偽りの婚姻に縛られていた私の本当の伴侶は猫でした

蜜井蜂

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本編

偽物と本物

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「……あの時の」

桔梗の瞳が揺れる。

「助けられた時、君から魔力が流れ込んでくるのを感じたんだ。だから、君が僕の相手だって確信した」

「……でも、私には松久様と……婚姻紋が……」
桔梗は自分に刻まれた紋を見下ろす。
運命の証。
それがすべての束縛だった。
 
紫裕の眼差しが鋭さを帯びる。
「それは偽装だ。松久が君を縛るため、禁じられた術で作った偽物。真実の絆ではない」
「偽装……?」

声が震え、体が強張る。
「本物の婚姻紋は、まだ眠っている。君の心が解放されれば必ず現れる」



――そのとき、庭先で騒ぎが起きた。

障子が乱暴に開かれ、松久が飛び込んでくる。
髪は乱れ、顔には焦りと憤怒が混じっていた。
「桔梗!」
叫びながら駆け寄るが、紫裕がすぐに立ちはだかる。

「そこを退け!」
松久の掌に魔力が集う。
烈しい風が渦巻き、広間の花瓶が次々に倒れていく。
紫裕は微動だにせず、桔梗を庇いながら手を掲げた。

「……偽りの鎖はここで断ち切る」
次の瞬間、紫と紅の光が正面から衝突した。
轟音とともに空気が震え、畳はえぐれ、柱が軋む。
桔梗は思わず目を覆ったが、隙間から見えたのは、互いの魔力を押し返そうと必死に睨み合う二人の姿だった。

「なぜだ……!」
松久の叫びが周囲の空気を震わせる。

「俺は誰よりも桔梗を愛してきた!幼いころからずっと、彼女の隣に立つのは俺だと信じてきた!そのために力を磨き、家の期待に応え、何もかも投げ打ってきたんだ!」

さらに魔力の奔流が強まり、壁に掛けられた掛け軸が破り飛ばされる。
紫裕も眉をひそめながら力を押し返した。

「桔梗を守れるのは、この俺だけだ!俺は彼女の笑顔を守りたかった!俺の隣にいるのがふさわしいのは桔梗しかいない!」
松久は咆哮し、烈風を伴った刃のような魔力を紫裕に叩きつける。
畳が裂け、木片が宙を舞った。

だが紫裕も退かない。
低く鋭い声で応じる。
「それは守ることではない。縛りつけることだ」

彼の手から解き放たれた淡い紫の光が、松久の紅を押し返す。
二つの奔流が火花を散らし、爆ぜるたびに閃光が庭を照らした。

桔梗はその様子を胸が締め付けられる思いで見守っていた。
松久の叫びに嘘偽りがないことはわかっていた。
彼がどれほど必死に彼女を想っていたか、痛いほど再確認させられる。
けれど、その熱は桔梗を包む光ではなく、焼き尽くそうとする業火に思えた。


「俺と桔梗には、すでに婚姻紋があるんだ!」
松久が吠えるように叫ぶ。
荒々しい手で自らの手の甲を叩き、紫裕をにらみつける。
「十五のとき確かに現れた!それが俺たちの証だ!いまさら他の誰かが割り込めるものか!」

紫裕は冷ややかに視線を返した。

「……証、か。ならば今ここで示そう」

桔梗に向けて表情を和らげると、彼は低く続けた。
「強固な偽装術式だった。解除法を探し出すのにずいぶん時間がかかってしまった……桔梗、君を長く苦しませてしまって、本当にすまない」
その声音には痛切な後悔と、揺るぎない覚悟があった。
「ふざけるな!」

松久が掴みかかろうと踏み込む。
烈風を纏ったその腕が振り下ろされる寸前――紫裕は片手をかざし、透明な障壁で松久の体を弾き飛ばした。
畳が軋み、松久の身体が柱に叩きつけられる。
紫裕は振り返り、桔梗の手をしっかりと取った。

「……桔梗、僕を信じて」
呟きと同時に、彼は呪文を紡ぎ始める。
柔らかな光が二人を包み、桔梗の胸の奥で何かが震えた。
次の瞬間――。
ピシリ、と薄い氷がひび割れるような音が広間に響いた。
桔梗の手の甲に刻まれていた婚姻紋が、淡い光に侵され、黒い墨を流すように崩れ落ちていく。
冷たく絡みついていた鎖が、一本ずつ解けるように消えていった。

「なっ……」
松久が絶句する。
蒼白な顔に、信じられないという色が浮かんだ。
「そ、そんな……ありえない……俺と桔梗の絆が……」

桔梗は震える指先で、自らの手の甲に触れた。
そこにあったはずの印は、もうどこにもない。
代わりに感じるのは、紫裕の温もりと、ふわりと広がる安堵だけだった。


「――修治院松久。君は魔物に魂を売って桔梗との婚姻紋を偽装した。その行為がどのような意味を持つのか君はわかっているのか」

松久の目が泳ぐ。
「……っ!うるさい!」

「――桔梗、僕に君の力を送り込んでくれ」
「送り込むってどうやって……」
「大丈夫、念じるだけでいい」
「紫裕様……」

桔梗は言われた通り紫裕に向けて魔力を送り込む様に強く念じる。
「……!」
意識せずとも、魔力が流れ出すのがわかった。
今まで何度練習してもできなかった魔力供給。
紫裕の身体を淡く輝く紋様が走り、桔梗の鼓動に呼応するように脈打つ。


そして――新たな婚姻紋が、桔梗の肌に浮かび上がった。
桔梗は思わず息を呑む。
熱い。
でもそこに痛みはなく、むしろ胸の奥が震えるほどの安堵に満たされていく。


「な、に……?」
松久が目を見開き、後ずさる。

紫裕の声が轟いた。
「これが真実だ。桔梗の本当の伴侶は、僕だ」

光が収まると同時に、力を使い果たした松久はその場に崩れ落ちた。
悔しさと喪失を滲ませた目で、桔梗を見上げる。

「そんな……どうして……俺じゃ……」
答える言葉を桔梗は持たなかった。
ただ、その視線から逃げるように紫裕の手を握り返す。

「桔梗……」
紫裕が名を呼ぶ。
その響きが胸を満たす。
桔梗は震えながらも、確かに感じていた。
籐として寄り添ってくれた優しさも、今こうして守ってくれる力強さも――すべて紫裕だったのだと。

「ふざけるな!この俺を差し置いて……そんなことが許されてたまるか!」
悔しげな叫び。

だが、周囲にいた人々――松久の従者でさえ、誰もが言葉を失っていた。
本物の婚姻紋が現れた以上、言い逃れはできない。
魔に抗う血筋を持つ家々にとって、魔物と契約を結ぶことは最大の汚点であり、大罪だ。

「……もう、やめてください」
桔梗はか細い声で告げた。

「松久様。私は……あなたの理想に応えることができませんでした。けれど、あの婚姻紋がある以上、従わなければならないと思って……」
震える声が、しかしはっきりと結論へと向かっていく。

「でも……今ここに、本物が現れたのです。私の心も、ようやく答えを見つけました。……だから、もう」
彼が心から桔梗を愛していたことは、彼女にもわかっていた。
だがその愛は、桔梗にとっては支配と独占を孕んだものでしかなかった。

「私は……あなたのそばにはいられません」
松久は唇を噛みしめ俯いた。

「……俺は……俺は……」
掠れた呟きが、夜の空気に散って消える。

彼の従者たちが、やっとの思いで主を支え、連れ帰ろうとする。
振り返った松久の瞳には、悔恨と混乱が入り混じっていた。
けれどそれが桔梗に届くことはなかった。

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