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Seventh Chapter...7/25
隔絶された匣庭
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瓶井さんは、それ以上は何も語らず、現れたときと同じように、静かに去っていった。
残された僕ら四人は、彼女の姿が見えなくなるまでの間、呆然と、その背中を見つめることしか出来なかった。
やがて、その凍結が解けると、
「……馬鹿馬鹿しい話だ」
貴獅さんが、吐き捨てるようにそれだけを言った。
「昔の人間は、やたらとそういうことを信じたがる傾向がある……」
「まあまあ、久礼くん」
牛牧さんは、苛立っている貴獅さんを宥めようとする。
「貴方があの人を説得出来たのが奇跡としか思えませんよ、牛牧さん」
「……儂も、瓶井さんの気持ちはよく分かるのだ。些か信心深いだけで、ただ誰かが傷つくのを嫌うだけの女性なのだよ」
「……だと良いのですが」
貴獅さんがさり気なく、説得という言葉を口にしたが、それは恐らく病院のことだろう。考えてみれば、電波塔計画を快く思っていないのだから、病院設立の際も反対していたのに違いない。病院長であり発起人でもある牛牧さんは、そんな彼女を当時、必死に説得したのだろうな。
そのときから、牛牧さんと瓶井さんは、ある程度お互いを認め合っているのかもしれない。
「ふう……邪魔が入りましたが、永射さんの件をどうするか、考える必要がありますね」
「うむ。何にせよ、彼の遺体を運んでやらんといけないが……」
「……私が手伝いましょう」
それまで状況を見守っているだけだった佐曽利さんが、そこで口を開いた。
「それはありがたい。では、私と佐曽利さんで運ぶとしましょう」
「……すまないね、佐曽利さん」
「いいえ、必要なことであれば」
相変わらず、淡々とした口調で佐曽利さんは言う。
「早乙女に、搬送用の担架を運んでもらうよう伝えます。すぐに来てくれるでしょう」
貴獅さんは、ポケットのスマートフォンを取り出して、電話を掛けた。短いやり取りの後、通話が切られる。
早乙女さんか。女の人に、こんな雨の中、荷物を持ってきてもらうというのは、頼んだ本人ではないのに心苦しい。そう考えたとき、僕はおかしなことに気付いた。
「……あの、どうして早乙女さんなんですか?」
「む……」
「いや……双太さんじゃ駄目なのかと」
「……そうか。君は、聞いていないのか」
え?
聞いていないって、何の話だ?
「そう言えば、双太さんは電話で呼び出されてどこかへ向かったから……てっきり、永射さんのところだと思っていましたけど」
その永射さんは、ここでこうして、死体となって凄惨な姿を晒している。
だとすれば、双太さんは?
「彼は今、街外れの公道の様子を見に行ってくれている」
「……道路?」
まさか、という嫌な予感がした。
「ああ。昨日からの雨で、土砂崩れが起きたようでね。隣町に向かう道が塞がってしまっているらしいのだ」
「そ、そんな……!」
貴獅さんは抑揚のない声で言ってみせるが、それは重大な問題ではないのか。
つまり、この街は今、外部との行き来が出来なくなってしまったのではないのか……!
「落ち着きなさい、真智田くん。杜村くんの話では、そこまで大規模な土砂崩れではないそうだ。一週間もあれば除去出来るほどだと言っている。外部との連絡がとれないわけでもなし、今の時代、道が塞がれたら死活問題、というのは間違いだ」
「それは、そうですが……」
「一応、警察にも連絡は入れている。事故死なのだとは思うが……念のためにね。道路が復旧すれば、簡単な捜査にはやって来ると言ってくれている。確かに、異常事態ではあるが、不用意に騒ぎ立てても意味はないのだよ。然るべき処理をしてもらわなくてはいけない」
そう言われてしまうと、何も反論できなくなってしまう。大人の対応だ。貴獅さんは、まともなことを言っている。あまりに日常を逸脱したことばかりが起きて、僕がただただ不安になっているだけなのだ。それは、僕自身にだって分かっていることで。
鬼の祟りなわけもなく。
水鬼なんているはずもなく。
これはきっと、不幸な事故なのだと。
そう考えるのが普通なのだ。
「……貴獅さんの言う通りです。すいません」
「いや、心配するのも尤もだ。……こんなことは、この街であってはならない」
満ち足りた暮らし。貴獅さんだって、それを求めている。街の人々だけでなく、自身の家族のためにも。
「永射さん……」
貴獅さんは、変わり果ててしまった、街の責任者の骸に、目を閉じてそっと祈りをささげる。
そう、彼が一番、満ち足りた暮らしを実現しようとしていたはずなのだ。
にも拘らず、彼は今、こうして冷たい、物言わぬ一個の物体となり果てて。
それは、どれほど悔しいことだろうかと、胸が痛んだ。
止まない雨の中、僕たちはしばらくの間、永射さんの遺体から離れたところで待っていた。やがて、早乙女さんが小型の担架を持ってきてくれて、それを佐曽利さんと貴獅さんが広げ、遺体を上に乗せた。
「僕も、手伝います」
「いや、そんなことはさせられんよ。むしろ、君は早く帰りなさい。とても、辛かっただろう」
「いえ……」
僕なんて、せいぜい死体に驚いたくらいのものだ。この街の行政を担っている人物の死は、牛牧さんたちのような人をこそ苦しめることになるはずなのだ。慰められるほどのものではない。僕は、部外者に等しい。
遺体は、佐曽利さんと貴獅さんの手により運ばれていった。早乙女さんも、その二人についていった。死体があった場所には、微量の血痕と、そして肉片らしきものだけが残された。牛牧さんは、それが目に入らないようにか、僕の前まで歩いてきて、
「儂らも行こう」
そう声を掛けてくれた。
「……牛牧さん」
「うん?」
「その……もうちょっと、調べてみませんか」
「……真智田くん」
「心配してくれるのは、嬉しいです。でも……何もできないのが、嫌で」
多少なりとも関わってしまったら。そのまま放っておく方が心苦しい。
それが、僕の悪い性格だ。
今まで、それがかえって傷を深くする原因になってしまっていたけれど、根っこにある行動原理というものだけは、簡単に変わるものではないようで。
「……まあ、儂も雨で流される前に、一通り調べておかねばならんと思っていたところでな」
牛牧さんは、諦め気味に溜息を吐き、
「君は責任感が強いな。損な性格をしている」
「……あはは、そうかもしれません」
責任感というわけでもない気はするけれど。
「久礼くんは、永射くんの遺体が川の上流から流されてきた可能性を指摘していたな。そこまで行ってみるとしようか」
「はい」
僕が頷くと、牛牧さんは先に歩き始めた。僕はまだふらつく足で、その後に従う。
上流へ向かう道は、たまに人の通りがあるため、雑草等は生えていない、踏み固められた道になっているものの、中々急こう配になっていて、下手をすれば転がり落ちてしまいそうになる。牛牧さんが転ばないように、気にかけておこうと思ったのだが、自分が足を滑らせないようにするので精一杯だった。
歩いている途中、ポケットの中で振動を感じた。スマホを取り出してみると、龍美から連絡が来ている。
『永射さんが亡くなったってホント?』
龍美がそれを知っていることに一瞬驚いたが、彼女は満雀ちゃんを病院まで送り届けていたのだ。そこで、早乙女さんから事情を聞いたのだろう。僕が発見者ということも、もしかしたら聞いているのかもしれない。
『本当。詳しくは分からないけど、もうちょっと調べることになりそう』
そう返すと、しばらく間があって、
『大変ね。私は、双太さんと土砂崩れの現場にいるわ。その話は知ってる?』
『土砂崩れは知ってる。一緒にいるんだね』
『うん。変なことばっかりね』
全くだ。僕らはいつの間にか、あの心地よい日常から道を外れ、混沌の渦巻く非日常へ入り込んでしまっている。いや、ひょっとすれば、最初から幸福な日常なんてものはなく、偶然にも何一つ起きない日々を、平穏だ、幸せだと思って生きてきただけなのかもしれないが。
その偶然は、もう終わってしまった。
それから、龍美の連絡はなかった。重苦しい気分の中歩き続け、十分ほどで川の上流に辿り着く。ここは、釣りのスポットとして街の人が利用することもある場所なので、川の両側に木の柵が立っていて、誤って落ちないような措置が施されている。
川は、地面から二メートルほど下に流れているので、転落してしまうとまず上がってはこれない。恐らく、数百メートル流された先でないと、川と地面が同じ高さの場所はないはずだ。……いずれにせよ、この雨で氾濫気味の川では、落ちてしまえばまず助かりっこないだろうが。
「……あ、あれ」
数メートル先、地面が少し高くなっている場所に、何かが置かれているのが見えた。雨のせいでよく見えないが、割と大きな物だ。
僕と牛牧さんは、ゆっくりとその物体に近づいていった。だんだんと、その形がはっきりしてくる。
「これは……靴じゃないか」
牛牧さんの言う通り、それは黒い革靴だった。持ち主は永射さんで間違いないだろう。遺体も確か、靴はしていなかった。
……だが、その革靴の置き方は、まるで。
「雨風のせいで、多少転がったりはしたんでしょうけど……何と言うか、これは」
「……うむ」
互いに、言いたいことは同じのようだった。
まるで、自殺を誇示するかのように、革靴は揃えて置かれていたということだ。
「牛牧さん。そんなこと、あるんでしょうか」
「いや。……儂には、そうとは思えないが」
多分、誰にもそうは思えないだろう。
だけど、靴はこうして揃えられている。
何故。
「街の長という立ち位置ゆえ、相当な心労はあったには違いないが……永射くんが、そのようなことで自殺などせんだろう」
「僕も、永射さんが自殺だとは考えられないです」
なら、結局これは不運な事故で。
揃えられた靴は、雨風によってたまたまそうなっただけなのだろうか。
……分からない。
分からないが……。
「……え?」
そのとき、僕はあることに気付いてしまった。
今来られたからこそ残っていた、ある痕跡に。
でも、それは。
それは、つまり……。
「……どうかしたかね」
「いや……なんでも」
逡巡。そして、僕は何も言えなかった。
だって……だって、それがあるということは。
一番可能性が高いのは、一番あってはならないこと。
一番、恐ろしいこと。
「……帰りましょう」
「うむ……これ以上は何も、見つかりそうにないな」
僕らは、やって来たときよりも慎重な足取りで、街へと戻っていく。
心に、大きな蟠りを抱えたまま。
……現場には、雨によって洗い流されかけた、僅かな痕跡が残されていた。
それは、ぬかるんだ地面を踏みしめた、靴跡。
永射さんの革靴の跡。
そして……大きさの違う、別の靴跡があった。
*
「玄人、お帰りなさい。心配したのよ」
殆ど濡れ鼠といった体の僕に、母さんは安堵しきったような表情になり、すぐに風呂に入るよう言われた。ある程度の経緯は、牛牧さんか誰かに連絡を受けているのだろう、母さんも、父さんも、突っ込んだ話はしてこなかった。
昼食はとるような時間ではもうなかったので、風呂で温まってからはずっと、部屋に閉じこもって過ごした。ただ、普段なら明かりや音を消してぼうっとすることが多い僕も、今このときばかりは、電気とテレビを点けていなければ、気分がどうにかなってしまいそうだった。
雨は、いつまでも止むことが無かった。何故だかこの雨が、永遠に降り続くような気すらした。
弱っているな、と思う。この街に来て、立ち直れたと信じていたけれど、やっぱり、僕の心は弱い。
龍美とは、夜になるまで何度かチャットで連絡をとりあった。彼女が見に行った土砂崩れの現場は、雨が弱まってから除去作業が行われる予定なのだと教えてくれた。永射さんがいなくなってしまった今、メインで動いているのは久礼家や牛牧さんたち病院関係者らしい。
これから、どうなるのだろう。騒ぎはすぐに収まって、また平穏と思える日常は、戻って来るのだろうか。
……戻って来てほしい。
それを、切に願う。
「……まだ、見てくれてないのか」
僕は、独り言ちる。
戻らないものが、もう一つ。いや、もう一人。
僕らの、大切な仲間。
虎牙は今、一体どこにいるというのだろう――。
残された僕ら四人は、彼女の姿が見えなくなるまでの間、呆然と、その背中を見つめることしか出来なかった。
やがて、その凍結が解けると、
「……馬鹿馬鹿しい話だ」
貴獅さんが、吐き捨てるようにそれだけを言った。
「昔の人間は、やたらとそういうことを信じたがる傾向がある……」
「まあまあ、久礼くん」
牛牧さんは、苛立っている貴獅さんを宥めようとする。
「貴方があの人を説得出来たのが奇跡としか思えませんよ、牛牧さん」
「……儂も、瓶井さんの気持ちはよく分かるのだ。些か信心深いだけで、ただ誰かが傷つくのを嫌うだけの女性なのだよ」
「……だと良いのですが」
貴獅さんがさり気なく、説得という言葉を口にしたが、それは恐らく病院のことだろう。考えてみれば、電波塔計画を快く思っていないのだから、病院設立の際も反対していたのに違いない。病院長であり発起人でもある牛牧さんは、そんな彼女を当時、必死に説得したのだろうな。
そのときから、牛牧さんと瓶井さんは、ある程度お互いを認め合っているのかもしれない。
「ふう……邪魔が入りましたが、永射さんの件をどうするか、考える必要がありますね」
「うむ。何にせよ、彼の遺体を運んでやらんといけないが……」
「……私が手伝いましょう」
それまで状況を見守っているだけだった佐曽利さんが、そこで口を開いた。
「それはありがたい。では、私と佐曽利さんで運ぶとしましょう」
「……すまないね、佐曽利さん」
「いいえ、必要なことであれば」
相変わらず、淡々とした口調で佐曽利さんは言う。
「早乙女に、搬送用の担架を運んでもらうよう伝えます。すぐに来てくれるでしょう」
貴獅さんは、ポケットのスマートフォンを取り出して、電話を掛けた。短いやり取りの後、通話が切られる。
早乙女さんか。女の人に、こんな雨の中、荷物を持ってきてもらうというのは、頼んだ本人ではないのに心苦しい。そう考えたとき、僕はおかしなことに気付いた。
「……あの、どうして早乙女さんなんですか?」
「む……」
「いや……双太さんじゃ駄目なのかと」
「……そうか。君は、聞いていないのか」
え?
聞いていないって、何の話だ?
「そう言えば、双太さんは電話で呼び出されてどこかへ向かったから……てっきり、永射さんのところだと思っていましたけど」
その永射さんは、ここでこうして、死体となって凄惨な姿を晒している。
だとすれば、双太さんは?
「彼は今、街外れの公道の様子を見に行ってくれている」
「……道路?」
まさか、という嫌な予感がした。
「ああ。昨日からの雨で、土砂崩れが起きたようでね。隣町に向かう道が塞がってしまっているらしいのだ」
「そ、そんな……!」
貴獅さんは抑揚のない声で言ってみせるが、それは重大な問題ではないのか。
つまり、この街は今、外部との行き来が出来なくなってしまったのではないのか……!
「落ち着きなさい、真智田くん。杜村くんの話では、そこまで大規模な土砂崩れではないそうだ。一週間もあれば除去出来るほどだと言っている。外部との連絡がとれないわけでもなし、今の時代、道が塞がれたら死活問題、というのは間違いだ」
「それは、そうですが……」
「一応、警察にも連絡は入れている。事故死なのだとは思うが……念のためにね。道路が復旧すれば、簡単な捜査にはやって来ると言ってくれている。確かに、異常事態ではあるが、不用意に騒ぎ立てても意味はないのだよ。然るべき処理をしてもらわなくてはいけない」
そう言われてしまうと、何も反論できなくなってしまう。大人の対応だ。貴獅さんは、まともなことを言っている。あまりに日常を逸脱したことばかりが起きて、僕がただただ不安になっているだけなのだ。それは、僕自身にだって分かっていることで。
鬼の祟りなわけもなく。
水鬼なんているはずもなく。
これはきっと、不幸な事故なのだと。
そう考えるのが普通なのだ。
「……貴獅さんの言う通りです。すいません」
「いや、心配するのも尤もだ。……こんなことは、この街であってはならない」
満ち足りた暮らし。貴獅さんだって、それを求めている。街の人々だけでなく、自身の家族のためにも。
「永射さん……」
貴獅さんは、変わり果ててしまった、街の責任者の骸に、目を閉じてそっと祈りをささげる。
そう、彼が一番、満ち足りた暮らしを実現しようとしていたはずなのだ。
にも拘らず、彼は今、こうして冷たい、物言わぬ一個の物体となり果てて。
それは、どれほど悔しいことだろうかと、胸が痛んだ。
止まない雨の中、僕たちはしばらくの間、永射さんの遺体から離れたところで待っていた。やがて、早乙女さんが小型の担架を持ってきてくれて、それを佐曽利さんと貴獅さんが広げ、遺体を上に乗せた。
「僕も、手伝います」
「いや、そんなことはさせられんよ。むしろ、君は早く帰りなさい。とても、辛かっただろう」
「いえ……」
僕なんて、せいぜい死体に驚いたくらいのものだ。この街の行政を担っている人物の死は、牛牧さんたちのような人をこそ苦しめることになるはずなのだ。慰められるほどのものではない。僕は、部外者に等しい。
遺体は、佐曽利さんと貴獅さんの手により運ばれていった。早乙女さんも、その二人についていった。死体があった場所には、微量の血痕と、そして肉片らしきものだけが残された。牛牧さんは、それが目に入らないようにか、僕の前まで歩いてきて、
「儂らも行こう」
そう声を掛けてくれた。
「……牛牧さん」
「うん?」
「その……もうちょっと、調べてみませんか」
「……真智田くん」
「心配してくれるのは、嬉しいです。でも……何もできないのが、嫌で」
多少なりとも関わってしまったら。そのまま放っておく方が心苦しい。
それが、僕の悪い性格だ。
今まで、それがかえって傷を深くする原因になってしまっていたけれど、根っこにある行動原理というものだけは、簡単に変わるものではないようで。
「……まあ、儂も雨で流される前に、一通り調べておかねばならんと思っていたところでな」
牛牧さんは、諦め気味に溜息を吐き、
「君は責任感が強いな。損な性格をしている」
「……あはは、そうかもしれません」
責任感というわけでもない気はするけれど。
「久礼くんは、永射くんの遺体が川の上流から流されてきた可能性を指摘していたな。そこまで行ってみるとしようか」
「はい」
僕が頷くと、牛牧さんは先に歩き始めた。僕はまだふらつく足で、その後に従う。
上流へ向かう道は、たまに人の通りがあるため、雑草等は生えていない、踏み固められた道になっているものの、中々急こう配になっていて、下手をすれば転がり落ちてしまいそうになる。牛牧さんが転ばないように、気にかけておこうと思ったのだが、自分が足を滑らせないようにするので精一杯だった。
歩いている途中、ポケットの中で振動を感じた。スマホを取り出してみると、龍美から連絡が来ている。
『永射さんが亡くなったってホント?』
龍美がそれを知っていることに一瞬驚いたが、彼女は満雀ちゃんを病院まで送り届けていたのだ。そこで、早乙女さんから事情を聞いたのだろう。僕が発見者ということも、もしかしたら聞いているのかもしれない。
『本当。詳しくは分からないけど、もうちょっと調べることになりそう』
そう返すと、しばらく間があって、
『大変ね。私は、双太さんと土砂崩れの現場にいるわ。その話は知ってる?』
『土砂崩れは知ってる。一緒にいるんだね』
『うん。変なことばっかりね』
全くだ。僕らはいつの間にか、あの心地よい日常から道を外れ、混沌の渦巻く非日常へ入り込んでしまっている。いや、ひょっとすれば、最初から幸福な日常なんてものはなく、偶然にも何一つ起きない日々を、平穏だ、幸せだと思って生きてきただけなのかもしれないが。
その偶然は、もう終わってしまった。
それから、龍美の連絡はなかった。重苦しい気分の中歩き続け、十分ほどで川の上流に辿り着く。ここは、釣りのスポットとして街の人が利用することもある場所なので、川の両側に木の柵が立っていて、誤って落ちないような措置が施されている。
川は、地面から二メートルほど下に流れているので、転落してしまうとまず上がってはこれない。恐らく、数百メートル流された先でないと、川と地面が同じ高さの場所はないはずだ。……いずれにせよ、この雨で氾濫気味の川では、落ちてしまえばまず助かりっこないだろうが。
「……あ、あれ」
数メートル先、地面が少し高くなっている場所に、何かが置かれているのが見えた。雨のせいでよく見えないが、割と大きな物だ。
僕と牛牧さんは、ゆっくりとその物体に近づいていった。だんだんと、その形がはっきりしてくる。
「これは……靴じゃないか」
牛牧さんの言う通り、それは黒い革靴だった。持ち主は永射さんで間違いないだろう。遺体も確か、靴はしていなかった。
……だが、その革靴の置き方は、まるで。
「雨風のせいで、多少転がったりはしたんでしょうけど……何と言うか、これは」
「……うむ」
互いに、言いたいことは同じのようだった。
まるで、自殺を誇示するかのように、革靴は揃えて置かれていたということだ。
「牛牧さん。そんなこと、あるんでしょうか」
「いや。……儂には、そうとは思えないが」
多分、誰にもそうは思えないだろう。
だけど、靴はこうして揃えられている。
何故。
「街の長という立ち位置ゆえ、相当な心労はあったには違いないが……永射くんが、そのようなことで自殺などせんだろう」
「僕も、永射さんが自殺だとは考えられないです」
なら、結局これは不運な事故で。
揃えられた靴は、雨風によってたまたまそうなっただけなのだろうか。
……分からない。
分からないが……。
「……え?」
そのとき、僕はあることに気付いてしまった。
今来られたからこそ残っていた、ある痕跡に。
でも、それは。
それは、つまり……。
「……どうかしたかね」
「いや……なんでも」
逡巡。そして、僕は何も言えなかった。
だって……だって、それがあるということは。
一番可能性が高いのは、一番あってはならないこと。
一番、恐ろしいこと。
「……帰りましょう」
「うむ……これ以上は何も、見つかりそうにないな」
僕らは、やって来たときよりも慎重な足取りで、街へと戻っていく。
心に、大きな蟠りを抱えたまま。
……現場には、雨によって洗い流されかけた、僅かな痕跡が残されていた。
それは、ぬかるんだ地面を踏みしめた、靴跡。
永射さんの革靴の跡。
そして……大きさの違う、別の靴跡があった。
*
「玄人、お帰りなさい。心配したのよ」
殆ど濡れ鼠といった体の僕に、母さんは安堵しきったような表情になり、すぐに風呂に入るよう言われた。ある程度の経緯は、牛牧さんか誰かに連絡を受けているのだろう、母さんも、父さんも、突っ込んだ話はしてこなかった。
昼食はとるような時間ではもうなかったので、風呂で温まってからはずっと、部屋に閉じこもって過ごした。ただ、普段なら明かりや音を消してぼうっとすることが多い僕も、今このときばかりは、電気とテレビを点けていなければ、気分がどうにかなってしまいそうだった。
雨は、いつまでも止むことが無かった。何故だかこの雨が、永遠に降り続くような気すらした。
弱っているな、と思う。この街に来て、立ち直れたと信じていたけれど、やっぱり、僕の心は弱い。
龍美とは、夜になるまで何度かチャットで連絡をとりあった。彼女が見に行った土砂崩れの現場は、雨が弱まってから除去作業が行われる予定なのだと教えてくれた。永射さんがいなくなってしまった今、メインで動いているのは久礼家や牛牧さんたち病院関係者らしい。
これから、どうなるのだろう。騒ぎはすぐに収まって、また平穏と思える日常は、戻って来るのだろうか。
……戻って来てほしい。
それを、切に願う。
「……まだ、見てくれてないのか」
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僕らの、大切な仲間。
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