遊羅々々うらら

H.sark-9

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010話 風乱れる旅の始まり

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つん、と冷たい風が頬を擦る。目覚めると、そこは白靄の世界。
(あれ…?ああ、そうか。ここは山の上。)
すかさず火奴羅は腕元を見た。霞んだ先に、寝顔の会好。火奴羅はふう、と一息ついた。
(さて、今日はどうするかな。)
火奴羅が起き上がると、会好も目を覚ました。
「うーん…。」
大きくあくびを一つ、伸びを一つ。
「うわあ。雲がすごい。」
火奴羅はぴしっ、と手を叩いた。
「そうだ。いいもの見せてあげる。」
火奴羅は会好を抱えて飛び立った。

霧の中を進む。白と灰色の綿だけの、湿った世界。単調でも、確かに上へ、上へ。そして、それは突然現れた。
「わあ!」
果てしなく続く、群青色。その中でぎらり、独りで輝く白銀の太陽。そして晴れやかに照らされる、真珠色の、雲の水平線。
(そう、それはまるで、プエルトリコの浜のよう。)
ただ、それだけ。閑散とした絶景は、ある種の厳格さを見せている。
「どうかしら?」
「すごい、綺麗だけど、ちょっとくらくらするよ。」
会好は、はたりと火奴羅の腕に寄り掛かった。
「わ、ごめん!じゃ、戻ろか。」
火奴羅は髪を撫であげて、地を目指して落ちるように飛んでゆく。
(ああ、そうなのだ!玉の景色にも傷がある、悲しき定め…。)

厚い雲を抜けると、やはり、とろりと落ち着いた色の世界。穏やかに風が、絶え間なく流れて地を撫でる。僅かに草原が波打って、涼しげな音が聞こえた。不思議とこの情景の中では、時が進むのもすこしゆっくりに感じられる。
(この様子だと、雨も降りそう。)
火奴羅が降り立ったのは、山の近くの丘の上。空よりすこし暖かくて、ほんのり鳥肌が立つほど心地良い。
(ふ~ん、いい景色ねぇ。)
何も思い浮かばないまま、火奴羅は会好を抱えて歩き出した。
突如、稲妻のように駆け抜ける。
(闘気!)
火奴羅は鋭く場所を探った。源は真後ろ。
(向かってくる。)
火奴羅は振り返り、身構えた。

火奴羅の身体が一瞬震えた、その瞬間。会好は強い風を感じた。
(また、あの感じだ…。怖い。)
会好は手をぎゅっと握りしめた。火奴羅が急に振り向いて、会好は何かが起きていると悟った。風がますます強くなる。
「火奴羅。何か来るよ。」

(え?)
火奴羅はすこしぎょっとした。
「会好、お前…。」
丘の向こうから、巨大な影が見える。
(来たか。)
会好が火奴羅の袖をぎゅっと引っ張る。
(…ずらかるか。)
火奴羅は振り返り、腰を折った。後ろから重苦しい足音が激しく迫る。
「行くよ!」
そして勢いよく、空へ飛び出した。

会好は火奴羅の腕の中で、振り返った。細長い、巨大な黒い毛玉。しかしその奥に何か硬い筋肉のような形があり、遠くても、大きくて怖い。
(うわ…。)
しかしそれも遠ざかって、みるみるうちに小さくなって消えてゆく。見上げるとそこには様々な生き物達。大きくて青い、四角形の羽をもつもの、手足が短くて胴が長い、赤いもの、火奴羅のように手足があって頭に髪があるもの。たくさん集まっているもの、3匹ほど一緒にいるもの、独りでいるもの。沢山の種類の生き物が、くらくらするほど多く、見飽きない。
(でも、この中のどの生き物より、今私、速く飛んでる。)
後ろ髪を風に撫でられながら、ふう、とため息。

気づけば、下は広大な森。目まぐるしく、木々が視界を通り過ぎてゆく。
「そろそろかな。」
そして急上昇。すると目の前に、すこし開けた場所。風に光が揺れた。湖だった。
火奴羅は一直線に飛んで、湖の畔へ。ひんやりとして、穏やかな心地。
湖を前にして、火奴羅は腰掛けた。会好も火奴羅の腕を離れ、草葉の上に座る。
「すこし落ち着いたかしら。」
風に揺れる、火奴羅と会好の髪。
「うん。」
会好は元気そうで、微かに微笑んでいた。
「そうか。よかった。」
火奴羅は少しの間、ふわふわと浮いた。

「…でも会好。やっぱり修羅は怖いんじゃない。」
「しゅら?」
会好はぴょこと飛び上がって、火奴羅の頭の上に。
「修羅は、この世界に生きる者たちの呼び名だ。」
火奴羅は薄い石を拾って指先で回した。
「修羅の中にも色々いるけど…、まあ大体は気性が荒くて、食い合ってるような者たちだ。闘争本能がすごいのよね。」
会好は火奴羅の指先で回る石を眺めた。
「ふうん、だから怖い顔してたのね。」
くらりくらりと石が踊る。
「でも、それだったら火奴羅も修羅なの。」
一瞬石がおかしく傾いた。火奴羅はぱしっと掴んで、ぽんぽんと投げる。
「…ん。私も修羅よ。」
飛び上がった石を、指先で受け止めた。会好の表情が引きつる。
「…火奴羅は、私を食べないの。」
火奴羅の手がゆるんだ。石が指先からこぼれる。
「食べない。私は普通の修羅と違うの。」
(しかし、信じてもらえるだろうか。)
火奴羅はちらりと会好の顔を伺った。そこに笑顔はなかった。

「心配しないで。修羅にも色々いて、見境なく牙むけるようなのばっかりじゃないから。」
会好はすこし、まっすぐ前を見ると、そのままの視線を火奴羅にやった。
「…あの、私も修羅なの。」
火奴羅はまた石を拾って、指先に乗せた。
「ん、そうね…。多分会好は妖霊と云う種の修羅だよ。珍しく闘争本能が低くて、特別な場所で大人しく過ごすと云われる…。」
指の上で石は、今度は綺麗に回った。
「だから会好は不思議だ。妖霊なのに、外に出たいと云う。」
「そうかな。」
石は速度を増した。縁に僅かな残像を纏う。
「…ねえ、会好。」
どんどん回る。ちりり、と時折刺激的に音が弾ける。
「…この先、どうするの。」
火奴羅の頭が少し上がるのを会好は感じた。見下ろすと、肩もかすかに上がっている。
「…やっぱり、帰りたい?」
体がぴくりと揺れる。
「帰りたくない。」
火奴羅の指がはたりと止まった。石は均衡を失って、落ちて転がって消えた。
火奴羅の頭がかくっと下がった。肩も落ちた。
「今帰ったら、もう二度と出て来れない気がするから。」
会好が見上げた先に、白の濃淡。少しずつ流れている。
「そっか。」
火奴羅も同じ空を見上げた。
「これからも怖い思いをするとおもうけど、それでもいいの。」
「うん。」
目を下ろすと、前の湖がふと、明るく映えたような気がした。
「じゃあ旅は、このまま。」

「そういえば、会好。」
火奴羅は腕を袖から抜いて、服の中にしまった。
「会好、さっき修羅の気配を感じたね。」
会好は思い返した。不思議な風。怖い風。
「うん。よく分からないけど、なんとなくわかったの。なんだろう。」
会好は浮かび上がって、火奴羅の横についた。
「そうか。」
火奴羅はきゅっと背筋を伸ばしてみる。
「あ、また風。」
火奴羅はぱしっと手を合わせた。
「すごい、やっぱり分かるんだね。」
「うん…。火奴羅に会った時から、こんな感じなんだけど。どうしちゃったんだろう。」
会好はくるくると宙を返っている。
「どんな感じ?もすこし教えて。」
火奴羅もちょっと浮かび上がった。
「んー、時によって違うんだけど、火奴羅から感じる時は、すこし熱くて重くて、真っ直ぐな風。さっき感じたのは、なんだか大きくて、叩いてくるような風。」
(…なんと。)
火奴羅は口を抑えた。目の前の会好の平然たる顔に、何か可能性が見える。
「会好。あなた闘気を感じているのよ。」
「闘気?」
会好は逆さまに止まった。
「そ。闘気。」
火奴羅は左手を前に出した。袖が降りて色白の肌が露わになる。すると腕が寒桜色に、ぼうっと光り始めた。
「わ、すごい風!」
「わかるでしょ?」
徐々にそれは眩しく。妖しげな輝きがなんとも美しい。
「これが闘気。修羅が生きる為に必要な力。そして戦う為に必要な力。」
火奴羅が指をぴしっと鳴らすと、指先から光の玉が飛んだ。瞬時に水面を掠って、大いなる波うたせをその弾道と示す。
「わあ、速い!!」
輝きを見せる会好の目。
「私もできるかな。」
会好も指を弾いた。
「あれ、できないよ。」
「闘気を打ち出すのって、結構難しいのよ。」
火奴羅は浮かび上がって逆さまになった。
「でも会好、闘気を察知するのも、ほんとは簡単なことじゃない。」
「そなの?」
「うん。私もそんな器用なことができたのは、この世界に来て二年ほど経ってから。」
会好の目が開く。
「にねん、ってなに?」
「年が二回分。…年ってご存じない?」
火奴羅は元に戻って座った。
「うん。」
「季節は?」
「知らない。それなあに?」
会好は葉の上でぽんぽんとはねた。枝がしなって優しく揺れる。
「そうか。季節というのは…、世界の表情だ。」
「表情?世界の?」
「あと何回か夜が来たら分かるよ。」
会好はふわふわと飛んで、火奴羅の頭に乗った。
「火奴羅って、いろんなこと知ってるのね。」
火奴羅はぐぐっと背筋を伸ばした。
「長いことこの世界にいるからね。」
そして胸いっぱいに、風を吸いこんだ。 
「会好もすぐ慣れるよ。」

火奴羅は会好を載せたまま立ち上がった。
「そろそろ行こうか。」
火奴羅が飛び立とうとしたその時。
(闘気!)
地の底から。
「わあっ!」
溢れんばかりの風が突き上げる。
火奴羅は会好を抱えて力強く飛びあがった。土煙に轟音、そして目の前を青く染めるもの。
(…遅かったか!)
火奴羅は翻って湖の中央に立った。巨大な紺色の柱が三本、湖を囲って見下ろすように聳える。
水がせり上がってゆく。波打つように、少しづつ溢れた。突然、地が唸る音。湖の底に黒いものが現れた。そして次の瞬間、水が一気に溢れ出した。激流がうねるようにして森の中へ流れてゆく。
「怖いよ…。」
「大丈夫だ!」
水は全て流れ、せり上がった黒光りする物体が一面を覆った。ひだが波打っている。
(戦えない…。)
昨日の会好の涙がよぎる。
(…私は、修羅なのか…。)
会好の怯えた顔。
(戦うしかないのか!)
巨大な紺の触手が、互いに絡み始めた。そして緑色の、鈍い光を放つ。
(来る…!)
火奴羅は構えた。触手は素早く絡んで逃げ場を奪う。そして地の黒い器官も光りだした。
(私は、修羅だ!)
かあっ、と眩い光。火奴羅は拳を突き下ろした。寒桜色の光が通る。
緑の光は爆発し、四方に散った。火奴羅は会好を胸に隠し、素早く触手に手打ちを入れる。
触手が光った。火奴羅は体を翻した。掠めるように、煌びやかな線が瞬時に通う。
必死になって火奴羅は打ち続けた。緑の線と、桜の弾で眩しく輝く世界。会好は火奴羅の胸の中で、静かに目を閉じていた。
ふと、心によぎる、昔の記憶。穏やかに暮らす日々。

(ねぇ、会好。)
(なあに?)
朝日が輝いて、白い光が眩しく溢れる世界。
(私、夢を見たの。)
印子は寝床の上、伏し目で天を仰いだ。
(紫色の空の下で、黒い顔の子供たちが大勢で、酷く喧嘩していて。どんどん消えていくの。私は遠い場所で眺めてた。でもはっきり見えたわ。)
会好は真っ直ぐ印子を見つめた。
(よく分からないけど、皆怖い顔をしてた。無表情なんだけど、すこし怒ってるの。そしてどんどん少なくなって、なんだろう、とっても寒かった。私、少し怖かった。)
そして目を細くして、こちらに微笑みかける。
(でも、目を覚ませば、ここはいつでも穏やか。夢で良かったと思う。…現実が幸せで、良かったと思うの。)
言い終わると、印子は気持ちよさそうに、思い切り伸びをした。
(ふふ。でもどうして、そんな夢を見たんだろ。)
会好は首を傾げた。
(きっと雫の絵のせいね。)
印子は手を口に当てて優雅に笑った。会好も可笑しくて、にこにこと笑った。
そして会好は窓際で外を眺める。そよ風。

そんな世界もあるのかな…。



(そうだ。あの時私は初めて、知らない外の世界を怖いと思った。)
火奴羅の黒い服の中でも、光の点滅が淡く輝く。
(あの時だけだった…。でも今、同じくらい怖い。)
長い戦い。無数に放たれる緑の線を、次々と避ける火奴羅。
激しい風が突き抜ける。
(ああ!帰りたい!帰りたくない…!)
会好は火奴羅の胸元によたれかかった。すこしくらくらする。
遠くにまた一つ、小さな風を感じた。

次第に触手の動きが鈍って、光も勢いを失った。
(よし、そろそろか。)
火奴羅は体を翻して急降下。腕が強く輝く。
そして黒光りする器官に、挟み込むように両拳を打ち込んだ。腕の光が肉壁に潜る。そしてその奥で、強烈な爆発音が響いた。
力なく巨大な触手が倒れる。明るい空の光が、思い切り降り注いだ。

火奴羅の真っ直ぐな風が力強く、下の方で暴れるように放たれるのを感じた。火奴羅の襟元から、空の光。
会好はよく分からないまま、胸元から飛び出した。
(帰りたい…。)
遠くの風が急に大きくなった。目の前に何かが迫る。眩しくてよく分からない。その瞬間、会好は何かに包まれた。火奴羅の風が遠ざかってゆく。
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