婚約破棄?これからは、推しの殿下のトップオタクとして生きていきますわ!

黒猫かの

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「……お嬢様。今一度お伺いしますが、その手に持たれた輝かしい物体は何でございますか?」

 学園の中庭、噴水近くのベンチの前で。
 執事のセバスが、額の青筋を隠しもせずに私に問いかけました。

「見て分からないかしら、セバス。特注の『純金プレート』よ。文字もしっかり彫り込んであるわ。『聖紀二〇二六年一月、ヴィルフリート殿下、この地に三十分間鎮座される。その際、右脚を上に組まれた』とね!」

「……それを、今からこのベンチに打ち付けるおつもりで?」

「当たり前でしょう。ここは殿下が読書をなされた聖なる場所。ただの木材として朽ちさせていいはずがありませんわ。歴史的遺産として、後世に語り継ぐべきですもの!」

 私は金槌を振り上げました。
 今日から私は、婚約者という公務から解放されたのです。
 学園での時間は、すべて「推しの軌跡を辿る旅」に費やすことができます。

「おやめなさい。学園の備品を勝手に加工するのは、公爵令嬢としてではなく、一人の人間として問題がございます。そもそも、許可を取っているのですか?」

「取ったわよ? 学園長に『殿下の威光を顕彰するための寄付金を一千万ほど積むので、中庭の景観を少し整えさせてほしい』って。快諾してくださったわ!」

「金に物を言わせた強行突破……! 学園長も学園長でございますが、お嬢様の熱意が歪みすぎていて、もはや恐怖を感じます」

「愛よ、セバス。これは無償の愛なの。……ああっ、見て! あちらの樫の木! 昨日の放課後、殿下が背中をお預けになっていた場所だわ!」

 私は金槌を放り出し(セバスが華麗にキャッチしました)、隣の木へと駆け寄りました。
 その幹には、まだ殿下の温もりが……いえ、殿下の背中の圧が残っているような気がします。

「……はぁ、はぁ。この粗い樹皮に、殿下の最高級のカシミヤの制服が触れたのね。なんて幸運な木なのかしら。今日からあなたの名前は『ヴィル・ツリー』よ。毎日私が、殿下の残り香に近い香水で霧吹きしてあげますわ!」

「メメル、貴様……そこで何をしている」

 背後から、低くて美しい、それでいてひどく不機嫌そうな声が響きました。
 振り返らなくても分かります。この鼓膜を震わせる心地よい低音、そしてわずかに混じる「本気で引いている」ニュアンス。

 推し、降臨。

「……あら、殿下! ごきげんよう。今日は一段と、御髪のキューティクルが光り輝いておりますわね。太陽光の反射率が昨日の五パーセント増しですわ!」

 私は優雅に(そして素早く)カーテシーを捧げました。
 ヴィルフリート殿下は、リリアンさんを伴って、引きつった笑顔でこちらを睨んでいました。

「……昨夜、あれほど私の視界に入るなと言ったはずだが? なぜ翌日の昼休みに、私の目の前で木を愛でているんだ」

「誤解しないでくださいませ、殿下。私は殿下を見に来たのではありません。殿下が『居た場所』をメンテナンスしに来ただけですわ。つまり、私は殿下ではなく、殿下の残滓を見ているのです。ですから、視界に入っているのは、厳密には殿下の方から私の視界に侵入してきたことになりますわね!」

「詭弁を弄するな! その手に持っている怪しい霧吹きは何だ! それに、あのベンチに打ち付けられた悪趣味な金色の板は!」

「ああっ、お気づきになりましたか! 殿下の御尻が触れた記念すべき位置をミリ単位で特定し、そこに座る不届き者が現れないよう、『着席禁止・聖域指定』の文字を刻んでおきましたの!」

 殿下は、頭を押さえてよろめきました。
 リリアンさんが慌ててその腕を支えます。

「殿下、大丈夫ですか? メメル様……あんなところに金プレートを貼ったら、誰も座れなくなってしまいます。困る生徒さんもいるのではないでしょうか……?」

 リリアンさんが、おどおどしながらも正論を吐きました。
 私は彼女に向かって、慈愛に満ちた(と自分では思う)微笑みを向けました。

「リリアンさん、甘いわ。殿下が座った場所に、平民や他の貴族が座るなんて、それこそ不敬ではありませんか? あのベンチは今後、ガラスケースに入れて保存するのが礼儀というものです。大丈夫、代わりに私が、殿下の座り心地を再現した『ヴィル・ベンチ・レプリカ』を百脚ほど寄贈しておきますから」

「……百脚もいりませんよぉ!」

 リリアンさんの叫びが中庭に響きます。
 殿下は、真っ赤な顔をして私を指差しました。

「メメル! 貴様、婚約破棄されてショックで頭がおかしくなったのか!? 普通なら、泣いて部屋に閉じこもるか、私を呪うかするだろう!」

「呪うなんてとんでもない! 私は感謝しているのですわ。婚約者という重責を解かれたことで、私は一人の『ファン』としての純粋さを取り戻しました。今の私は、殿下の幸せだけを願う菩薩のような心境です」

「菩薩が私のベンチを金メッキにするか! いいか、今すぐそれを剥がせ! 学園の景観を汚すな!」

「景観を汚す? いいえ、殿下。これは『付加価値』です。数十年後には、この学園は『ヴィルフリート殿下の聖地』として、国中から観光客が押し寄せる名所になるのですわ。私はそのための先行投資をしているに過ぎません」

「……セバス。貴様からも何か言え。主人の暴走を止めるのが執事の役目だろう!」

 殿下が助けを求めるようにセバスを見ました。
 セバスは、深々と頭を下げ、冷徹な声で答えました。

「……恐れながら殿下。私、すでにお嬢様を止めることは諦めております。現在、私はお嬢様が打ち付けたプレートが水平であるかを確認する『水準器』としての職務に専念しております」

「貴様もか! この主従、救いようがない!」

 殿下は、吐き捨てるように言って、リリアンさんを連れて逃げるように去っていきました。
 去り際、少しだけ振り返って私を見たその表情。

 「蔑み」の中に、ほんの少しの「戦慄」が混じっていました。
 ……ああっ、新しい! 「ゴミ瞳」の進化系、「ゴミを見るような瞳・恐怖のスパイス添え」ですわ!

「……セバス。今の殿下の表情、写生できたかしら?」

「ご安心を。隠しカメラ……いえ、魔法の記録鏡でバッチリと。後ほど、アルバムの『婚約破棄・二日目』の項に追記しておきます」

「頼もしいわ、セバス。さあ、次は学食の『殿下がいつも注文される日替わり定食』を、永久欠番にするための交渉に行くわよ!」

「……生徒たちが飢えることになりますが、よろしいのですか?」

「いいのよ。代わりに私が『殿下をイメージした特性マフィン』を全校生徒に無料で配り続ければ、みんな納得するわ。マフィンの表面には、もちろん殿下の御顔を焼き印するけれど!」

「……学園が宗教施設になるのも、時間の問題のようでございますね」

 私は意気揚々と、金槌を手に次の目的地へと歩き出しました。
 婚約破棄から二日。
 私の「推し活」は、まだ序の口に過ぎないのです。
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