかし健乱が目にしたその獣の顔に、威や嚇の情はもはや無い。のってりとして口は力無く半開き、眼はさながら鉛玉と、最早いかほどしても視線を合わすことが出来ぬと思えた。よろめくように、健乱は後ろに立ち退く。
またさらに嫌な気配。足元に、でろりとした感触。黒々としてよく見えない様に何か不吉なものを感じたようで、健乱の手がさらに震えた。
恐れるように、背を低くして見る。僅かなてかりを頼りに、どろどろの源を探した。そして、獣の腹。
獣の腹が、大きく、見るも無惨に裂けていた。毳立った筋繊維が、血管束が、ざわめき立って垂れている。聞こえる。筋の先から、未だ滴り落ちる血の音。獣は死んでいた。
はっとして、走り去ろうとした刹那。岩音、乾いた地鳴りが僅かに響いた。足を止める。そして震える首を無理に捻って振り返った。闇の奥に何か居る。

暗がりに、よく見れば山のように大きな何かが、突然高くなった。長い、長い影は、近づいているようでだんだん顕になる。ざわめくようにうねる無数の細長い何か。硬いものがかちゃかちゃと、細かく蠢くのが聞こえた。迫り来る。静かな奇音と共に迫り来る。
影が濃くなった。風が乱れた。掠れた息のような、不吉な音が聞こえた。健乱は戦慄に身震いをした。影が踏まれたようで、脚が動かない。少し瞳が潤った。
濡れた目に光が映る。朧げ、涙を拭って見上げれば、夜空に一本、桃色の軌跡。健乱ははっとして振り向いた。
閃光が大地を揺らす。辺りが照った。いつか見た、誰かの瞳の色の光。荒ぶ暗闇が消えてゆく。草が、大地のうねりが見えた。無数の光は泡のよう、例えば妖しげな燈篭のように夜空に舞い、そして散ってゆく。長い影が素早く動いた。先端が下がり、威嚇したような音を立てる。一筋の光がぎらり、空で止まって鮮烈に輝くと、突き貫くように急降下。風が爆裂して健乱は吹き飛んだ。地に打ち付けられ、体を起こすと、あの小娘の姿。地より少し浮いた所ですらりと背を伸ばした例の者が、燈篭の泡を纏いて柔らかく、しかし力強く夜空を照らす光を放っていた。

轟く土煙の奥、塔のように高い影が今遂にその姿を見せる。脚は毛のように多くざわめいて、うねる体節は管が浮き出て肉々しい。もたげた頭には刺々しく返しが連なる大顎が、鎌のようにこちらを向いて、右に左に重たく二振り。そして取り巻いて二重の輪、ぶりりと肉皺の奥から小さな針のような牙がずらり、並んで規則的に蠢いている。滴る白液は熱いのか、激しく蒸気を登らせていた。

火奴羅は音なく地に降り立った。左足は前に擦り出し肩を前に押し出す構え。
巨影はうねりうねりの素早い動き、頭を低く構える。大顎を一つ二つと打ち鳴らすと、砂塵の風が細く噴き出すような乾いた音で、大咆哮。
シジィィィィィィ!!!!!!!
火奴羅の後ろ髪が揺れた。笑っているように見えた。
「穿天先子」

火奴羅が飛ぶ。藍の夜空に光の筋。血肉を求め、歯牙を開いたその体、歪に素早く伸びてゆく。光、描いて割れ硝子。複雑な軌跡に隙は無い。突如、ぎらりと輝きが弾けた。眩き様は白月の如く、力強い光が駆けて一閃、掠めゆく。長い影は折れて曲がった。爆裂、開花。光の泡がぱあっと散り、遅れて風が草を薙ぐ。悶え惑う脚の節。そしてより激しく、より歪に動く様、怒りの狂。尾の脚、力の限り地に打ち立て、そして首をもたげ、顎を打ち鳴らした。空を向いてぐるり、重たく振り回してみせるは鎖槌の如し。口元見れば、燃え盛る如くの白煙。雫が滴り水らしい。そして頭を振ったまま、長い体をうねらせ、泡水を噴き出した。火奴羅はくるり返して地を滑る。頭は身をよじりて追いかける。液垂れはさながら滝のよう、地を浸し草を濡らした。天の泡はこうこうと、地の泡はちらちらと。違和と幻妖入り混じりて、激しく艶やかな油絵となる。

そして泡水は地に満ち満ちたりて、しきりに激しく土を崩した。はたり、首をもたげた様は力無く、残り水が塗れて滴るのみ。火奴羅、空に留まりて一転、藍の帳にかかる風。白月の光はさても淡く、暗がりをまったりと微かに照らすだけ。湿りて地の水気はより黒く、地平の影も朧。両者、間合いがほつれてゆく。突如影が伸びた。みれば開ききった顎、そして火奴羅。力に震えた大鎌はしかりと火奴羅の両脇を挟み、鋭利に曲がった先が交差してその背を囲う。そして大顎の身に段々と光が宿る。その様脈々と筋のよう。緑の脈は血の管の如く通い、顎の震えが激しくなった。ゆっくり、ゆっくり閉じてゆく。突如その震えが止まった。そして開いた。切先に掛けられた手のひらが光る。ぱっと世界が一閃。爆裂。砕け散る大顎。して地が重く揺れた。太い管の体が落ちて横たわる。そしてまた、空に凶いの星が閃いた。

彗星。一縷の軌跡を裂いた光が、ひとつ。撃振。管の腹中に刺さりて、波打つ反動をうたせた。ひとつ。儚く消えゆく残り火は鮮烈に、凶星から地を直ぐに結ぶ。ひとつ。例えば大聖槍の一突き。ひとつ。例えば夜の滝の一雫。ひとつ。またひとつ。星が撃ち出す光はやがて烈しい豪雨となり、巨体を貫き落としてゆく。光の閃滅が眩く、暗く辺りに広がっていった。

空に茜が差す。巨大な骸はやがて朱い光を背に、どこまでも鮮やかな影を伸ばした。そしてあいも変わらず長い髪をさらり、そよ風にさらしたまま、小さな体はその身に降り立った。焼け空を纏いて影のまま、火奴羅は倒れた身体に揺れる巨大な脚の一つを引き抜いた。溢れた肉を少し見定め、小さな口を開けて齧りつく。口元から荒く滴る血が黒く輝く様を、健乱は立ち尽くして眺めていた。そして喰らい尽くし、殻になった脚を打ち捨てて粗雑に口を拭ってみせると、おもむろに振り返る。
「まだいらしたの。」
健乱は言葉を云わない。
「あなたはあの村が好きか。」
「あ?黙れ。」
随分な苛立ちを見せる。
「そうか。…あの村に随分固執しているように見えますが。」
「何だと…?」
健乱の声が震えた。
「違う。俺は強くなりたいだけだ。あんな奴らと一緒にされたくないだけだ…!」
「強く…。何のために。」
夜風が朝風に変わって聴こえる。
「結局…貴方は何かに命を懸け、尽くし、思い悩み、勝手に傷つく。そして何もかも全て背負い込んで…いずれ崩れる。あなたはそういう者なのではないか。その顔つきも…、孤独と疎外に反逆した態度なのであろう。」
そして目を背ける。息遣いが荒かった。
「…答えないか。そうか。」
火奴羅は妖しく笑った。
「面白いな。あんた。」
その笑顔は、そこはかとなく暗い。

見ればその空は驚くほど広く、痛いほど眩い朱を呈した。果てなく遠く、しかし巨大に迫り来る波のようで、微かに琥珀や臙脂が差してうつろう。異様な程に鮮やかで、異様な程に明るく、暗い。大地も朱く染まり、冷ややかな風に揺られた草の葉が、怯えたように震えていた。朝が来た。
やがて朝焼けは、日が昇るにつれ色を失ってゆく。何処からともなく現れた灰色の雲に巻かれ、どんよりとした曇り空に変わってゆく。

火奴羅は空に浮いた。
「災いの雨…。早くお帰り。」
「まて!」
留まった火奴羅、振り返ればそこに、真っ直ぐ視線を捉えた健乱がいた。
「これだけは言っておく。俺は舞闘には負けねえ!強くなっていつかお前を殺す!」
「私は舞闘ではありません。」
火奴羅は困ったように笑ってみせる。そして飛び去った。最後、彼が描いた一筋の光だけ、空の中に映えた。

(強さなど…。)
雲の上の朝焼け。
(欲しくなかったのだがな。)
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