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桔梗が目を覚ましたとき、そこは見慣れぬ屋敷の広間だった。
格子窓から月明かりが射し込み、障子には牡丹や藤の意匠が織り込まれている。
調度品の一つ一つが格調高く、漂う空気からして只者ではないとすぐにわかった。
「ここは……」
桔梗は身を起こし、戸惑いがちに視線を巡らせる。
「みゃあ」
すると、聞き覚えのある鳴き声が返ってきた。
「籐……?どうしてここに?」
桔梗の目が見開かれる。
馴染み深い猫が駆け寄り、彼女の膝に身を寄せる。
――次の瞬間、光が溢れた。
籐の身体が淡く揺らぎ、毛並みが溶けるように消えていく。
代わりに現れたのは――先ほど桔梗を攫った男。
凛とした白銀の髪を肩に流し、桔梗が知る誰よりも鮮烈な存在感を放っていた。
「え……」
桔梗は言葉を失った。
男は桔梗の前でゆっくりと膝を折った。
その双眸は驚くほど真摯で、奥に温かさを宿している。
「遅くなってすまない」
青年は深々と頭を下げ、静かに名乗った。
「籐堂 紫裕――それが本当の名だ。……長らく猫の姿で傍にいたこと、許してほしい」
「……うそ……籐、が……」
桔梗は膝の上に残る温もりを確かめるように手を置き、ただ震える声を漏らす。
籐堂と言えば魔祓いの名家中の名家。
王宮勤めの者でさえ一目置く存在だ。
「どうして籐堂家のあなたが……」
「ずっと見守っていたんだ。幼い頃、君に助けられたあの日から」
紫裕は柔らかく微笑んだ。
「あの日……?」
「10年ほど前、この近くの池のほとりで片青眼の子どもを助けたの、覚えていないかい?」
「片青眼の……男の子?」
◇
紫裕は、物心ついた頃から「片青眼」として人々に避けられていた。
右目は母親譲りの琥珀色、左目は父方の血を強く受け継いだ青。
けれどその色は「魔に魅入られた証」として村の大人たちから囁かれ、同年代の子どもたちからは疎ましがられる理由になった。
友と呼べる存在はひとりもいない。
彼が慰めを求めたのは、いつも本の中だった。
その日も、村外れの池のほとりに腰を下ろし、借りてきた物語を膝の上に広げていた。
淡い風が水面を渡り、頁が小さく震える。
世界は静かで、紫裕だけが取り残されているようだった。
「おい、また本なんて読んでんのか」
不意に背後から響いた声に、紫裕はびくりと肩を震わせた。
振り向けば、村のガキ大将と呼ばれる少年が、数人の取り巻きを従えて立っていた。
彼らの目は好奇と嘲りでぎらついている。
「そんなもん読んでたって、魔の子は魔の子だろ?」
「気味悪ぃんだよ、その目!」
取り巻きのひとりが、石をつかんで投げ捨てる仕草をしてみせる。
紫裕は唇をかみしめ言い返す言葉を探したが、声は出なかった。
本だけは守りたいと、膝にしっかりと抱え込む。
だが、ガキ大将の手が容赦なく伸び、彼の胸元から本をもぎ取った。
「やめろ!」
珍しく紫裕が声を荒げた。
「おー怖い怖い」
けれど嘲笑と共に、その大切な本は池へと投げ込まれた。
ぼちゃん、と重たい音を立てて水面に沈む。
紫裕は必死に駆け寄り、池の縁に膝をついて手を伸ばした。
その時、背後から強い衝撃が走った。
「落ちちまえ!」
取り巻きの一人が彼の背を蹴り飛ばしたのだ。
紫裕の体はあっけなく前へ傾き、冷たい水が全身を飲み込んだ。
「ははっ、はやく拾わねぇと本が駄目になるぞ!」
耳に届いたのは、ガキ大将の愉快そうな声。
紫裕は必死に本へと手を伸ばす。
もう少し――そう思って一歩踏み出したそのとき、不意に足が空を切った。
水が口に入り、咳き込む暇すらなく肺へと流れ込む。
「っ……!」
もがき、必死に水面を掻く。
だが足元は一気に深みに落ち、踏ん張る土はどこにもなかった。
水面に浮かぶ本が、滲む視界に揺れて見える。
あと少しで……。
あと少しで手が届くのに。
だが肺は焼けるように苦しく、視界は暗く狭まっていった。
その場にいた子どもたちは慌てて叫び声を上げ、蜘蛛の子を散らすように走り去っていく。
助けを呼ぶこともなく。
――誰も、僕を助けてはくれない。
諦めかけたその瞬間だった。
「掴まって!」
甲高い少女の声が響いた。
次の瞬間、水面に縄が投げ込まれる。
紫裕は必死にその縄を掴んだ。
か細い腕が懸命に縄を岸へと手繰り寄せ、やがて彼の体は浅瀬へと戻された。
咳き込みながら泥の上に倒れ込む紫裕。
全身が重く、力が抜けていく。
――助かった。
そう思った途端、意識が闇に沈んだ。
……どれほど時間が経ったのか。
暗闇の中で紫裕は不思議な温かさを感じていた。
身体の内側に柔らかい光が流れ込み、冷え切った胸を溶かしていく。
「……大丈夫?」
か細く消え入りそうな声に、紫裕は重い瞼をゆっくり開ける。
そこにいたのは、心配そうにこちらを覗き込んでいる一人の少女だった。
目が合った瞬間、彼女は安心したように微笑んだ。
紫裕は言葉を返せなかった。
ただ、こくりと小さく頷くだけで精一杯だった。
手を伸ばしたい。
礼を言いたい。
必死に手を動かそうとした、その時――。
「紫裕様!」
遠くから駆け寄る足音。
家の使用人の声だった。
少女は立ち上がり、駆け寄った使用人に事の次第を説明する。
その口ぶりは落ち着いていて、大人びてすら見えた。
「津久見家のお嬢様ではありませんか……!」
使用人の言葉が、紫裕の耳に届いた。
津久見。
村でも名高い神社の家系。
その少女が自分を助けてくれたのだ。
少女は最後に小さく頭を下げ、静かに去っていった。
紫裕は泥にまみれたまま、その小さな背中を目で追い続けた。
――彼女こそ、僕の伴侶となる人だ。
暗闇の中身体に流れた温かいもの。
その感覚を思い出しながら、紫裕はそう確信したのだった。
格子窓から月明かりが射し込み、障子には牡丹や藤の意匠が織り込まれている。
調度品の一つ一つが格調高く、漂う空気からして只者ではないとすぐにわかった。
「ここは……」
桔梗は身を起こし、戸惑いがちに視線を巡らせる。
「みゃあ」
すると、聞き覚えのある鳴き声が返ってきた。
「籐……?どうしてここに?」
桔梗の目が見開かれる。
馴染み深い猫が駆け寄り、彼女の膝に身を寄せる。
――次の瞬間、光が溢れた。
籐の身体が淡く揺らぎ、毛並みが溶けるように消えていく。
代わりに現れたのは――先ほど桔梗を攫った男。
凛とした白銀の髪を肩に流し、桔梗が知る誰よりも鮮烈な存在感を放っていた。
「え……」
桔梗は言葉を失った。
男は桔梗の前でゆっくりと膝を折った。
その双眸は驚くほど真摯で、奥に温かさを宿している。
「遅くなってすまない」
青年は深々と頭を下げ、静かに名乗った。
「籐堂 紫裕――それが本当の名だ。……長らく猫の姿で傍にいたこと、許してほしい」
「……うそ……籐、が……」
桔梗は膝の上に残る温もりを確かめるように手を置き、ただ震える声を漏らす。
籐堂と言えば魔祓いの名家中の名家。
王宮勤めの者でさえ一目置く存在だ。
「どうして籐堂家のあなたが……」
「ずっと見守っていたんだ。幼い頃、君に助けられたあの日から」
紫裕は柔らかく微笑んだ。
「あの日……?」
「10年ほど前、この近くの池のほとりで片青眼の子どもを助けたの、覚えていないかい?」
「片青眼の……男の子?」
◇
紫裕は、物心ついた頃から「片青眼」として人々に避けられていた。
右目は母親譲りの琥珀色、左目は父方の血を強く受け継いだ青。
けれどその色は「魔に魅入られた証」として村の大人たちから囁かれ、同年代の子どもたちからは疎ましがられる理由になった。
友と呼べる存在はひとりもいない。
彼が慰めを求めたのは、いつも本の中だった。
その日も、村外れの池のほとりに腰を下ろし、借りてきた物語を膝の上に広げていた。
淡い風が水面を渡り、頁が小さく震える。
世界は静かで、紫裕だけが取り残されているようだった。
「おい、また本なんて読んでんのか」
不意に背後から響いた声に、紫裕はびくりと肩を震わせた。
振り向けば、村のガキ大将と呼ばれる少年が、数人の取り巻きを従えて立っていた。
彼らの目は好奇と嘲りでぎらついている。
「そんなもん読んでたって、魔の子は魔の子だろ?」
「気味悪ぃんだよ、その目!」
取り巻きのひとりが、石をつかんで投げ捨てる仕草をしてみせる。
紫裕は唇をかみしめ言い返す言葉を探したが、声は出なかった。
本だけは守りたいと、膝にしっかりと抱え込む。
だが、ガキ大将の手が容赦なく伸び、彼の胸元から本をもぎ取った。
「やめろ!」
珍しく紫裕が声を荒げた。
「おー怖い怖い」
けれど嘲笑と共に、その大切な本は池へと投げ込まれた。
ぼちゃん、と重たい音を立てて水面に沈む。
紫裕は必死に駆け寄り、池の縁に膝をついて手を伸ばした。
その時、背後から強い衝撃が走った。
「落ちちまえ!」
取り巻きの一人が彼の背を蹴り飛ばしたのだ。
紫裕の体はあっけなく前へ傾き、冷たい水が全身を飲み込んだ。
「ははっ、はやく拾わねぇと本が駄目になるぞ!」
耳に届いたのは、ガキ大将の愉快そうな声。
紫裕は必死に本へと手を伸ばす。
もう少し――そう思って一歩踏み出したそのとき、不意に足が空を切った。
水が口に入り、咳き込む暇すらなく肺へと流れ込む。
「っ……!」
もがき、必死に水面を掻く。
だが足元は一気に深みに落ち、踏ん張る土はどこにもなかった。
水面に浮かぶ本が、滲む視界に揺れて見える。
あと少しで……。
あと少しで手が届くのに。
だが肺は焼けるように苦しく、視界は暗く狭まっていった。
その場にいた子どもたちは慌てて叫び声を上げ、蜘蛛の子を散らすように走り去っていく。
助けを呼ぶこともなく。
――誰も、僕を助けてはくれない。
諦めかけたその瞬間だった。
「掴まって!」
甲高い少女の声が響いた。
次の瞬間、水面に縄が投げ込まれる。
紫裕は必死にその縄を掴んだ。
か細い腕が懸命に縄を岸へと手繰り寄せ、やがて彼の体は浅瀬へと戻された。
咳き込みながら泥の上に倒れ込む紫裕。
全身が重く、力が抜けていく。
――助かった。
そう思った途端、意識が闇に沈んだ。
……どれほど時間が経ったのか。
暗闇の中で紫裕は不思議な温かさを感じていた。
身体の内側に柔らかい光が流れ込み、冷え切った胸を溶かしていく。
「……大丈夫?」
か細く消え入りそうな声に、紫裕は重い瞼をゆっくり開ける。
そこにいたのは、心配そうにこちらを覗き込んでいる一人の少女だった。
目が合った瞬間、彼女は安心したように微笑んだ。
紫裕は言葉を返せなかった。
ただ、こくりと小さく頷くだけで精一杯だった。
手を伸ばしたい。
礼を言いたい。
必死に手を動かそうとした、その時――。
「紫裕様!」
遠くから駆け寄る足音。
家の使用人の声だった。
少女は立ち上がり、駆け寄った使用人に事の次第を説明する。
その口ぶりは落ち着いていて、大人びてすら見えた。
「津久見家のお嬢様ではありませんか……!」
使用人の言葉が、紫裕の耳に届いた。
津久見。
村でも名高い神社の家系。
その少女が自分を助けてくれたのだ。
少女は最後に小さく頭を下げ、静かに去っていった。
紫裕は泥にまみれたまま、その小さな背中を目で追い続けた。
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