1 / 8
本編
定めの鎖
しおりを挟む
「困るな、桔梗。前回の修行から今日まで、いったい何をしていたんだい?」
夕暮れの稽古場。
土の上に散った草葉は踏み荒らされ、湿った空気に木の匂いが混じっている。
桔梗は汗で重くなった前髪を払い、必死に息を整えていた。
「はっ……はぁ……っ」
肩を上下させる桔梗の前で、彼女の婚約者である修治院 松久が木刀を下げる。
「……その、復習を……しておりましたが、上手く……できなくて」
「上手くできない?はは……言い訳ばかりだね。どれだけ指導しても成果がないなんて、僕の評価まで疑われてしまう」
その声は静かだが、突き放すような響きがあった。
津久見神社の一人娘の桔梗と、魔祓いのエリート一族である修治院家の次男の松久は、15歳の時婚姻を結んだ。
松久は幼い頃から桔梗に目を留めていた。
その松久と桔梗の間に婚姻紋が現れたことで、両家の話は一気に進み、婚約は「定め」として受け入れられた。
けれど、今の桔梗にとってそれは祝福の証ではなく、彼のそばから逃げられない鎖のように思えてならない。
松久の整った顔には笑みらしきものが浮かんでいたが、その目は冷たい。
桔梗の喉がきゅっと縮む。
「そ、そんな……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
御札を胸に抱きしめるようにして、桔梗は小さな声で謝った。
「謝るのは簡単だよ。でもね、桔梗。君は僕の婚約者なんだ。僕の隣に立つ人間が、非才だと周りに思われるのは許されない」
松久は歩み寄り、桔梗の顎に指をかけて顔を上げさせる。
優しい仕草に見えるが、逃げ場を与えない力がそこにあった。
「でも安心してほしい。僕は君を見捨てない。誰よりも君のことを思っているし、君のことを信じているからね」
「……はい」
「君に他の選択肢なんてないんだよ。この婚姻紋が示す通り、僕と君は結ばれる定めなのだから。君はただ僕を信じていればいい」
うっとりとした表情で左手の甲を見つめる松久から、桔梗は思わず視線を逸らした。
胸の奥に、熱い痛みが広がる。
その痛みを隠すように、もう一度小さく頭を下げた。
「……はい。松久様」
「そう。いい子だ」
彼は桔梗の頭をふわりと撫で、満足げに微笑む。
けれど桔梗にとっては、褒められるよりも鎖を重ねられたように感じられた。
◇
修行を終え、自室に戻ると桔梗は畳に腰を下ろす。
障子を閉め切り、ようやく吐き出した息は重かった。
手の甲を見下ろすと淡い光を帯びた紋がそこにある。
「……こんなものさえ、なければ」
ぽつり、と思わず声に出してしまった。
誰もいない部屋だからこそ許された呟き。
その響きは、桔梗自身の心を切り裂いた。
――婚姻紋。
魔祓いと巫女の間に現れる紋様のことを人々はそのように呼ぶ。
左手の甲に浮かぶそれは、まるで小さな花弁のように繊細で、光を受けるたび淡く輝く。
だが、その美しさの裏には、決して軽くない意味が宿っていた。
本来これは、“婚姻”を示すものではない。
魔祓いの力と巫女の祈りが完全に共鳴したとき、自然に刻まれる“契約の証”だ。
古来より魔祓いと巫女は、命の危険を分かち合う運命にある。
互いの魔力を循環させるため、共に暮らし、心を通わせねばならない。
その結果、いつしか「婚姻紋」という名が定着したのだ。
桔梗は布団に身をぼふんと投げ出した。
「……私がもっと優秀で魔力供給をうまくできれば、松久様に迷惑をかけずに済むのに」
口にしながらも、その言葉に自分でも空しさを覚える。
努力しても、彼の目に映る自分は「無能」なまま。
それでも松久は「誰よりも君を思っている」と繰り返す。
その優しさの形をした鎖が、桔梗を締めつけていた。
桔梗は目を閉じ、心の奥底にだけ小さな願いを忍ばせる。
――もしも、この婚姻紋がなかったなら。
私は自由に生きることができただろうか。
その答えは出ない。
夕日が差し込む中、か細い吐息が溶けていった。
夕暮れの稽古場。
土の上に散った草葉は踏み荒らされ、湿った空気に木の匂いが混じっている。
桔梗は汗で重くなった前髪を払い、必死に息を整えていた。
「はっ……はぁ……っ」
肩を上下させる桔梗の前で、彼女の婚約者である修治院 松久が木刀を下げる。
「……その、復習を……しておりましたが、上手く……できなくて」
「上手くできない?はは……言い訳ばかりだね。どれだけ指導しても成果がないなんて、僕の評価まで疑われてしまう」
その声は静かだが、突き放すような響きがあった。
津久見神社の一人娘の桔梗と、魔祓いのエリート一族である修治院家の次男の松久は、15歳の時婚姻を結んだ。
松久は幼い頃から桔梗に目を留めていた。
その松久と桔梗の間に婚姻紋が現れたことで、両家の話は一気に進み、婚約は「定め」として受け入れられた。
けれど、今の桔梗にとってそれは祝福の証ではなく、彼のそばから逃げられない鎖のように思えてならない。
松久の整った顔には笑みらしきものが浮かんでいたが、その目は冷たい。
桔梗の喉がきゅっと縮む。
「そ、そんな……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
御札を胸に抱きしめるようにして、桔梗は小さな声で謝った。
「謝るのは簡単だよ。でもね、桔梗。君は僕の婚約者なんだ。僕の隣に立つ人間が、非才だと周りに思われるのは許されない」
松久は歩み寄り、桔梗の顎に指をかけて顔を上げさせる。
優しい仕草に見えるが、逃げ場を与えない力がそこにあった。
「でも安心してほしい。僕は君を見捨てない。誰よりも君のことを思っているし、君のことを信じているからね」
「……はい」
「君に他の選択肢なんてないんだよ。この婚姻紋が示す通り、僕と君は結ばれる定めなのだから。君はただ僕を信じていればいい」
うっとりとした表情で左手の甲を見つめる松久から、桔梗は思わず視線を逸らした。
胸の奥に、熱い痛みが広がる。
その痛みを隠すように、もう一度小さく頭を下げた。
「……はい。松久様」
「そう。いい子だ」
彼は桔梗の頭をふわりと撫で、満足げに微笑む。
けれど桔梗にとっては、褒められるよりも鎖を重ねられたように感じられた。
◇
修行を終え、自室に戻ると桔梗は畳に腰を下ろす。
障子を閉め切り、ようやく吐き出した息は重かった。
手の甲を見下ろすと淡い光を帯びた紋がそこにある。
「……こんなものさえ、なければ」
ぽつり、と思わず声に出してしまった。
誰もいない部屋だからこそ許された呟き。
その響きは、桔梗自身の心を切り裂いた。
――婚姻紋。
魔祓いと巫女の間に現れる紋様のことを人々はそのように呼ぶ。
左手の甲に浮かぶそれは、まるで小さな花弁のように繊細で、光を受けるたび淡く輝く。
だが、その美しさの裏には、決して軽くない意味が宿っていた。
本来これは、“婚姻”を示すものではない。
魔祓いの力と巫女の祈りが完全に共鳴したとき、自然に刻まれる“契約の証”だ。
古来より魔祓いと巫女は、命の危険を分かち合う運命にある。
互いの魔力を循環させるため、共に暮らし、心を通わせねばならない。
その結果、いつしか「婚姻紋」という名が定着したのだ。
桔梗は布団に身をぼふんと投げ出した。
「……私がもっと優秀で魔力供給をうまくできれば、松久様に迷惑をかけずに済むのに」
口にしながらも、その言葉に自分でも空しさを覚える。
努力しても、彼の目に映る自分は「無能」なまま。
それでも松久は「誰よりも君を思っている」と繰り返す。
その優しさの形をした鎖が、桔梗を締めつけていた。
桔梗は目を閉じ、心の奥底にだけ小さな願いを忍ばせる。
――もしも、この婚姻紋がなかったなら。
私は自由に生きることができただろうか。
その答えは出ない。
夕日が差し込む中、か細い吐息が溶けていった。
0
あなたにおすすめの小説
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
真面目な王子様と私の話
谷絵 ちぐり
恋愛
婚約者として王子と顔合わせをした時に自分が小説の世界に転生したと気づいたエレーナ。
小説の中での自分の役どころは、婚約解消されてしまう台詞がたった一言の令嬢だった。
真面目で堅物と評される王子に小説通り婚約解消されることを信じて可もなく不可もなくな関係をエレーナは築こうとするが…。
※Rシーンはあっさりです。
※別サイトにも掲載しています。
魚人族のバーに行ってワンナイトラブしたら番いにされて種付けされました
ノルジャン
恋愛
人族のスーシャは人魚のルシュールカを助けたことで仲良くなり、魚人の集うバーへ連れて行ってもらう。そこでルシュールカの幼馴染で鮫魚人のアグーラと出会い、一夜を共にすることになって…。ちょっとオラついたサメ魚人に激しく求められちゃうお話。ムーンライトノベルズにも投稿中。
肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです
沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!
田舎の幼馴染に囲い込まれた
兎角
恋愛
25.10/21 殴り書きの続き更新
都会に飛び出した田舎娘が渋々帰郷した田舎のムチムチ幼馴染に囲い込まれてズブズブになる予定 ※殴り書きなので改行などない状態です…そのうち直します。
日常的に罠にかかるうさぎが、とうとう逃げられない罠に絡め取られるお話
下菊みこと
恋愛
ヤンデレっていうほど病んでないけど、機を見て主人公を捕獲する彼。
そんな彼に見事に捕まる主人公。
そんなお話です。
ムーンライトノベルズ様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる