偽りの婚姻に縛られていた私の本当の伴侶は猫でした

蜜井蜂

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本編

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夜の静けさが境内を包み、鈴虫の声がかすかに響く。
桔梗は部屋の灯を落とし、畳に横座りしたまま顔を覆っていた。

白い指先の隙間から、じわりと熱い雫が滲み落ちる。
今もまだ、松久の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。

「困るなあ、桔梗。どうして君は言われた通りにできないんだい?」

「僕が何度も教えてあげてるのに、まだ覚えられないのか。これじゃあ、君の家にも泥を塗ることになる」

「これはすべて君のために言っているんだよ」

耳にこびりつくような声音が、どうしても離れない。
胸の奥に刺さった棘を探るように、桔梗はきゅっと目を閉じた。

十五歳のときに現れたあの印さえなければ、松久と縛られることはなかったのに。
そう思ってしまう自分が、また情けない。



――そのときだった。
障子の向こうで、するりと小さな影が動いた。

「……ふじ?」
桔梗が顔を上げると、真っ白な毛並みの猫が音もなく部屋へ入り込んできた。
片青眼の瞳が光り、まっすぐに桔梗を見つめている。

「……ふふ、今日も来てくれたの?」
「みゃぁ」
桔梗が手を伸ばすと、籐は尻尾をゆるやかに振りながら近づいてきた。
そして桔梗の膝に軽やかに飛び乗ると、喉を鳴らしながらすり寄ってくる。

「――今日ね、また松久様に叱られちゃったの」
桔梗は涙で濡れた頬を拭いながら、猫に語りかけた。

「努力してるつもりなんだけど、全然足りないんだって。『僕が選んだんだから、君は誇りを持ちなさい』なんて言われたけど……私、うまく笑えなくて」

籐は「にゃあ」と短く鳴いた。
まるで「君は悪くない」と返すかのように。

「……ありがと。慰めてくれるの?」
桔梗は籐を持ち上げその身体に顔を埋めた。
柔らかい毛並みの感触が、張り詰めた心を少しずつ解きほぐしていく。

「ほんとに……籐だけだよ。私の話を聞いてくれるのは」


思い返せば数年前のこと。
境内の隅で、怪我を負って蹲っていた籐を見つけたのが始まりだった。
片足を引きずり、声も出せないほど弱っていた。
それを見て放っておけず、桔梗は必死に手当てした。
それからずっと、籐は桔梗の傍にいる。

「ねえ、籐。私……間違ってるのかな。松久様を嫌だなんて思っちゃいけないのに」
桔梗は小声で問いかけた。
「私さえ我慢してれば、きっと角は立たない。……でも、苦しいの。息が詰まるの」

籐は答える代わりに、桔梗の胸元に鼻先を押し付ける。
ごろごろと響く音が、心臓の鼓動と重なるように広がった。

「ふふ……まるで私の言葉がわかってるみたい」

桔梗は思わず笑ってしまう。
泣きはらした瞳の端に、小さな光が戻った。

「……籐が人間だったらよかったのにな」
そう呟くと、籐は瞳を細めて再び喉を鳴らした。
夜の静寂の中、桔梗は籐の体温に包まれながら、ようやく深い呼吸を取り戻していった。

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