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第一章
第六話 春雨の夜 6 (侯爵視点)
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「ありゃ、確か――サティナ? こんなとこで何してる‥‥‥」
水場とはいえ、井戸端までくる時代は終わった。いまでは各部屋のどこかに飲み水を入れたポットや水瓶が置いてある。井戸の蓋はきちんとはまっていて中から水をくむことはできない。その代わり、圧力をかけて必要な場所である洗い場や風呂、その他に配水するようになっている。
つまるところ、ここに来る理由はあまりないのだ。他の目的以外には。
「んーっ、動かないじゃん‥‥‥。もう少しなのに」
そんな困った声がマックスのところまで聞こえてきた。
じっと見ていると、サティナは井戸の蓋を外そうとしているらしい。そうそう簡単には動かないだろ、そりゃ。
鍵がかかってるんだからとマックスは失笑してしまう。
注意深く見ればわかるものを、どうしてこうも見落とすのか。
抜けている? それとも疲れ果てて集中力がないのか?
「なんで動かない‥‥‥あ。これは無理だよね、うん。鍵ついてんじゃん。どうしよ」
「どうしよう、じゃないだろ、サティナ? 何してんだ?」
「ひっ!?」
後ろから不意にかけられた声に、少女は赤毛を振り乱して後ろに振り返る。そこに見知った顔をみつけて安堵の吐息をもらしていたが、その様はぶかっこうでとても女性らしいとは言えなかった。
「あんただれ? あれ‥‥‥どっかで見た顔」
「どっかでじゃなくて、マックスだよ。一週間もいるだろうが、何言ってんだ? あんたサティナだろ」
「なんであたしの名前知ってんの。へんなやつ」
怪しいと見つめるその瞳の色は黒。どことなく他人を信頼していない、心のなかに闇をかかえている人間の瞳。マックスのよく知っている目だ。貧乏に明日を夢見る勇気を‥‥‥うしなった人間の目。この色街にはよくあるそんなものだった。
「変なのはおまえだよ、サティナ。俺はこの店に先週からいるんだぞ、知らない方がおかしいだろ?」
「あたしが知らないのに、あんたが知ってるのがおかしくない? 不公平じゃん」
頭大丈夫かこいつ? マックスは一瞬だけサティナを心配した。素で言っているならこんなバカ‥‥‥あ、いや。少しだけまともじゃない少女の将来を危ぶんでしまいそうだった。
とはいえ、この街。しかも、こんな店に身を寄せている自体が光が少ないように見えて仕方ない。
「なあ、サティナ。考えてしゃべったほうがいいぞ? そんなとこで何してたんだ。井戸の蓋なんかにかかりきりになるような用事、与えられたのか?」
「あ、いや。これは‥‥‥なんでもないよ。旦那さんにここを掃除しろって言われて」
「掃除? それは俺が言いつけられたと思うんだが、応援にでも行けって言われたか?」
「へ!? あ、そう。そうなんだよ、あの岩石オヤジ。人使いがあらくってさあ!!」
「ふーん。もう終わったけどな?」
「あ‥‥‥」
間の抜けた声。言い逃れの下手なやつ。そして、嘘を見抜かれて最後には孤独になる女。この色街によくいるタイプだ。こんな若いときから覚えていい処世術じゃない‥‥‥
「おい、サティナ」
「なんだよ、居残りのくせに偉そうに!」
「知ってるじゃないか?」
「あっ‥‥‥」
「間抜け。亭主には俺が先に終わらせてましたって言っとけよ。それから、さっさと戻れ。見つかったらロクなことにならんぞ。黙っといてやるから」
「なんだよ、それ!? あたしは何も悪いことなんかしてない!!!」
大声でそう叫ぶサティナだが、どことなく後ろめたさを感じていることがよくわかる態度だった。マックスはああ、そうだな。と笑い受け流すとサティナの背中を押してその場を後にする。
「ちょっと、押すなって!!」
「いいから、戻れよ。そろそろ開店の時間だろ? いないとどやされるぞ?」
「うーっ!!」
「うなるな! ここで俺といて、男と女の仲、なんて噂がたってもいいなら俺はかまわんぞ? それだと常連客に聞かれたらつらいことになるな?」
「あんたっ。脅す気なの??」
「だから、戻れって言ってんだよ。他に何かやることあるのなら、やっといてやるからさ。な?」
そこまで譲歩してみると、サティナの重かった足取りがぴたっと止んだ。どうやらここで何かをしろと言われているのは本当らしい。ただ、それを上手くできないから、悩んでいた。そんな感じだった。
「なら‥‥‥ねえ、本当にやってくれる? 嘘言わない? 自分がやったって旦那さんに言いつけない??」
「別に言っても徳がないだろ?」
「うーん‥‥‥。なら、これをね? あの井戸の蓋の端にある引き手にくっつけて欲しいの」
「なんだこりゃ? 取っ手に? どうつけるんだ、こんなもの??」
手渡されたそれは、コの字型の金属製の留め具のようなものだった。何に使うのかがはっきりしないそれを、サティナは指先でくるくると回して、さあ? と言いだす始末だ。
「あたしも言われただけだから。この広く空いてるほうを、下にして押し込めって。でも、ずれないから押し込めないんだよねー。困っちゃって」
「まあ、これだけでいいなら。このあと明日の朝まで暇だからな。いつまでにやればいい?」
「なんだっけ? えーと、確か月が昇るまで??」
「なら、四時間以上あるな。へいへい、やっとくよ」
「本当に!? じゃあ、任せたよ? あたし、準備するから――」
と、サティナは能天気な声をだし去ろうとする。その背にマックスは質問を投げかけた。
「おい、サティナ」
「なんだい、居残りさん」
「これ、主人からの命令なんだよな?」
「‥‥‥え? あ、ああ。そうだよ、もちろん」
「そっか。わかった」
「じゃあ、よろしく、ね??」
内心どきりとしたのだろう。ひやりとしたような顔つきを隠すようにして、彼女は去っていく。主人の命令じゃないなら、誰がやらせてるんだ? マックスはとりあえず、それが押し込めるものかどうか。井戸の蓋の取っ手部分を確認することにした。
水場とはいえ、井戸端までくる時代は終わった。いまでは各部屋のどこかに飲み水を入れたポットや水瓶が置いてある。井戸の蓋はきちんとはまっていて中から水をくむことはできない。その代わり、圧力をかけて必要な場所である洗い場や風呂、その他に配水するようになっている。
つまるところ、ここに来る理由はあまりないのだ。他の目的以外には。
「んーっ、動かないじゃん‥‥‥。もう少しなのに」
そんな困った声がマックスのところまで聞こえてきた。
じっと見ていると、サティナは井戸の蓋を外そうとしているらしい。そうそう簡単には動かないだろ、そりゃ。
鍵がかかってるんだからとマックスは失笑してしまう。
注意深く見ればわかるものを、どうしてこうも見落とすのか。
抜けている? それとも疲れ果てて集中力がないのか?
「なんで動かない‥‥‥あ。これは無理だよね、うん。鍵ついてんじゃん。どうしよ」
「どうしよう、じゃないだろ、サティナ? 何してんだ?」
「ひっ!?」
後ろから不意にかけられた声に、少女は赤毛を振り乱して後ろに振り返る。そこに見知った顔をみつけて安堵の吐息をもらしていたが、その様はぶかっこうでとても女性らしいとは言えなかった。
「あんただれ? あれ‥‥‥どっかで見た顔」
「どっかでじゃなくて、マックスだよ。一週間もいるだろうが、何言ってんだ? あんたサティナだろ」
「なんであたしの名前知ってんの。へんなやつ」
怪しいと見つめるその瞳の色は黒。どことなく他人を信頼していない、心のなかに闇をかかえている人間の瞳。マックスのよく知っている目だ。貧乏に明日を夢見る勇気を‥‥‥うしなった人間の目。この色街にはよくあるそんなものだった。
「変なのはおまえだよ、サティナ。俺はこの店に先週からいるんだぞ、知らない方がおかしいだろ?」
「あたしが知らないのに、あんたが知ってるのがおかしくない? 不公平じゃん」
頭大丈夫かこいつ? マックスは一瞬だけサティナを心配した。素で言っているならこんなバカ‥‥‥あ、いや。少しだけまともじゃない少女の将来を危ぶんでしまいそうだった。
とはいえ、この街。しかも、こんな店に身を寄せている自体が光が少ないように見えて仕方ない。
「なあ、サティナ。考えてしゃべったほうがいいぞ? そんなとこで何してたんだ。井戸の蓋なんかにかかりきりになるような用事、与えられたのか?」
「あ、いや。これは‥‥‥なんでもないよ。旦那さんにここを掃除しろって言われて」
「掃除? それは俺が言いつけられたと思うんだが、応援にでも行けって言われたか?」
「へ!? あ、そう。そうなんだよ、あの岩石オヤジ。人使いがあらくってさあ!!」
「ふーん。もう終わったけどな?」
「あ‥‥‥」
間の抜けた声。言い逃れの下手なやつ。そして、嘘を見抜かれて最後には孤独になる女。この色街によくいるタイプだ。こんな若いときから覚えていい処世術じゃない‥‥‥
「おい、サティナ」
「なんだよ、居残りのくせに偉そうに!」
「知ってるじゃないか?」
「あっ‥‥‥」
「間抜け。亭主には俺が先に終わらせてましたって言っとけよ。それから、さっさと戻れ。見つかったらロクなことにならんぞ。黙っといてやるから」
「なんだよ、それ!? あたしは何も悪いことなんかしてない!!!」
大声でそう叫ぶサティナだが、どことなく後ろめたさを感じていることがよくわかる態度だった。マックスはああ、そうだな。と笑い受け流すとサティナの背中を押してその場を後にする。
「ちょっと、押すなって!!」
「いいから、戻れよ。そろそろ開店の時間だろ? いないとどやされるぞ?」
「うーっ!!」
「うなるな! ここで俺といて、男と女の仲、なんて噂がたってもいいなら俺はかまわんぞ? それだと常連客に聞かれたらつらいことになるな?」
「あんたっ。脅す気なの??」
「だから、戻れって言ってんだよ。他に何かやることあるのなら、やっといてやるからさ。な?」
そこまで譲歩してみると、サティナの重かった足取りがぴたっと止んだ。どうやらここで何かをしろと言われているのは本当らしい。ただ、それを上手くできないから、悩んでいた。そんな感じだった。
「なら‥‥‥ねえ、本当にやってくれる? 嘘言わない? 自分がやったって旦那さんに言いつけない??」
「別に言っても徳がないだろ?」
「うーん‥‥‥。なら、これをね? あの井戸の蓋の端にある引き手にくっつけて欲しいの」
「なんだこりゃ? 取っ手に? どうつけるんだ、こんなもの??」
手渡されたそれは、コの字型の金属製の留め具のようなものだった。何に使うのかがはっきりしないそれを、サティナは指先でくるくると回して、さあ? と言いだす始末だ。
「あたしも言われただけだから。この広く空いてるほうを、下にして押し込めって。でも、ずれないから押し込めないんだよねー。困っちゃって」
「まあ、これだけでいいなら。このあと明日の朝まで暇だからな。いつまでにやればいい?」
「なんだっけ? えーと、確か月が昇るまで??」
「なら、四時間以上あるな。へいへい、やっとくよ」
「本当に!? じゃあ、任せたよ? あたし、準備するから――」
と、サティナは能天気な声をだし去ろうとする。その背にマックスは質問を投げかけた。
「おい、サティナ」
「なんだい、居残りさん」
「これ、主人からの命令なんだよな?」
「‥‥‥え? あ、ああ。そうだよ、もちろん」
「そっか。わかった」
「じゃあ、よろしく、ね??」
内心どきりとしたのだろう。ひやりとしたような顔つきを隠すようにして、彼女は去っていく。主人の命令じゃないなら、誰がやらせてるんだ? マックスはとりあえず、それが押し込めるものかどうか。井戸の蓋の取っ手部分を確認することにした。
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