偽りの婚姻に縛られていた私の本当の伴侶は猫でした

蜜井蜂

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本編

婚姻の儀

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翌日の午後、桔梗は修治院家の屋敷に呼び出された。
松久の使いの者がわざわざ「至急」と言い置いていったから何事かと思って足を運んだが、襖を開けた途端彼の朗らかな笑顔に迎えられるとは予想していなかった。

「桔梗!」
立ち上がった松久は、まるで子どものように目を輝かせていた。

「やっと決まったんだ。僕たちの婚姻の儀の日取りが!」
その声は屋敷の高い天井に響き、壁に掛けられた御簾まで震わせるかのようだった。

桔梗は思わず足を止める。
胸の奥に冷たいものが走った。
「……婚姻、の儀……」
小さく繰り返すのが精一杯だった。

「そうだよ。君の家とも話を進めて正式に日が決まったんだ。秋の収穫祭の後、ちょうど吉日が重なってね。めでたいこと尽くしだ」

松久は桔梗の返答を待つこともなく、嬉々として畳の上を行き来した。
「衣装も考えなくちゃな。白無垢にするか、それとも色打掛にするか。君には淡い桃色が似合いそうだ。髪にはかんざしを飾って……うん、きっと誰よりも美しい花嫁になる」

その声音は、疑いようもなく心からのものだった。
ただ純粋に、二人の未来を思い描いている。

それなのに。
桔梗の胸は、重苦しい石で押しつぶされたように痛んでいた。

「……松久様」
恐る恐る声をかける。
だが彼は気づかない。

「披露の宴も盛大にしよう。僕たちを祝いたい人は大勢いるはずだ。食事は……そうだ、川魚と山菜を中心にして、旬の果物も並べよう。君が好きだと言っていた梨も必ず用意させる」

にこにこと語る横顔を見つめながら、桔梗は心の奥で小さく震えた。
――どうして、こんなに幸せそうにしている人の隣で、私は笑えないのだろう。
唇を噛む。
喉がからからに乾き、言葉が出てこない。
松久はふと立ち止まり、桔梗を見やった。

「どうした? そんなに驚かなくてもいいじゃないか。ようやく僕たちの縁が形になるんだ。嬉しくないのか?」

「……嬉しい、はずです」
それでも声は震えた。
「はず?」

松久は眉を上げ、すぐに笑みを戻した。
「緊張しているんだな。大丈夫、君は僕が守る。ずっとそばにいる。だから安心していいんだよ」

優しい響き。
それが余計に胸を締めつける。
桔梗は俯き、手を握りしめた。指先に爪が食い込む。

「……私は」
かすれた声が漏れる。

「私は……松久様の妻にふさわしくありません」
その一言に、場の空気が凍りついた。
松久は目を瞬かせ、笑顔を失った。

「……何を言っている?」
「私は……至らないことばかりで、松久様に恥をかかせてばかりです。修行も覚束なくて、立ち居振る舞いも未熟で……。本当に、あなたの隣に立つ資格なんてない」
「やめろ」

低い声が遮る。
松久は一歩、桔梗に近づいた。
瞳には怒りではなく、必死さが宿っている。

「そんなこと、もう言うな。僕が欲しいのは君なんだ。立ち振る舞いだって魔力供給の修行だって、これから一緒に頑張ればいい」

桔梗は首を振った。
「でも……私は、駄目なんです」
松久の手が、桔梗の肩に伸びる。
強くはないが、逃がすまいとするように。

「どうしてそんなことを言う?僕は……僕はずっと君を想ってきた。幼い頃から、君だけを見てきた。十五で婚姻紋が現れたとき、運命だと思った。なのに、君は……」

言葉が詰まり、松久の瞳が揺れた。
桔梗は耐えきれず、視線を逸らす。

「……ごめんなさい」
それ以上は言えなかった。

松久の「純粋さ」が、彼の「真っ直ぐな愛情」が、刃のように心を突き刺してくる。

――けれど、それでも。
胸の奥に芽生えた違和感は、もはや隠し通せなかった。

「ごめんなさい、松久様。私は――」
桔梗の震える声が室内に響いた瞬間、松久の表情は鋭く変わった。

「謝るな。そんな言葉はいらない」
低く押し殺した声。
その手は桔梗の肩を強くつかみ、まるで縋りつくようだった。

「僕は君を手放さない。絶対にだ。君には僕しかいないし、僕にも君しかいない。……婚姻紋がその証じゃないか!」
「けど……」
桔梗は必死に抗うように身をよじる。
その瞳には涙がなみなみと溜まっていたが、それは松久の目には映っていなかった。



そのとき――。

屋敷の空気が変わった。
風もないのに障子が揺れ、蝋燭の炎が一斉に震える。
松久がはっと振り向いた瞬間、襖が勢いよく開かれた。

そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
漆黒の羽織をまとい、長い髪を後ろで束ね、顔には猫面をつけている。
その面の奥には夜の闇のように冷たい眼差しが怪しく光っていた。

その存在だけで空気が張り詰め、場が支配される。
「……誰だ?」
松久が低く問う。
男は答えなかった。
ゆっくりと畳を踏みしめ、桔梗に向かって歩みを進める。
その動きは静謐だが、どこか圧倒的で、見ているだけで呼吸が詰まりそうになる。

「桔梗に触れるな」
松久の目が怒りに燃える。

男は冷ややかに告げた。
「お前は桔梗の本当のパートナーではない」
「なんだと……?」

松久の顔が引きつる。
「馬鹿なことを言うな!十五で婚姻紋が現れた、それが証拠だ!桔梗と僕は結ばれるべき運命なんだ!」
「偽りだ」

短く切り捨てられたその言葉は、雷のように場を打った。
「っ……!」


松久は反射的に男へ殴りかかった。
だがその拳は軽々と掴まれ、ねじ伏せられる。
まるで子どもの喧嘩をあしらうかのように、簡単に。
「ぐっ……」
「松久様!」

松久は歯を食いしばり、肩を押さえ込まれたまま呻く。
男は冷然と見下ろし、吐き捨てた。
「力で縛っても、心は得られない」

松久の顔が赤くなり、悔しさと屈辱で震える。
「僕は桔梗を……愛している……!」
「ならば、なぜ彼女は泣いている?」

男の視線が横に動く。
桔梗は、俯いたまま震えていた。
堪えようとしても、頬を伝う涙が畳を濡らす。

「桔梗……?」
松久の声が揺れる。
だが、その瞬間に気づいてしまった。
桔梗が、自分から一歩、後ずさったことを。

「やめて……」
震える声で、桔梗は呟いた。
「もう……やめてください……」

その言葉は松久に向けられたのか、男に向けられたのか、自分でもわからなかった。
けれど確かなのは――逃げたかったということだけ。
次の瞬間、男の腕が伸びた。
桔梗の手を取り、軽々と抱き上げる。

「なっ……!」
松久が声を張り上げたが、その声は虚しく響くだけだった。
男の纏う力に圧され、一歩も踏み出せない。
「桔梗を預かる」
男は淡々と宣言した。
「返せ! 僕の婚約者だ!」
「違う」
男の声は静かで、それゆえに絶対的だった。

「桔梗はお前のものではない」
松久の顔から血の気が引く。
握りしめた拳は震え、言葉は出てこなかった。
男は踵を返し、桔梗を抱いたまま襖を越えていく。
その背を追おうと松久は身を乗り出す。
だが、不思議な圧が空間を遮り、足が動かなかった。

「ま、待て……桔梗!」
呼ぶ声が背後から追いすがる。
けれど桔梗は、振り返ることができなかった。

胸に広がるのは恐怖と混乱、そして――ほんの少しの安堵。
夜の帳が落ちる中、彼女を抱いた謎の男は音もなく姿を消した。

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