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番外編 ムニル過去編
碧色の鬼灯
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襖の向こうには何とも華やかな世界が広がっていた。祇女たちが舞い、それに合わせて花びらが踊る。雅な琴の音がその舞に色を添えていた。座敷に据えられている屏風は楽園を表しており、天女が色とりどりの衣を纏って舞っている絵で、まさにその屏風と同じような光景が目の前に広がっていた。
「おお、ジェヒョン。お前もこちらに来い」
「はい、ビョンジン様。しかしその前に」
ジェヒョンがビョンジンに膳に乗った酒を手で示す。ビョンジンはその仕草だけで、心得たように肯く。馴染みの客で、繰り返しているからこそのやりとりだ。
ビョンジンが無言で差し出した杯に、ジェヒョンが慣れた手つきで酒を注ぐ。二人は黙ったままであったが、静まり返るような気まずさもなく、あれほどにご機嫌な様子だったビョンジンはすっかり穏やかな表情になっていた。
(流石ジェヒョンさんと言うべきなのかしら…。ただただ賑やかに騒ぐことも悪いわけではないけれど、盛り上がると言うことは必ず終わりが来る…。それよりも穏やかで楽しい空間を作り出すのはもっと難しいと思うもの。)
ムニルはこの店の、一番の稼ぎ頭である彼女に感嘆した。人の心をいつの間にか掴み、そして決して離さない。しかし、それはしがらみのように人の自由を奪い、闇へと引き摺り込むような強い力ではなく、そっと包み込むような力だった。
琴を鳴らしながら、ムニルは宴の様子を眺める。だんだんと曲や踊りに合わせて、宴もたけなわになった。ビョンジンと妓女は手遊びをし、勝った負けたと騒いでいる。よく見る客と妓女の風景だ。
(なんだか嫌な予感がすると思っていたけれど、気のせいだったのかしら)
ムニルは華やかな座敷の様子を眺め、ほっと息をつく。このまま進めば、己は琴を弾くだけに徹すれば良い。緊張する事はないのだと、今まで目まぐるしく脈打っていた己の鼓動を宥めた。そうする事で、ようやく己の指先の感触が戻る。琴を弾く手つきは滑らかになった。
そうしているうちに、この座敷にいる者の大半はこの夢見心地のような感覚が、ずっと続いて行きそうな恍惚とした心持ちになっていた。しかし、何事にも始まりと終わりはあるものだ。座敷のあちらこちらに据えられている蝋燭がゆっくりと溶けていくように、穏やかにその座敷の盛り上がりは落ち着いていった。
多くの妓女はじんわりとした達成感にも似た疲労感があり、眠気が体を蝕むような感覚に陥った。そろそろ太陽が顔を出し、朝が訪れる。
座敷に据えられた蝋燭は今にも燃え尽きそうだった。いつもは朝日が昇るまで煌々と灯されているのだが、今日は一度も交換されず、座敷は暗かった。
(みんな夢中になりすぎて、交換する役の人が忘れていたのかしら…?)
ムニルがそう疑問に思っていると、何者かが近づいてくる気配がした。どきりとして、勢いよくそちらをみると、妓主だった。妓主はムニルの方に手を置き、
「今から窓の方に背を向けて、上着を脱ぎなさい」
と言う。ムニルはその指示の意図が読めず、混乱した。ここは妓館だ。男の自分がなぜ上着を脱ぐのか。
しかし、それを問おうと妓主を見ても、彼は表情も変えず暗闇で光る鋭い目つきでムニルを見つめている。拒否できないことをムニルは悟った。
上着の紐を解く指先は震えていて、思うように動かせず、もどかしい。ようやく上着を脱いだ時に、後ろの窓から朝日が差し込んで来ていることに気がついた。
徐々に座敷が朝日で照らされ、その時ビョンジンの息を飲む音が聞こえる。
「これは…。まさか」
「ええ、そのまさかです」
「あの時の赤子はまだ生きていたのか…」
ムニルに対して、恐れが混じったような声を出す者も久しぶりだ、とムニルは自身を俯瞰しているような、妙に頭の一部が冷めていた。
そしてこの時、何年もの間、妓主が自身に求めていたことをようやく理解したのだった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
騒ぎ疲れ、心地よい眠気がビョンジンを襲い始めた頃、それは始まった。数年前から女の格好をする童子がいた事は知っていた。
今日、初めてその件の少年が座敷で琴を弾いているところ見たが、なるほど中性的な美貌の持ち主で、妓女の格好をしていても何ら違和感はなかった。細く女よりやや筋肉質な腕であったために、男だと言う事はすぐにわかったが、それを含めても美しいことに変わりはなかった。
(ここの妓主は相変わらず妙なことをするな。まぁ、その斬新さが面白いのだが)
ビョンジンは少年に対してその程度しか興味を抱いていなかったが、まさかその少年が10年以上前に騒ぎになった赤ん坊であったとは露ほども知らなかった。
あれほどに恐ろしくおぞましいと聞いていた背の鱗は、朝日の光を弾き、宝石のように輝いていた。
元は碧色なのだろう。朝日の赤い色を帯びて、一部が橙色に染まり、熟れかけの鬼灯のようだった。
(何と神々しいのだろう…)
ビョンジンは昔少年の背の鱗を恐れたと言う者達のことが信じられなかった。これはこの少年の背でしか見ることのできない、貴重なものだ。美術品とも言えた。
「おお、ジェヒョン。お前もこちらに来い」
「はい、ビョンジン様。しかしその前に」
ジェヒョンがビョンジンに膳に乗った酒を手で示す。ビョンジンはその仕草だけで、心得たように肯く。馴染みの客で、繰り返しているからこそのやりとりだ。
ビョンジンが無言で差し出した杯に、ジェヒョンが慣れた手つきで酒を注ぐ。二人は黙ったままであったが、静まり返るような気まずさもなく、あれほどにご機嫌な様子だったビョンジンはすっかり穏やかな表情になっていた。
(流石ジェヒョンさんと言うべきなのかしら…。ただただ賑やかに騒ぐことも悪いわけではないけれど、盛り上がると言うことは必ず終わりが来る…。それよりも穏やかで楽しい空間を作り出すのはもっと難しいと思うもの。)
ムニルはこの店の、一番の稼ぎ頭である彼女に感嘆した。人の心をいつの間にか掴み、そして決して離さない。しかし、それはしがらみのように人の自由を奪い、闇へと引き摺り込むような強い力ではなく、そっと包み込むような力だった。
琴を鳴らしながら、ムニルは宴の様子を眺める。だんだんと曲や踊りに合わせて、宴もたけなわになった。ビョンジンと妓女は手遊びをし、勝った負けたと騒いでいる。よく見る客と妓女の風景だ。
(なんだか嫌な予感がすると思っていたけれど、気のせいだったのかしら)
ムニルは華やかな座敷の様子を眺め、ほっと息をつく。このまま進めば、己は琴を弾くだけに徹すれば良い。緊張する事はないのだと、今まで目まぐるしく脈打っていた己の鼓動を宥めた。そうする事で、ようやく己の指先の感触が戻る。琴を弾く手つきは滑らかになった。
そうしているうちに、この座敷にいる者の大半はこの夢見心地のような感覚が、ずっと続いて行きそうな恍惚とした心持ちになっていた。しかし、何事にも始まりと終わりはあるものだ。座敷のあちらこちらに据えられている蝋燭がゆっくりと溶けていくように、穏やかにその座敷の盛り上がりは落ち着いていった。
多くの妓女はじんわりとした達成感にも似た疲労感があり、眠気が体を蝕むような感覚に陥った。そろそろ太陽が顔を出し、朝が訪れる。
座敷に据えられた蝋燭は今にも燃え尽きそうだった。いつもは朝日が昇るまで煌々と灯されているのだが、今日は一度も交換されず、座敷は暗かった。
(みんな夢中になりすぎて、交換する役の人が忘れていたのかしら…?)
ムニルがそう疑問に思っていると、何者かが近づいてくる気配がした。どきりとして、勢いよくそちらをみると、妓主だった。妓主はムニルの方に手を置き、
「今から窓の方に背を向けて、上着を脱ぎなさい」
と言う。ムニルはその指示の意図が読めず、混乱した。ここは妓館だ。男の自分がなぜ上着を脱ぐのか。
しかし、それを問おうと妓主を見ても、彼は表情も変えず暗闇で光る鋭い目つきでムニルを見つめている。拒否できないことをムニルは悟った。
上着の紐を解く指先は震えていて、思うように動かせず、もどかしい。ようやく上着を脱いだ時に、後ろの窓から朝日が差し込んで来ていることに気がついた。
徐々に座敷が朝日で照らされ、その時ビョンジンの息を飲む音が聞こえる。
「これは…。まさか」
「ええ、そのまさかです」
「あの時の赤子はまだ生きていたのか…」
ムニルに対して、恐れが混じったような声を出す者も久しぶりだ、とムニルは自身を俯瞰しているような、妙に頭の一部が冷めていた。
そしてこの時、何年もの間、妓主が自身に求めていたことをようやく理解したのだった。
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騒ぎ疲れ、心地よい眠気がビョンジンを襲い始めた頃、それは始まった。数年前から女の格好をする童子がいた事は知っていた。
今日、初めてその件の少年が座敷で琴を弾いているところ見たが、なるほど中性的な美貌の持ち主で、妓女の格好をしていても何ら違和感はなかった。細く女よりやや筋肉質な腕であったために、男だと言う事はすぐにわかったが、それを含めても美しいことに変わりはなかった。
(ここの妓主は相変わらず妙なことをするな。まぁ、その斬新さが面白いのだが)
ビョンジンは少年に対してその程度しか興味を抱いていなかったが、まさかその少年が10年以上前に騒ぎになった赤ん坊であったとは露ほども知らなかった。
あれほどに恐ろしくおぞましいと聞いていた背の鱗は、朝日の光を弾き、宝石のように輝いていた。
元は碧色なのだろう。朝日の赤い色を帯びて、一部が橙色に染まり、熟れかけの鬼灯のようだった。
(何と神々しいのだろう…)
ビョンジンは昔少年の背の鱗を恐れたと言う者達のことが信じられなかった。これはこの少年の背でしか見ることのできない、貴重なものだ。美術品とも言えた。
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