悪役令嬢は婚約破棄に狂喜乱舞する!

猫宮かろん

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「ふふ……ふふふ……!」

「……ミリオネ様? 大丈夫ですか? 壊れましたか?」

執務室のソファの上で、私が腹を抱えて震えていると、リゲルが心配そうに覗き込んできた。

彼の手には、隣国ロゼリア王国から届いたばかりの『諜報部定期報告書』が握られている。

「だ、大丈夫よ……っ! ただ、笑いが……止まらなくて……っ!」

私はヒーヒーと息をしながら、涙を拭った。

「まさか、現実でそれをやる馬鹿がいるなんて……! ギャグ漫画の世界よ、これ!」

「笑い事ではありません! 隣国の経済が崩壊寸前だという報告ですよ!?」

リゲルが悲鳴を上げるが、私には最高のコメディにしか聞こえない。

事の発端は、数分前。

リゲルが青ざめた顔で駆け込んできたことだった。

『ミリオネ様! ロゼリア王国で、物価が異常な高騰を見せています! パン一つが銀貨一枚になったそうです!』

パン一つが銀貨一枚。

通常なら銅貨数枚で買えるものが、数十倍の価格になっている。

典型的なハイパーインフレだ。

その原因について書かれた報告書の一文が、私の腹筋を崩壊させたのだ。

『聖女リリィの発言:「お金がないなら、印刷機をフル稼働させてお札をたくさん刷ればいいじゃないですか! そうすれば、みんなお金持ちになってハッピーです!」』

『カイル王子の決断:「天才か! 採用!」』

「……くっ、ふふっ……!」

思い出すだけで笑いが込み上げてくる。

「紙幣を、無限に、刷る……! 経済学の教科書の、第一章で『やってはいけません』と書かれている禁じ手を……! しかも、それを国のトップが……!」

私はバンバンとソファを叩いた。

「子供銀行券じゃないのよ!? 紙切れが増えれば、その分価値が下がるって、五歳児でも感覚でわかるでしょうに!」

「……実際、市場はパニックです」

リゲルが重苦しい口調で続ける。

「王家が大量に刷った紙幣で借金を返済し、公共事業の支払いを始めた結果、市中に現金が溢れかえりました。しかし、物の供給量は変わっていないため、当然のごとく物価が暴騰。商人は売り惜しみを始め、市民は紙くず同然になったお札を持ってパン屋に殺到しているとか……」

「地獄ね。自業自得の地獄」

私はハンカチで涙を拭い、ようやく呼吸を整えた。

そこへ、アレクシスが静かに口を開いた。

「……カイル王子には、止める側近がいなかったのか?」

「いたはずよ。財務大臣の爺やとか、口うるさいのが何人も」

私は肩をすくめた。

「でも、たぶん全員クビにしたんじゃない? あの王子、『否定されること』が大嫌いだから。『でも』とか『しかし』って言った瞬間に、『無礼者!』って怒鳴るのが常だったし」

「……なるほど。イエスマンだけで周りを固めた結果か」

アレクシスが冷ややかな視線を報告書に落とす。

「無能な指導者と、無知な聖女。最悪の組み合わせだな」

「最高のマリアージュよ。国を滅ぼすためのね」

私はニヤリと笑った。

「で? リリィちゃんは今頃どうしてるのかしら? 『どうしてパンが買えないの? お金はいっぱいあるのに!』って泣いてるんじゃない?」

「……報告によれば、その通りです」

リゲルが呆れたように読み上げる。

『聖女リリィは、「商人が意地悪をして売ってくれないのです! 悪徳商人を懲らしめてください!」と王子に訴え、王子は王都の主要な商店を強制捜査させています』

「うわぁ……」

私はドン引きした。

「火に油を注ぐどころか、ガソリンスタンドにミサイル撃ち込んでるわね。商人を敵に回したら、物流が完全に止まるわよ。明日には王都から食料が消えるわ」

「……笑い事ではありません、ミリオネ様。隣国の混乱は、我が国にも影響します。難民が国境に押し寄せる可能性があります」

リゲルが真剣な顔で訴える。

さすが、真面目な補佐官だ。

私は少し姿勢を正した。

「そうね。……アレク、国境の警備は?」

「既に増強してある。難民の受け入れ体制も準備中だ」

アレクシスは涼しい顔で答えた。

「ただし、無制限には入れない。労働力として使える者、技術を持つ者を優先的に選別する。……ロゼリア王国から流出する『人材』を、我が国が吸い上げる良い機会だ」

「……悪どいわねえ」

「君ほどではない」

アレクシスは薄く笑った。

「君なら、この状況でどう稼ぐ?」

「私?」

私は顎に手を当てて考えた。

「そうね……。ロゼリアの通貨『ロゼ』はもう信用ゼロだから、誰も欲しがらないわ。だから、今のうちに我が国の通貨『ガレリア・ドル』をロゼリアの闇市に流すわね」

「ほう?」

「向こうの貴族や商人は、資産を守るために必死で『価値のある外貨』を欲しがってるはずよ。今のレートなら、パン一個分のドルで、宝石や土地の権利書が買えるんじゃないかしら?」

私は指をパチンと鳴らした。

「つまり、底値での買い叩きよ。ロゼリアの国宝級の美術品、一等地の屋敷、優秀な職人……全部、紙切れ同然の値段で買い取れるバーゲンセール中よ」

リゲルがゴクリと唾を飲み込んだ。

「……お、恐ろしい……」

「ビジネスチャンスと言ってちょうだい。向こうも、パンが買えるなら喜んで絵画を差し出すわよ。Win-Winじゃない」

「……確かに」

アレクシスが満足げに頷く。

「リゲル、聞いたか? 直ちに工作員を送り込め。ロゼリアの資産を合法的に収奪するぞ」

「は、はい! 直ちに手配します! (このお二人が組んだら、世界征服も可能なのでは……?)」

リゲルが戦慄しながら退室していく。

部屋に残された私は、再びソファに寝転がった。

「あーあ、可哀想に。カイル殿下、今頃『こんなはずじゃなかった!』って頭抱えてるわよ、きっと」

「君が戻って助けてやる気はないのか?」

「ないわよ。沈没船に乗る趣味はないの」

私は即答した。

「それに、これは彼らが必要としていた『勉強』よ。現実は甘くないってことを、身を持って学ぶ高い授業料ね」

「……君がいなくなってから、わずか一週間で国が傾くとはな」

アレクシスが、しみじみと言った。

「君という『重石』が取れた途端、風船のように飛んでいって破裂したわけだ」

「重石って言わないでよ。……まあ、私が裏で必死に予算をやりくりして、彼らの浪費をカバーしていたのは事実だけど」

私は少し遠い目をした。

毎晩、徹夜で帳簿と格闘し、カイル王子の無駄遣いをキャンセルし、リリィの提案した謎のイベントを阻止していた日々。

あれは一体、何だったのだろう。

「……ねえ、アレク」

「なんだ」

「私、今すごく幸せだわ」

私は天井を見上げて呟いた。

「自分の仕事が正当に評価されて、無能な上司に邪魔されず、美味しいお菓子が食べられる。……これ以上の幸せってある?」

「あるぞ」

「え?」

アレクシスが立ち上がり、私の顔を覗き込んだ。

「私の妃になれば、その幸せが死ぬまで保証される」

「……っ!」

不意打ちだった。

至近距離で見つめられ、私は思わず息を呑む。

「……ま、またその話? しつこいわよ」

「重要な案件だからな。何度でも提案する」

「……今は保留! まだニート生活を満喫しきれてないの!」

私は顔を背けて誤魔化した。

心臓が少し早く脈打っているのは、きっとカフェインの摂りすぎだ。

そうに違いない。

「……ふん。まあいい、待とう」

アレクシスは楽しそうに元の席に戻った。

窓の外では、今日も平和な帝国の空が広がっている。

一方、国境の向こう側では、カイル王子と聖女リリィが、自ら招いた経済破綻の波に飲み込まれようとしていた。

だが、それはまだ序章に過ぎない。

「……お金がないなら、刷ればいい」

その無邪気な一言が、やがて国家転覆の引き金になることを、まだ誰も――私以外は――気づいていなかったのだ。
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