華の剣士

小夜時雨

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番外編 ムニル過去編

碧色の鬼灯

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 ムニルは堀をさらに囲んでいる、柵を掴み、足の親指でも柵を掴む。そうして少しずつ登り、柵の向こう側に降り立った。堀の土は、掘り起こしたりと作業をしやすいためにか、花街の地面と比べて柔らかく砂利が少なかった。優しい砂の感触が足裏に伝わる。

(これを泳がなくちゃ、向こう側にはいかないわよね。)

 ムニルは堀を流れる黒々とした水の流れを見て、生唾を呑む。花街の、そして妓楼の一角で生きてきたムニルは、今まで泳いだことがない。そのため、どうやって泳げばいいのかわからなかった。

(考えたってしょうがないわ!やったことなんてないもの!)

 ムニルは思い切って堀の中に飛び込む。思わず目を瞑る。水と己の体がぶつかり合う感触を覚悟したが、それはいつまでもやってこない。

(あら…?)

 ムニルは片目を少しずつ開ける。そして、目に飛び込んできた状況に混乱した。

(どういうこと!?水の上に立ってる!)

 間違いなく、しっかりと水面の上に立っている。ムニルは恐る恐るその場で足踏みをしてみた。水の感触と足の動きに合わせて水が跳ねる。

(信じられない…)

 いつも風呂に浸かるときは水面に立つことなどなかった。その奇怪な光景を目の当たりにして、ムニルは己が化け物だと言われる理由がわかったような気がした。

(たしか、私が生まれた時も、この堀に繋がる溝にと聞いたわ…。おかしな話だと思ってはいたけれど、こういうことだったのね…。)

 ムニルも己の容姿が異なることは分かっていた。鏡越しに己の背に生える鱗を見たこともある。しかし、己は人間と同様に二本足で歩いているし、言葉も話す。そして何より心もあるのだ。
 皆に人間ではないと言われようとも、ムニル自身では少し容姿が変わっているだけだと思いこみたかったし、そう言い聞かせてきた。そうでなければ、ムニルは自分で自分の生い立ちを呪いたくなると本能的に悟っていたのだ。
 しかし、そうやって己の心を保ってきた細い細い糸は、たった今途絶えた。これは紛れもなく、超人、いや人ならざる力だ。

「あっははははははは…!」

 まだ幼さの残る、引き絞るような笑い声が喉をついて出た。微かに白み始めた藍の空に、きん、と響く。ひとしきり笑い終えて、肩で息をした。思い切り笑ったことは間違い無いが、虚しい徒労感がムニルを襲う。

(私は人間じゃなかった。そんな私がこの花街を出て、何が出来ると言うのかしら。)

 そう諦めの混じった思いが込み上げてくる。ムニルの今の力を使えば、この川を渡り、堀の向こう側に行くことは難しくはないだろう。しかし、ムニルは生まれてから人々から蔑まれ、ここで生きることしかできないと言う考えに縛られて生きてきた。その考えはムニルの心も体をも縛り、呪いのように離れない。

(これじゃあ、花街の外に出ても結局は同じだわ)

 ムニルはこの堀の向こうの世界のことが突然恐ろしくなった。足を竦ませたまま、堀の向こう側に広がる空を眺める。空は朝焼けで赤く、燃え立つようだった。厳かで眩しく、ムニルには縁遠いものだと光を浴びながらひしひしと感じる。

(…帰ろう)

 ムニルの冒険は堀の中で幕を閉じた。走り続けたためか、鈍い痛みを発する脚を引き摺りながら花街の中を歩く。たくし上げていた着物の裾も、今はずるずると地を這う。

(私は…私は何なんだろう。人じゃ無い。けど、悲しい気持ちはある。水の上を歩けるけど、人と話すことができる。人とは違う力を持ってる。でも…自分の好きなようも生きていけない。)

 妓館に帰る道すがら、簪が落ちているのを見つけた。拾い上げると妓館を出るときにムニルが落としたものだった。朝日を浴びて、翡翠が光を反射する。ムニルは簪を胸に押し抱き、嗚咽を堪えながら涙を流すのだった。


 


 
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