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最悪
しおりを挟む30歳独身OLの里子はまじめで控えめ。
いわゆる清楚な女。潔癖に近いくらい、身の回りを清潔にするのは当たり前のこと。
だからもちろん、部屋もきれいで掃除も行き届いている。
内装は白をベースに揃えられた家具が整然と並んでいて、とても美しい。
仕事で疲れた体をお風呂で癒し、完璧に整理された部屋のソファーで、お気に入りのパジャマを着て、静かな音楽とアロマの香りに包まれながらリラックスして読書。
これが彼女の至福のひと時。
何もかも完璧な時間だった。
ついさっきまでは。
それは彼女には世界でいちばん嫌いなもの。
それはまるで世界が自分中心に回っているかのごとく傍若無人に振る舞い、気づいたら日常生活を侵食している。
うねうねと気味悪く動く触覚、カサカサと至る所を高速で移動する何本もの足。
テカテカと光る茶色い体。
不潔の象徴。
絶望的嫌悪感。
無理無理無理無理絶対無理。
真っ白で染み1つない壁を、ごきぶりが這いずり回る。
「イヤアアアアアアア!!」
彼女は悲鳴を上げた。
わけが分からない。
ごきぶり対策は入念に行って来た。
このマンションに入居してから、一度たりとも見たことはない。
それが今になってなぜ?
少し動いてはピタッと止まり、微動だにしないごきぶり。
何故こんなにも人間に対する警戒心がないのだろう。
地球上でもっとも長く生き永らえた種族の、いわば3億年の自信なのだろうか。
彼にとっては人間はまだまだひよっこなのかも。
里子は読んでいた本の影響で思わずそんなことを考えてしまったが今はそんな場合ではない。
あれをなんとかしなくては。
だが、ごきぶりは里子の心の準備なんてお構いなしだった。
突如壁から飛び跳ね、一直線に里子に向かってくる。
「なんでえええ?!!!」
里子はごきぶりの理解不能の突撃に慄き、かぶりも両手も振りながらソファーを跳ね起きた。
そして、部屋のドアまで走って行き、慌てて鍵を開け部屋の外へ出てからドアを閉めた。
彼女はドアから廊下の手すりまで後ずさりし、その場にへたり込んだ。
マンションの3階。
夜の無人の廊下を蛍光灯が灰色に照らしている。
ここまでこれば、もう安心だ。
そんな彼女の安堵を彼はあざ笑うかのようにそれは現れた。
ここは夜のマンションの廊下。
ごきぶりの主戦場である。逃げたつもりが、彼らの往来に飛び出してしまった。
里子の足元を、一匹のごきぶりが這っていた。
「もうやだあああああ!!!」
彼女は近所迷惑も顧みず叫び、再び走った。とにかくその場から離れたかった。
一目散に階段の方へと走る。
早くマンションの外へ出るんだ。
だが、恐怖と嫌悪感で頭がいっぱいで、それが仇となった。
階段に差し掛かった時、足を踏み外してしまう。
彼女は受け身を取りながら、階段を転げ落ちる。
回転しながら遠くなっていく意識の最中、彼女は一匹のごきぶりが目の前を舞っているのを確かに見た。
里子が目を覚ますと、人だかりができていた。
叫びまくっていたから、聞きつけた住民達がやってきたんだと彼女は思った。
意識が飛んでいたらしく、階段の下に里子はいた。
「す、すみません。お騒がせして…」
朦朧とした意識のまま、何とか喋る里子。しかし、住民たちからは何のリアクションもなかった。
「あ、あの」
彼女は住民たちを見る。
ぎょっとした。
デカい。奈良の大仏かってくらいの人間が2,3人立って誰かをさすったり声をかけたりしている。彼らの視線の先を見るとそこには、女性が1人、倒れていた。
え…
見覚えのあるパジャマだった。
ショートのボブカットは最近美容室でカットした私の髪型。
彼女は、慌てて自分の手を見た。
二つの手は、細長くて茶色く、何本もの棘が生えていた。
テカテカしていて堅そうだ。
さらに、目の前には二本の針金…? 曲線の何かが二つ…
え…うそ…え…
彼女は倒れている大きな自分と、茶色い自分の手足を交互に何度も見た。
何度も何度も、繰り返し。
そのたびに、絶望は色濃くなっていく。
「もしかして、私、ごきぶりと入れ替わってるの?」
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