アフタヌーンの秘薬

秋葉なな

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【粗揉】圧力をかわし野望を濁す

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湯飲みを手に持ち一口含んだ。そして感動して目を見開いた。想像していたよりもずっと美味しかったのだ。火傷することのない飲み頃の温度のお茶は香ばしい香りが鼻に抜け、濃い色の割には苦味や渋みは強くなく、むしろ口の中がさっぱりする。意外なことに、ほのかに甘みを感じコクがある。このお茶が先日聡次郎さんに飲ませてもらったお茶と同じものだとはとても思えない。

「おいしい……」

思わず言葉が出た。

「そうでしょ。この龍清軒は味の調節もしやすいし、色んな場面で使える良くできたお茶だと思うわ」

ごくごくと湯飲みのお茶を飲み干した。聡次郎さんのお茶ともペットボトルのお茶とも全然違う。今まで急須で淹れたお茶をこんなに美味しいと感じたことはなかった。

「二煎目も飲んで比べてみようか」

川田さんは今度は釜のお湯を急須に直接入れた。

「二煎目は一煎目よりも温度の高いお湯で、蒸らす時間も短めに。濃く出すぎちゃうから30秒でいいかな」

どうやら最初に淹れることを一煎目、それ以降を二煎目三煎目と言っていくようだ。
実家にいた頃も、母が同じお茶の葉に何度もお湯を注いでは三煎目まで飲んでいたのを思い出す。

「はいどうぞ」

川田さんが注いだ二煎目のお茶を口に含んだ。先ほどよりも少し熱いお茶はほんの少し苦味と渋みが増したけれど、変わらず甘さも感じるさっぱりとした味だ。

「おいしい……こんな美味しいお茶、飲んだことがないです」

「手間をかければこのお茶じゃなくてスーパーで売ってる安いお茶でも、ある程度美味しく飲めるのよ」

これならカフェの仕事の休憩にコーヒーを飲んでばかりだった私でも食後にお茶を飲みたいと思う。急須でお茶を淹れるなんて古臭いイメージだけれど考えが変わった。

「今日はお店のお茶をいろいろと試飲してみましょう。試飲用のお茶が棚に入っているから三宅さんも淹れる練習をしてみてね」

「はい!」

龍峯で取り扱っている緑茶やほうじ茶などを急須で淹れ試飲をし、お茶の入った袋や箱を包装紙で包む練習をした。紙の向きや最後にテープで止める位置まで細かく指定があり、今後はレジの操作や商品、お茶の種類も覚えなくてはいけないことが山ほどあり、その現実を知っただけで相当疲れてしまった。







「来月以降のシフトを作るので希望の時間を記入してください」

「わかりました……」

事務所で花山さんにコピー用紙に曜日と時間を振り分けられたシフト表を渡された。
来月の予定は未定だ。カフェのシフトもまだ出ていないし、来月ここに出勤している自分を想像できない。生活のためとはいえ好きでもないことを覚えるのは億劫だ。

「失礼します」

ノックする音がして廊下に通じるドアから入ってきたのは月島さんだった。

「お疲れ様ですー」

月島さんが入ってきた途端に花山さんは満面の笑みを浮かべ、先ほどとは明らかに違う高い声を出した。

「三宅さん、もう退勤ですよね。このあと少しお時間いいですか?」

「はい……」

花山さんが驚いた顔で私を見ているのを横目で感じた。

「雇用契約書に不備があったので社長がお呼びなんです」

月島さんは花山さんにそう言った。

「そうですかー。ではお疲れ様です」

「お疲れ様です……」

私は気持ち悪いほど態度の違う花山さんを事務所に残し、月島さんの後に続いて事務所を出た。

「本当は雇用契約書の不備ではありません」

エレベーターの中で月島さんはそう言った。

「え、そうなんですか?」

「我々の契約書を更新したので、そっちには目を通していただきたいですが」

「ああ……」

ということは偽装婚約の契約書のことだろう。

月島さんに連れてこられたのは会議室だった。中に入ると中央に置かれた大きなテーブルの端に聡次郎さんが座っていた。

「お疲れ様です……」

「お疲れ」

襟元を緩めた聡次郎さんは疲れた顔をしている。

「初日はどうよ?」

「えっと……自信がないです……」

龍峯茶園で働く自信がない。そういうつもりで言った。

「何それ、どういうこと?」

「お茶のことなんて何もわからないし、包みも難しいし、商品も多すぎです」

お茶の製造工程も少しは学んでほしいと川田さんに言われた。お客様の中には聞いてくる人もいるようだし、新茶の時期といわれる期間は大量の新茶を包むと言われた。緑茶だけでなくほうじ茶や烏龍茶、海苔に茶菓子も取り扱っている。覚えることが多すぎて頭がパンクしそうだ。

「甘くない?」

「え?」

「仕事だぞ? 最初に仕事に自信がないと思うのは仕方ないけど、どの仕事も覚えることが多いのって当たり前じゃね?」

「………」

「聡次郎、三宅さんは僕たちに頼まれて龍峯にいるんだよ?」

月島さんがフォローしてくれたけれど聡次郎さんは私から目を逸らさない。まるで睨みつけているかのようだ。
聡次郎さんの言葉に私は何も言い返せない。その通りなのだ。簡単な仕事なんてない。新しい職場は覚えることがたくさんある。
けれど望んでその仕事に就いたかどうかで考えも大きく違うのだ。私は自分から望んで龍峯に来たわけではない。追加契約は想定外だ。
聡次郎さんは私の気持ちなんて何も汲もうとはしない。この人は自分のために私を巻き込むのだ。

「お茶の淹れ方は聞いた?」

「はい……いくつかのお茶は試飲もしましたけど……」

「じゃあ今淹れてみて」

「え?」

「今ここでお茶を淹れてみて」

そう言われても困ってしまう。ここには急須も茶碗もないのだ。

「そっちに道具は全部あるから」

聡次郎さんが顎でしゃくった先は私の後ろだ。入ってきたドアの横には二畳ほどの給湯スペースがあった。

「ここは会議室だけど社員が食堂としても使えるんだ。だから水道もポットも急須も一通り揃ってる」

覗いた給湯スペースは確かに流しがあり、小さい冷蔵庫とコンロと電子レンジもあった。

「冷蔵庫に従業員用のお茶の葉が入っています」

月島さんまで私にお茶を淹れさせようとしてくる。

「美味しくなくても知りませんよ」

ぶっきらぼうにそう言い返して、渋々電気ポットに水を入れスイッチを入れた。冷蔵庫の引き出しには確かに開封され丸めて輪ゴムで止められたお茶の袋がいくつか入っている。

「どれをお淹れしますか?」

「龍清軒」

聡次郎さんは即答だった。

「素人でも美味しく淹れられるお茶だろ?」

バカにされているように感じたけれど、素人なのだから仕方がない。
食器棚から急須を出し、3人分の茶碗を出した。引き出しを開けるとプラスチックの黒い茶さじが入っていたのでこれを使わせてもらう。

1人2、3グラムだから茶さじ1杯分……。

頭の中で計算しながら急須にお茶の葉を入れる。
ポットでお湯が沸いたカチッという音がしたので茶碗にお湯を注ぐ。これだけではお湯の温度は高すぎる。数十秒待ち、お湯が少し冷めた頃に茶碗のお湯を急須に入れた。ここからお茶が浸出するまでさらに40秒ほど待つ。

「まだ?」

聡次郎さんの急かす声が聞こえるけれど、心の中で40秒数えている私は返事をしない。
40秒たち、茶碗に複数回に分けて少しずつお茶を注いだ。
川田さんに教えられた通りに美味しく淹れたつもりだけれど自信はない。美味しいお茶を淹れるにはお茶の葉の量、湯の量、温度、浸出時間を調節しなくてはいけない。
沸かしてすぐのお湯を急須に入れて、揺すって緑色を出せばお茶の味がして飲めるものだと思っていた。カフェで働く私がコーヒーではなく緑茶を淹れる日が来るとは想像すらしなかった。

トレーに茶碗を載せ、立ったままの月島さんの前のテーブルに茶碗を置いた。

「粗茶ですが」

足を組んで座って待つ聡次郎さんの前に嫌みを込めてそう言った。
自社の商品を『粗茶』と言った私を気にすることもなく、聡次郎さんは茶碗を持ってお茶を飲んだ。

「………」

聡次郎さんと月島さんを緊張しながら見つめていると「まあまあだな」と聡次郎さんは空になった茶碗をテーブルに置いた。その評価に聡次郎さんが淹れたものよりはマシですと言い返したいのを堪えた。

「おいしいですよ」

月島さんは笑顔で言ってくれるから私も笑顔になってしまう。それがお世辞なのはわかっていても月島さんに微笑まれたら嬉しくなってつい笑い返してしまうのだ。
聡次郎さんはそんな私にまたバカにしたような顔を向けた。聡次郎さんの感想に不機嫌になった私は目を逸らした。

「誰に淹れ方を教わりました? 花山さんですか?」

「いいえ、川田さんです」

花山さんが教えてくれるわけがない。店舗のことはパートに任せたと言って川田さんに私を押しつけた人なのだ。

「川田さんですか。あの人にお茶を教えてもらうのはとても勉強になりますよ」

「そうなんですか?」

「はい、紅茶アドバイザーの資格を持ってますから」

「紅茶……」

耳慣れない資格だ。カフェ店員としてはコーヒーマイスターは知っているが紅茶にも資格があるなんて知らなかった。

「龍峯で紅茶の資格ですか……」

緑茶を多く扱っているのに紅茶の知識を持っていて役に立つのだろうか。

「今度は緑茶の勉強がしたいからと龍峯にパートとして入った方なんです。緑茶も紅茶もほぼ同じですけどね。元々社員並みに緑茶の知識もあった方なので、川田さんに教えてもらえればすぐに覚えられますよ」

「はい……」

確かに川田さんの淹れたお茶はおいしかった。老舗お茶屋で働くにはあれくらいの技術を身につけなければいけないのかもしれない。それが私にできるだろうか。

「川田さんには及ばないだろうけど、ここで働く以上は梨香も本気で覚えろ」

聡次郎さんの言葉に不安な気持ちを増大させられた。

「わかってます」

素っ気なく言い返した。
この人は励ましてくれたり、他人事だと突き放したりと態度ががらりと変わる。そばにいると疲れてしまう。穏やかな月島さんとは大違いだ。

茶碗の中身を空にした聡次郎さんは「二煎目」と私に茶碗を突き出した。無言で受け取ると給湯スペースに行き、残った電気ポットのお湯を急須に注いだ。30秒ほど待って茶碗にお茶を注ぐ。

お金のため。生活のためなんだ。期間限定なんだから。
聡次郎さんとの付き合いを頑張って耐えようと自分に言い聞かせた。

不機嫌な顔をしているだろう私を聡次郎さんは面白そうに眺めていた。


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