5 / 43
【粗揉】圧力をかわし野望を濁す
2
しおりを挟む「母親と兄貴が会社を手伝えってうるさくて。しかも俺にお見合いの話付き。さすがにそれは断りたいから梨香にお願いしたんだ」
聡次郎さんに梨香と呼び捨てにされるのはこそばゆい。
「龍峯茶園はそれなりに名前の通った企業になったから、婚約者のふりをしてって頼んだやつがネットとかで変に情報を流されると企業の名前に傷がつくんだよ」
「それで絶対に秘密なんですね」
「そういうこと。こんな変わった提案は面白がってSNSに投稿するやつがいそうだからな」
だから報酬も多すぎるほどの額が書かれている。大企業の関係者ならこれくらいは払えてしまえるのだろう。
「梨香もそういうことはやめてくれ」
「それは大丈夫です。絶対に」
万が一ネットに出してしまったとしたら被害は私だって小さくない。それに、私に頭を下げてくれた2人を、特に月島さんを失望させたくないなと思った。
聡次郎さんはトレーに湯飲みを2つ載せてテーブルに運んできた。
「契約書にサインして」
そう言って私にボールペンを差し出した。
聡次郎さんの正体を知っていれば婚約者のふりなんて引き受けなかった。けれどもう引き返すことは出来ない。私はボールペンを受け取り契約書にサインした。
「明人が今度通帳のコピーをくれってさ。前金振り込むから」
「はい」
きちんと報酬を払ってくれるところは安心できる。契約自体は問題がない。
「月島さんもこの会社の方なんですか?」
「兄貴の秘書」
「へー、イメージ通りですね。月島さんって仕事ができそうだし」
秘書なんて月島さんにぴったりな仕事だと思った。
私の言葉に聡次郎さんは呆れるような怒っているような複雑な表情を見せたから、見た目で判断して失礼だったかなと反省した。
「これうちの会社のメイン商品のお茶」
聡次郎さんは湯飲みをテーブルに置いた。
「自分で急須で淹れたのは久々だからうまいかは分かんないけど」
私も急須で淹れたお茶を飲むのは何年振りだろうか。実家にいた頃に母が淹れてくれたのを飲んだのが最後だ。
「いただきます」
湯飲みに入ったお茶は一目で濃いことがわかるほどに濁った緑色だ。湯気も立っているから熱そうだ。
お茶を口に含んだ。思ったとおりお茶は熱く、渋みが口いっぱいに広がった。渋み以外の味をほとんど感じないまま熱い液体を焦って飲み込んでしまった。火傷した舌が痛む。
「おいしいです……」
会社のお茶を出されて感想を言わなければと無難な言葉を伝えたけれど、聡次郎さんは「そうか?」と嬉しくはなさそうな声を出した。
「俺にはお茶の味なんて全くわかんない」
聡次郎さんはズズズと音を立ててお茶を飲むと、湯飲みを揺すってお茶を見つめた。
「ほんと、俺がお茶屋ねぇ……」
その呟きで聡次郎さんは自分の家族の会社なのにお茶に興味がないのだと察した。
「梨香って年いくつ?」
「24です」
「あのカフェには長く勤めてるの?」
「もう4年になります……なるかな」
質問に一々敬語で返してしまう私に聡次郎さんは呆れた顔をするから慌てて言い直す。
「じゃああのカフェで出会ったことにしよう」
「え?」
「俺と梨香の出会いのきっかけ。きちんと設定を決めないとな。母も兄貴も騙すんだからボロが出ないようにしないと」
「わかりました」
「この契約のことを知っているのは俺と梨香と明人だけだ」
「はい」
「家族に紹介して、結婚の準備をしているように見せかけて時間を稼ぐ。話を先延ばしにし続けて数ヵ月後に別れる」
「別れたことにしていいの?」
「何で? それって俺と別れたくないの?」
「違います!」
バカにしたように笑う聡次郎さんに怒鳴りつけるように大声を出した。まるで私が聡次郎さんと本当に婚約することを望んでいると言われたようだ。
「私と別れたことにしても、その後は本当の婚約者と結婚することになるんじゃ?」
「結婚が破談になったワケありの男なんて向こうも嫌だろ。それに、うちの母親が納得できないような婚約者を紹介した方が、いい具合に機嫌を損ねられて助かるんだよ」
「悪かったですね、納得できないような婚約者で」
私を紹介することがお母様の機嫌を損ねるなんて言われては私の機嫌が悪くなる。
「そういう意味じゃないよ。母さんは昔からこの会社と付き合いのある企業の関係者と結婚させたいんだよ。それに、梨香はカフェ店員だしね」
「関係あるんですか?」
「コーヒーを扱う仕事をしている人が日本茶会社の嫁になるなんて母さんは怒るだろうね」
「なるほど……」
確かに正反対だ。私はコーヒーを飲むけれどお茶に詳しくはない。そんな人を嫁として受け入れるのは嫌かもしれない。
「母さんが呆れて俺に構うのをやめるほど怒らせたい。そのためには梨香の演技も大事だ」
「私もお母様を怒らせるんですか?」
「そうだ。母さんは梨香に色々嫌なことを言ってくるかもしれない。でも梨香にはそれに耐えて、気が強くて感じ悪い恋人でいてくれたら助かる」
「気が強いって……」
聡次郎さんの話を聞く限りお母様は厳しい人のようだ。気を強く持てるかどうかは自信がない。
「そうして永久に俺に愛想尽かしてくれるといいんだけどな」
今度は自虐的に笑う聡次郎さんに首をかしげた。この人は縁談を無視して偽の婚約者を立てようと思うほどお母さんに反抗したいのだろうか。
「めちゃくちゃな人……」
思わず声に出してしまい口を手で押さえた。
「あ、すみません……」
「いいよ本当のことだから」
聡次郎さんは面白そうに微笑むと湯飲みに残ったお茶を飲み干した。
「今日は先に兄貴に会ってもらう」
「え? 今からですか?」
早速家族の前で演技をしなければいけないなんて突然すぎて心の準備が出来ていない。
「大丈夫。兄貴は忙しいからそんなに時間はかからないし、簡単な挨拶でいいから。明人から兄貴に先に婚約者を紹介したいって伝えてもらってるから」
そのとき聡次郎さんのスマートフォンが鳴った。
「明人からだ。兄貴が会社に戻ってきたのかも」
電話に応答すると月島さんと通話する横で私の体は緊張で小刻みに震えた。
「は? まじかよ……母さんにはまだ内緒だって言っただろ……ああ……わかったよ、今から行く」
通話を終えた聡次郎さんは溜め息をついた。
「母さんとも会ってもらうことになった」
「え!?」
お兄さんだけだと思っていたのにいきなりお母様にも会うなんて無謀だと思えた。
「今日母さんは出かけてるはずだったのに、兄貴が母さんに言っちゃったらしいんだ。そうしたら今帰ってきたって」
「そうですか……」
「今から本番だ」
聡次郎さんが立ち上がったから私は湯飲みのお茶を飲み干し、聡次郎さんの分の湯飲みも流しに置いた。
男性の1人暮らしといっていいこの部屋はどこも綺麗に片付いている。キッチンも使われたことがないのではと思うほどに。
聡次郎さんに続いて部屋を出てエレベーターに乗った。
「じゃあよろしくね、俺の婚約者さん」
この状況を楽しんでいるのではとも取れる言い方に、目の前の男が恨めしくもあり、ほんの少し頼もしくもあった。
0
あなたにおすすめの小説
俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。
そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、
理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。
しかも理樹には婚約者がいたのである。
全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。
二人は結婚出来るのであろうか。
夜の帝王の一途な愛
ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。
ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。
翻弄される結城あゆみ。
そんな凌には誰にも言えない秘密があった。
あゆみの運命は……
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜
白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳
yayoi
×
月城尊 29歳
takeru
母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司
彼は、母が持っていた指輪を探しているという。
指輪を巡る秘密を探し、
私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された皇后を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
結婚する事に決めたから
KONAN
恋愛
私は既婚者です。
新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。
まずは、離婚してから行動を起こします。
主な登場人物
東條なお
似ている芸能人
○原隼人さん
32歳既婚。
中学、高校はテニス部
電気工事の資格と実務経験あり。
車、バイク、船の免許を持っている。
現在、新聞販売店所長代理。
趣味はイカ釣り。
竹田みさき
似ている芸能人
○野芽衣さん
32歳未婚、シングルマザー
医療事務
息子1人
親分(大島)
似ている芸能人
○田新太さん
70代
施設の送迎運転手
板金屋(大倉)
似ている芸能人
○藤大樹さん
23歳
介護助手
理学療法士になる為、勉強中
よっしー課長(吉本)
似ている芸能人
○倉涼子さん
施設医療事務課長
登山が趣味
o谷事務長
○重豊さん
施設医療事務事務長
腰痛持ち
池さん
似ている芸能人
○田あき子さん
居宅部門管理者
看護師
下山さん(ともさん)
似ている芸能人
○地真央さん
医療事務
息子と娘はテニス選手
t助
似ている芸能人
○ツオくん(アニメ)
施設医療事務事務長
o谷事務長異動後の事務長
雄一郎 ゆういちろう
似ている芸能人
○鹿央士さん
弟の同級生
中学テニス部
高校陸上部
大学帰宅部
髪の赤い看護師(川木えみ)
似ている芸能人
○田來未さん
准看護師
ヤンキー
怖い
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる