婚約破棄された悪役令嬢ですが、ノーダメージです!

猫宮かろん

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「――お待ちください、マーヤ嬢! このまま帰られては困ります!」

大広間を出て、夜風を感じながら意気揚々と馬車へ向かおうとした私の背中に、悲鳴のような声が投げかけられた。

振り返ると、王家の紋章が入った重厚な礼服を着た初老の男性が、息を切らして走ってくるのが見えた。
王室の財務を取り仕切る侍従長、セバスチャンだ。

「あら、セバスチャン様。私、もう『ベルンシュタイン侯爵令嬢』ではありませんのよ? 先ほど、殿下から直々にクビを宣告されましたので」

「そ、そうですが……! 婚約破棄の手続きというものがございます! 書類への署名や、今後の話し合いを……」

セバスチャンは額の汗を拭いながら、必死に私を引き留める。
その顔色は悪い。
無理もないだろう。
次期国王が公衆の面前で、有力貴族であるベルンシュタイン家との婚約を一方的に破棄したのだ。
事後処理を任された彼の胃袋は、今ごろキリキリと悲鳴を上げているに違いない。

(かわいそうに。ストレスで痩せ細って……もっとプロテインを摂りなさい)

私は内心で同情しつつ、口元に優雅な(と自分では思っている)笑みを浮かべた。

「わかりましたわ。では、手短にお願いします。私、これから新しい人生(カフェ経営)に向けて忙しくなりますので」

「あ、ありがとうございます……! こちらへ」

案内されたのは、大広間の近くにある応接室だった。
ふかふかのソファに腰を下ろすと、セバスチャンが震える手で羊皮紙を広げる。

「ええと……まずは婚約解消の合意書です。こちらにサインを……」

「ええ、構いませんわ」

私は羽ペンを取り、さらさらとサインをした。
未練など微塵もない。
むしろ、筆圧が強すぎてペン先が潰れなかったことを褒めてほしいくらいだ。

「それで? これで終わりかしら?」

「は、はい。基本的には……あとは、その……慰謝料についてですが」

セバスチャンが言い淀む。
通常、王家側からの不当な婚約破棄であれば、莫大な慰謝料が発生する。
しかし、ジュリアン殿下は「マーヤのいじめ」を理由に破棄を宣言した。
これを理由に、慰謝料を支払わない、あるいは減額しようとする魂胆が見え隠れする。

「殿下は『有責はマーヤ嬢にあるため、慰謝料は支払わない』と仰っておりますが……」

「あら、そうですの」

私は予測済みとばかりに頷き、懐から愛用の魔道具を取り出した。
手のひらサイズの長方形の板。
表面には数字のボタンが並んでいる。
最新式の『魔導計算機』だ。

「では、計算させていただきますね」

「は? けい、さん……?」

「ええ。私が殿下のために費やした時間と経費、そして精神的苦痛の清算です」

カタカタカタッ!

静かな室内に、小気味よい打鍵音が響き渡る。
私の指先は残像が見えるほどの速度でボタンを叩いていた。
前世の記憶はないが、なぜかこの配置(テンキー)を見ると指が勝手に動くのだ。

「まず、婚約期間は3年と4ヶ月。日数にして約1200日です。この間、私が受けた『妃教育』の授業料、および教師への謝礼金。これは王家持ちのはずですが、一部実家が立て替えておりましたので請求します」

「そ、それは……確認が必要ですが……」

「領収書は全て控えてあります。次に、殿下の視察に同行した際の衣装代。王族の隣に立つために新調したドレスは、他で着回しがききません。全額請求します」

カタカタッ、ターン!

「さらに、殿下の公務の代行費用。殿下が『頭が痛い』『風邪気味だ』とサボられた際、私が代わりに決裁した書類の処理費用です。時給換算で……王太子の公務ですから、高めに設定させていただきますね」

「ちょ、ちょっと待ってください! そんな細かいことまで!?」

セバスチャンが目を白黒させる。
だが、私の指は止まらない。
止まるわけがない。
これは、私の「マッチョカフェ」の開店資金がかかっているのだ。

「そして何より重要なのが、『精神的苦痛』に対する慰謝料です」

「く、苦痛……? 殿下はあのように麗しいお方ですが……」

「ええ、見た目は麗しいでしょうね。ですが!」

私は計算機をテーブルにダンッ! と叩きつけた。
セバスチャンが「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げる。

「想像してください、セバスチャン様。私の好みのタイプは『岩をも砕く剛腕』と『彫刻のような大胸筋』を持つ殿方です。それなのに、あのような……風が吹けば折れそうな、白くて細い『もやし』のような殿下の隣で、3年間も猫を被り続けなければならなかった私の苦しみを!」

「も、もやし……!? 一国の王太子殿下を捕まえて、もやし!?」

「ええ、もやしです。茹ですぎたもやしですわ! エスコートのたびに『腕が折れないかしら』とヒヤヒヤし、ダンスのたびに『私がリードしたほうが早いのでは?』と葛藤する日々……。これは、拷問以外のなにものでもありません!」

私は熱弁を振るった。
あの貧弱な腕を見るたびに蓄積されたストレス。
筋肉不足による目の乾き。
それら全てを、金額に換算してやるのだ。

「というわけで、合計金額はこちらになります」

私は計算機の液晶画面をセバスチャンに見せつけた。
そこに表示された桁数を見て、侍従長の目玉が飛び出しそうになる。

「なっ……!? こ、国家予算並みではありませんか!」

「あら、妥当な金額ですわ。これでも『手切れ金』として少し負けて差し上げたんですのよ?」

「こ、こんな金額、私の独断ではとても……!」

「払えない、とは言わせませんわ」

私はすっと目を細めた。
悪役令嬢として培った(?)威圧感を全開にする。

「もしお支払いいただけない場合……殿下が公務をサボってリリナ嬢と裏庭で『いちゃいちゃ』していた際の日時と会話内容を記した『観察日記』を、国王陛下に提出することになりますが?」

「……!!」

セバスチャンの顔から血の気が引いた。
もちろん、そんな日記は存在しない。
だが、私が殿下の行動を把握していたのは事実だ(サボりの尻拭いをさせられていたから)。
ハッタリだが、効果は絶大だった。

「わ、わかりました……! 王家の『特別会計』から支出いたします……! ですから、その日記だけは……!」

「話が早くて助かりますわ。では、支払いは即金で。小切手でも構いませんが、ベルンシュタイン家御用達の『鉄の銀行』で即座に換金できるものに限ります」

「は、はいぃぃ……」

がっくりと項垂れるセバスチャン。
数分後。
私は震える手で書かれた高額小切手をしっかりと懐に収めた。

(やった……! これで最高級のエスプレッソマシンと、業務用の製氷機が買えるわ! あと、店舗の内装もこだわり抜ける!)

頭の中で、筋肉質な店員たちが働くカフェの図面が具体化していく。
壁にはポージング用の鏡を貼り、床はダンベルを落としても大丈夫なように補強して……。
夢は膨らむばかりだ。

「それではセバスチャン様、ごきげんよう。殿下にもよろしくお伝えください。『しっかり食べて運動してくださいね』と」

私は意気揚々と席を立った。
もはやこの城に用はない。

応接室を出て、私は再び廊下を歩き出す。
窓の外には、丸い月が輝いていた。

「待っててね、お父様。可愛い娘が、大量の資金を持って帰るわよ」

屋敷に待たせている馬車まで、私はスキップでもしそうな足取りで向かった。
今度こそ、本当に自由だ。
私の「筋肉(マッスル)ロード」は、ここから始まるのだ。

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