アフタヌーンの秘薬

秋葉なな

文字の大きさ
24 / 43
【中揉】廻り乾く心

しおりを挟む




退勤時間の午後8時。閉店作業を終えタイムカードを押し、事務所の麻衣さんに挨拶してビルを出ようとしたときスマートフォンが鳴った。応答すると、聡次郎さんの声が耳に馴染む。

「今本社に戻ってきた」

「お疲れ様です」

心なしかお互いに機嫌のいい声を出している気がする。付き合い始めたというだけでこんなにも変わるのかと驚く。

「会いたい……」

思わず私からそう告げた。

「俺もだよ」

聡次郎さんの優しい声が心地いい。

「今家にいるから来て」

「うん。今行く」

通話を切ってエレベーターに乗り16階のボタンを押した。途中の階で止まって残業をしている社員が乗ってきたら不審に思われるかもしれないけれど、誰にも邪魔されることなく16階に止まった。玄関のチャイムを押すとすぐにドアが開き、スーツのままの聡次郎さんは私の顔を見るなり腕を取ると中に引き込んだ。

「聡次郎さん?」

玄関に引っ張り入れられドアが閉まると、私の体は聡次郎さんの腕に包まれた。

「会いたかった……」

耳元で囁かれて体が疼く。だから私も聡次郎さんの耳元で「私も、数時間会えないことが寂しかった」と囁いた。

「弁当食べれなくてごめん」

「いいよ。また作ってくるから」

「今日の弁当は夕飯として食べるよ」

その言葉に私は「あ……」と呟いた。

「聡次郎さん……お弁当はその……」

「まさか俺の分も食べちゃったの?」

冗談ぽく笑う聡次郎さんに申し訳なさが増す。

「そうじゃなくて……月島さんに……」

「明人に?」

「聡次郎さん何時に帰ってくるかわからなかったから、代わりに……」

「明人にあげちゃったってこと?」

聡次郎さんの声は先ほどと打って変わって怒りがこもっている。

「なにそれ。俺のために作ったのに?」

「ごめんなさい……」

「そういうことかよ」

「え?」

急に私を抱きしめる腕の力が弱くなった。

「やっぱり明人が好きなんだ?」

「はい?」

聡次郎さんの言葉が理解できなくて間抜けな声が出てしまった。

「梨香は最初から明人ばっか見てたもんな」

「そんなことは……」

「どんなときも明人には笑いかけて、明人の言うことには素直に従ってきたよな」

先ほどまでの甘い雰囲気が一切感じられない、冷たい声に体が震える。

「そんなことないって! 月島さんのことは何とも思ってないよ!」

負けじと言い返すけれど、聡次郎さんは私の言葉など耳に入らないようだ。

「明人に近づきたいから弁当渡したんだろ」

「そんなわけない!」

「どうだか」

さっきまでの聡次郎さんとはまるで別人。契約を交わした頃の怖い人に戻ったようだ。怒っている理由が子供のようで、どうフォローしたらいいのか戸惑う。

「梨香はさ、俺のことなんて本当はどうでもいいんだろ。明人のそばにいたいから俺と契約したんじゃないの?」

「………」

これは否定できなかった。確かに始めは月島さんとの距離が近づくのではと期待したこともあった。

「今だって実は明人のそばにいたいから俺のことを好きなふりをしてるんじゃないの?」

思わず聡次郎さんの肩を押して離れた。

「そんなわけない!」

「俺を利用したんだろ」

「聡次郎さんには言われたくないよ!」

利用したのはどっちだ。理解しがたい偽装婚約に巻き込んだのはどっちだ。

至近距離で怒りをぶつけ合う。こんなことになるなら月島さんにお弁当を渡さなければよかった。月島さんに恋愛感情はない。容姿が素敵だから惹かれたのは確かだけれど、一緒に過ごした時間が私の気持ちを動かしたのだと聡次郎さんには伝わらない。

「いいこと教えてやるよ。明人には彼女がいるんだよ」

そう言った聡次郎さんの顔は私をバカにする意地悪な顔だ。

「だから明人が梨香を好きになることなんて絶対にない」

言葉でも私を押さえつけようとする聡次郎さんに恐怖を感じた。

「残念だったな」

私を好きだと言った口が私を傷つける言葉を吐いている。今度は私が泣きそうになる。その潤んだ目を見ても聡次郎さんは冷たい顔で私を見下ろした。

「聡次郎さんをただ利用してるだけだったら今この部屋には来てない!」

「………」

私の言うことなんて信じないと聡次郎さんの目が言っているようだ。それでも私は誤解を解きたくて必死になった。気持ちが通じ合ったと思ったらもう言い合いなんて馬鹿げている。

「私の気持ちは月島さんにはないの!」

「………」

「月島さんのことなんて何とも思ってない……」

「もう明人の名前を言うな」

一層冷たい声に私は口を噤んだ。
涙が溢れそう。そう思ったとき聡次郎さんの体が再び私を包み、唇が強く私の唇に触れた。驚いて離そうとしたけれど聡次郎さんの手が私の頭の後ろに回り、唇が離れられないよう押さえられた。

「ん! ……ん!」

腕で押しても聡次郎さんは離れない。ならば唇を噛んでやると口を開いた隙に聡次郎さんの舌が口の中に侵入してくる。

「っ……やっ……」

キスの合間に抵抗しても言葉にならない。私の気持ちを無視した強引さについに涙が頬を伝った。涙が聡次郎さんの頬にもつき、濡れた感触でやっと我に返った聡次郎さんは唇を離した。

「放してください」

今度は私が冷たく言った。ゆっくりと体から聡次郎さんの腕が離れ、私は乱れた呼吸を整えコートの袖で涙を拭った。
見上げた聡次郎さんの顔も不安で涙が溢れそうになっている。

「私、中途半端な気持ちで聡次郎さんに抱かれたわけじゃない……」

押し倒されて抵抗しなかったのは聡次郎さんが好きだったから。

「でももうやめましょう……初めからうまくいかないんです」

「梨香……」

「失礼します」

振り返って玄関のドアを開け外に出た。聡次郎さんは手を上げて私を引きとめようとしたけれど、その手に気づかないふりをした。後ろでドアが閉まっても1度も振り返らないでエレベーターに乗った。
龍峯のビルの外に出て駅まで歩いたけれど、聡次郎さんが追いかけてくる気配はなかった。

これで終わった。
聡次郎さんとの新しい関係は始まってすぐに終わったのだ。



◇◇◇◇◇



龍峯を退職することに決めた。もう聡次郎さんの近くにはいられない。今では大好きになってしまった日本茶の仕事から離れるのは惜しいけれど仕方がない。興味を持てることが見つかっただけでも私の人生に大きな影響があった。それだけは聡次郎さんに感謝している。

龍峯に出勤すると事務所には麻衣さんしかいなかった。花山さんは午後からの出社だという。
退職したいと言うのなら花山さんよりも麻衣さんに伝えたかったので好都合だ。花山さんに言ったらどんな嫌みを言われるか憂鬱だったから。

「おはようございます……」

「おはようございます。梨香さん、顔色が良くないけど大丈夫?」

「そうですか?」

思わず両手で頬を触った。確かに体はいつも以上にだるいしぼんやりする。今朝は起きるのも辛かった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

夜の帝王の一途な愛

ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。 ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。 翻弄される結城あゆみ。 そんな凌には誰にも言えない秘密があった。 あゆみの運命は……

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜

白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳 yayoi × 月城尊 29歳 takeru 母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司 彼は、母が持っていた指輪を探しているという。 指輪を巡る秘密を探し、 私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された皇后を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

結婚する事に決めたから

KONAN
恋愛
私は既婚者です。 新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。 まずは、離婚してから行動を起こします。 主な登場人物 東條なお 似ている芸能人 ○原隼人さん 32歳既婚。 中学、高校はテニス部 電気工事の資格と実務経験あり。 車、バイク、船の免許を持っている。 現在、新聞販売店所長代理。 趣味はイカ釣り。 竹田みさき 似ている芸能人 ○野芽衣さん 32歳未婚、シングルマザー 医療事務 息子1人 親分(大島) 似ている芸能人 ○田新太さん 70代 施設の送迎運転手 板金屋(大倉) 似ている芸能人 ○藤大樹さん 23歳 介護助手 理学療法士になる為、勉強中 よっしー課長(吉本) 似ている芸能人 ○倉涼子さん 施設医療事務課長 登山が趣味 o谷事務長 ○重豊さん 施設医療事務事務長 腰痛持ち 池さん 似ている芸能人 ○田あき子さん 居宅部門管理者 看護師 下山さん(ともさん) 似ている芸能人 ○地真央さん 医療事務 息子と娘はテニス選手 t助 似ている芸能人 ○ツオくん(アニメ) 施設医療事務事務長 o谷事務長異動後の事務長 雄一郎 ゆういちろう 似ている芸能人 ○鹿央士さん 弟の同級生 中学テニス部 高校陸上部 大学帰宅部 髪の赤い看護師(川木えみ) 似ている芸能人 ○田來未さん 准看護師 ヤンキー 怖い

冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない

彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。 酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。 「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」 そんなことを、言い出した。

処理中です...